先日「宇佐山城」「清水山城館・清水山城」に登城した後にブログ「お城紀行」を優先して投稿しましたので、「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズをお休みにしましたが、本日から再開したいと思います。引続き「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方、ブログをご覧いただきますようよろしくお願いいたします。

 

「家康」等の出来事

先日投稿した「福井城」「彦根城」は、1607年に完成させました。

 

1608年には、「豊臣秀頼」が「左大臣」(内大臣から)になるという情報を得た「家康」はそれを阻止します。

 

そして「家康」は、築城や城の改修を急速に進めましたが、殆どは全国の大名を動員しての「天下普請」でした。これは、「家康」が全国の大名を動員できることを、「豊臣家」や「豊臣系大名」、その他大名にも示すことに主眼があったようです。

 

きたるべき時が来れば、「豊臣家」と一戦を交えることを想定してのことで、1609年には、「大坂」の北方である「丹波篠山」を抑えるべく築城させました。それでは、ここで「丹波篠山城」をご紹介します。

 

 

「篠山城」の位置↓

 

 

『来る「豊臣方」との一戦を想定して各種仕掛けを施した「篠山城」(兵庫県丹波篠山市)』

 

篠山城の歴史と城主>

この地には、近くに「八上(やがみ)城(※)」があり、1608年に「松平(松井)重康」が入城しましたが、当時、「大坂城」の城主だった「豊臣秀頼」を牽制する為に、「徳川家康」は20諸侯の大名に賦役を課す天下普請で「篠山城」築城を命じて、縄張奉行には「藤堂高虎」、普請総奉行には「池田輝政」が指揮をとって僅か1年で仕上げました。

 

※「八上城」は、室町時代から戦国時代にかけて「波多野氏」が本拠としたお城で、「波多野秀治」の時に、「織田信長」の命を受けた「明智光秀」によって兵糧攻めに会い落城します。

 

天守台からのぞむ高城山(頂上は八上城跡)

 

そして「八上城主」だった「重康」が入城しました。「重康」は「家康」の落胤説があり、「重康」の「康」の字は「家康」から授かったくらい、「家康」にとって信頼できる家臣でしたので、この重要なお城を任せられたようです。

 

当時は、来たるべき「豊臣方」との戦いに備えて「天守」を建造すべく「天守台」も備えはしていましたが、情勢が「徳川方」に有利になっていくと「天守」の必要性が薄まり、更に1615年には「大坂夏の陣」で決着もついたことから「天守」は築城されませんでした。

 

「豊臣家」が滅んだ1615年に、「松平(藤井)信吉」が入り「大坂方」の動きを監視する必要もあることから「譜代大名」が置かれます。以後も「松平(形原)家」「青山家」と「徳川家」に近い譜代大名のお城となります。そして「青山家」は1748年から城主となって、約120年間統治して幕末・維新まで続きます。

 

縄張り>

お城は、「本丸」「二の丸」が並列に並びその周囲をほぼスクエアに「内堀」が囲います。更に「内堀」の周囲を「三の丸」が囲い、その周囲を幅広い「外堀」がスクエアに囲みます。

 

そして最大の特徴は、北・東・南側に「堀」を伴う「角馬出」を設けていることです。これを見るだけでも、当時としてはかなり守備力の固さと共に攻撃的な曲輪配置となっています。

 

そして、「外堀」の南側から西側にかけては武家屋敷が並んでいて、「八上城」麓から移ってきた城下町は「北側」から「東側」にかけて発達していき、現在でもその名残を多く残す「伝統的建造物群保存地区」があります。

 

縄張図↓

絵図↓

 

戦闘態勢を意識した仕掛け

 馬出し

「篠山城」では「北・東・南」の三か所に「馬出し」が配備されました。

 

「馬出し」とは、「虎口」(出入口)の外側に堀を隔てて虎口を守るために造られた小さな曲輪のことです。「虎口」と「馬出し」との行き来は「土橋」や「木橋」で繋がれるのが一般的で、「馬出し」の周囲にも「堀」を設けます。

 

攻めてくる敵は、「馬出し」があることで真直ぐに「虎口」を攻められない一方、城側は「馬出し」に兵を待機させておけば弓矢や鉄砲によって攻撃が可能となります。

 

特に、戦国時代に発達し、「丸馬出し」は「武田家」が、「角馬出し」は「後北条家」が特異としたもので、関西では

非常に珍しい防御施設ですし、「近世城郭」ではなかなか現存していないですが、「篠山城」では「南馬出し」が周囲の堀に囲われてほぼ完全な形で残りますし、「東馬出し」も修築されて残っています。ただ、「北馬出し」は破壊されて一部「土塁」がのこるだけになっています。

 

「南馬出」とその周囲を取り巻く堀↓

「南虎口」から「南馬出」への土橋↓

 

南馬出」の内部は、結構広い敷地面積で、周囲は高い土塁で囲われています。この後紹介する「東馬出」はかなり手が加えられた感じですが、こちら(南馬出し)は当時のまま残された感じがします。

