2/10(土)に、城友と一緒に湖西(琵琶湖西側)の山城巡りへ出かけ、1城目は「大津京駅」が最寄りの「宇佐山城」、2城目は最寄り駅「新旭駅」から「清水山城」に登城しました。

 

一昨日のブログでは「清水山城」と共に国指定史跡に指定されている「清水山城館」跡をお届けしましたが、本日のブログでは「城館」跡から山を少し上った「清水山城」(滋賀県高島市)をお届けします。

 

清水山城」の歴史と城主については、1235年に「佐々木高信」が田中郷の地頭となり、その一族である「越中氏」「能登氏」「朽木氏」「永田氏」「横山氏」「田中氏」「山崎氏」が、高島郡で鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍しました。この一族を「西佐々木七人」「七頭」等と呼ばれていて、この「西佐々木一族」の惣領家である「佐々木越中氏」が城主と考えられているそうです。

 

清水山城」の縄張りは、「主郭(曲輪1)」を中心に、南東・北西・南西の三方の尾根上に階段状に曲輪を配置しています。お城の北方向の背後「饗庭野方面」が弱点であった為に、北西の尾根の防御を強めています。

 

縄張図(「清水山城 散策マップ」より)↓

曲輪図(現地に掲出分、上記マップの上部分)↓

 

「城館西屋敷」跡の「加賀殿」脇を北方向へまっすぐ伸びる「大手道」を進み始めましたが、途中から「南東尾根上曲輪群」の山道を上がって行きました。右側には、4箇所の曲輪跡が並び、「曲輪11」跡と「曲輪10」跡の間には大きな「堀切」が見られ、「曲輪10」跡と「曲輪9」跡の間の谷間は平坦になっていました。

 

「曲輪10」跡↓

「曲輪10」跡と「曲輪9」跡の間の平坦地↓

「曲輪8」跡↓

 

その前を抜けると目の前には覆いかぶさるように約20m程の小山が出現(標高210m)、この頂上が「曲輪1」です。この小山の山肌に4本の「畝状竪堀」が一見してもすぐ解る凹凸で山頂から麓まで設えてありましたが、写真に撮るとなるとなかなか表現が難しいでした。ただ中腹迄上がって横から撮ると少しはそれらしく写ってくれました。

 

この上が「曲輪1」、僅かに凹凸が分る「畝状竪堀」↓

少し斜めから撮ると「畝状竪堀」の凹凸が分る↓

横から撮った「畝状竪堀」↓

 

しみじみと眺めながら、何枚も写真を撮った後、頂上へ向かうと頂上からの方がその凹凸感が良く解る様でした。

 

「曲輪1