 

「南馬出」の土塁(内側) ↓

「南馬出」の内側と土塁↓

 

東馬出」は、かなり手が加えられ整備されています。周囲は「腰巻石垣」で「土塁」はそんなに高くなさそうで、「南馬出し」の比べると規模も小さいです。

 

「東馬出」の北東隅と周囲の堀↓

「東馬出」(西側からのぞむ)↓

 

大手(北)馬出し」は、元々は「大手門」前に置かれた堅固な「馬出し」で「土橋」の両脇には「門」まで構えられていました。現在は、「土塁」の一部が残るだけです。

 

「北馬出し」の一部残る土塁↓

 

高石垣と多くの横矢掛り、犬走り

「本丸」を取巻く石垣は、「藤堂高虎」好みの「高石垣」でしかも隅石は直線的になっていて、多くの「横矢掛り」を導入して、石垣を上る敵兵士に対して攻撃を仕掛けることが出来るようになっています。

特に、東北隅は「鬼門」にも当たることから、大きく凹まして「鬼門欠け」を採用しています。

 

東面「高石垣」と「犬走り」↓

「二の丸東南隅櫓台」(西側から)「高石垣」と「犬走り」↓

「本丸東南隅櫓台」の「高石垣」↓

「本丸北東隅櫓台(二重櫓)」と二の丸跡石垣と「鬼門欠け」と「犬走り」↓

 

更には、「高石垣」下の周囲を見ると「犬走り」が取り巻いています。これらも、敵が攻めてきた時を想定して石垣下を効率的に移動して反撃ができる手段として採り入れています。

 

二の丸跡東南隅と「犬走り」↓

 

広大な外堀

「本丸」を囲う内堀とともに、「三の丸」を囲う幅広い「外堀」があります。現在でも水を満面に湛えていて防御力の高さを示しています。

 

北堀↓

東堀↓

南堀↓

西堀↓

 

「主郭(二の丸)」と「大書院」>

元々「本丸」であった所が「二の丸」となり、その東側の一段高い所が「本丸」でその南東隅には「天守台」が築かれました。

 

そして「二の丸」「本丸」の各隅には二重櫓が築かれ、それらが「多門櫓」で結ばれ外部からの攻撃には万全の態勢を取っていました。そして「二の丸」の西側には「三重櫓」が築かれていたようです。

 

「二の丸」には「大書院」を中心に南側にかけて「二の丸御殿」が築かれていました。

 

それでは現在の様子を見て行きましょう。

 

大手門から鉄門まで

「大手門」は主郭に入るメイン入口です。そして「外堀」を越した辺りが「大手門」跡ですが、「大手(北)馬出し」と共に失われています。

 

更に「本丸跡」に入る入口方向へは斜めに道が誘導してくれます。「史跡 篠山城跡」碑が立つ場所が「北廊下橋門」でそこから坂道となっていますが、ここに「廊下橋」が「北内堀」の上を跨いでいた所です。 

 

「北廊下門」跡と「廊下橋」跡↓

 

「廊下橋」の先には、高い両脇を石垣で固めた「表門」があり右に折れ曲がると「中門」の石垣が立ち二つの門によって枡形を形成します。更に、左に折れ曲がった所には「鉄門」が置かれて「中門」と枡形を形成しています。

 

「表門」跡から桝形で奥の「中門」跡へ右折れる↓

「中門」跡から左へ「鉄門」跡に↓

 

二重の枡形によって、「主郭(二の丸)」の入口を堅固にしています。現在の「鉄門」は、管理用として簡単な模擬「冠木門」を設けています。

 

大書院(復元)

城内最大の建造物だった「大書院」は、1944年に焼失してしまいましたが、2000年に、古写真や学術調査に基づいて木造復元されたものです。

 

「大書院」の古写真(表門跡から)↓

 

南側の「二の丸御殿」跡から見ると「大書院」の大きさと立派さが実感できます。よく写真で撮られるアングルで古写真と現在の写真です。

 

大書院の入口↓

大書院(南西方向から、南側から、南東方向から)↓

 

 

「大書院」の大きな「三花蕪懸魚(みつばなかぶらけぎょ)」↓

大書院の古写真↓

 

天下普請で建築されたこの「大書院」は、28m×26mとのサイズで「二条城の御殿」を参考にして建築されているようです。内部も豪華に内装されています。

 

それでは「大書院」の中を覗いていきましょう。まず「大書院間取り」ですが、ほぼ正方形の形をしていて周囲を「広縁」という廊下で囲み、その中に藩主が座る「上段の間」を中心に9つの間があります。これらは全て復元されていますが、資料展示等されている間もあります。

 

大書院の間取り

 

「大書院」は、藩主の公式行事を行う場所であり、「上段の間」には床、違い棚、帳台構えを設けています。また「虎の間」だけが2室分とられ、大広間として使用されていたようです。

 

上段の間と次之間↓

帳台構え↓

織り上げ格天井↓

大書院内の葡萄の間↓

次の間と葡萄の間との間の襖↓

板襖(二の丸御殿で使用されていた襖)↓

虎の間↓

 

「大書院」の南側に拡がる広場に出ますと、そこには「二の丸御殿」跡の平面表示がされています。勿論、「大書院」とは繋がっていました。西側から「奥御殿」「中御殿」「小書院」が繋がって並んでいたようです。そして、「中奥御殿」の南側には、築山を伴う「中奥御殿庭園」が拡がっていました。

 

「二の丸御殿」平面図↓

「二の丸御殿」の平面表示↓

 

「二の丸」の周囲には、多聞櫓がグルっと囲い、丁度西側の中間ぐらいに「三重櫓」が、東南端には「二重櫓」が建っていました。

 

 「二の丸」跡周囲の「多聞櫓」跡と「三重櫓」跡付近↓

 

「二の丸」南側には、「埋門」が置かれていて「三の丸」へ下りることができるようになっています。この「埋門」跡の両石垣には、この門を担当した大名の刻印が見られ、特に西側の「鏡石」には、「三佐之内」の文字の彫りが薄っすらとみられます。これは、「池田三佐之内輝政」のことらしく、この門の西側を「池田輝政」が担当した証です。

 

二の丸南端の埋門跡↓

「三佐之内」の文字の彫り↓

 

「主郭(本丸)」と「天守台」>

「二の丸」跡の東側にある石段を上がり「本丸(殿主丸)」跡にまいります。この広いエリアには、藩主の「青山家」を祀ると「青山神社」と、最後の藩主「忠良」の息子である「青山忠誠 頒徳」碑が立ちます。

 

 壇上は「本丸」跡(中は「青山神社」)↓

 

「本丸(殿主丸)」跡の南東隅には「天守台」が築かれています。冒頭お話したように、「天守」を建てる必要がなくなったのですが、「天守台」の規模からすると、三層の「天守」を上げる予定だったのでしょうか。

 

「天守台」(本丸内から北西方向から)↓

「天守台」(三の丸跡、外堀から南東方向から)↓

 

「本丸」の各隅には二重の「隅櫓」が建っていたようで、現在でも「櫓台」が見られます。また、「本丸」の石垣には、「刻印」を目にすることもできます。

 

「本丸北西隅櫓台」↓

「本丸」石垣に見られる「刻印」↓

 

「三の丸」跡と「御徒士町武家屋敷群」>

「本丸」跡からは、南外掘沿いや広々とした三の丸」跡、その南側を守備する「土塁」「南馬出」に続く「南門」跡が手に取るように見下ろせます。

 

「三の丸」跡と南側を守備する「土塁」↓

「南馬出」に続く「南門」跡↓

 

東側から北側に目を移すと、「三の丸」跡東側内に「篠山小学校・幼稚園」が建っていることから、「三の丸」の大きさ、広さが実感できます。 また、「本丸」と「二の丸」を取り巻く「内堀」も、整備されたのか良く残されています。

 

 「三の丸」跡東側内に建つ「篠山小学校・幼稚園」と「内堀」↓

 

お城の「西外堀」の西側に拡がる「御徒士町武家屋敷群」は、武士の中でも、戦いになれば馬に乗ることが許されていない身分の武士達で平時は役人としてお城勤めをする武士達が居住した屋敷群です。

 

「御徒士町武家屋敷群」入口付近↓

 

土塀と棟門の中に茅葺入母屋造の主屋の建物が特徴で、特に「安間(あんま)家」は史料館を兼ねているので中を見ることができます。昔の下級武士の生活が偲ばれます。また、「外西堀」沿いには、17世紀初めころに建てられた「小林家長屋門」も立派な門です。

 

御徒士町武家屋敷群の「安間(あんま)家」棟門と主屋↓

御徒士町武家屋敷群の「安間(あんま)家」主屋↓

御徒士町武家屋敷群の邸↓

御徒士町武家屋敷群の邸↓

御徒士町武家屋敷群の「小林家長屋門」↓

 

この「青山歴史村」の敷地には、「八上城」の「城門」の遺構と、明治時代初めの「篠山藩」庁舎の遺構「旧篠山藩地方役所門」も移築されています。

 

「八上城城門」の遺構↓

「旧篠山藩地方役所門」↓

 

家康のできごと>

今回の期間は、来る「豊臣家」との戦いに備えるべく、「豊臣家の恩顧大名」に対する威嚇を主体に周囲の防衛のためのお城づくりを命じる一方で、「大坂城」を中心に睨みを利かす築城も進みだしました。

 

次回は、いよいよ「家康」は、「豊臣秀頼」を滅ぼすべく対峙する為に、具体的な攻城作戦や守備作戦をとるための築城が進められます。

 

次回は、「丹波亀山城」「名古屋城」「高田城」を順次ご紹介したいと思います。

 

 

 

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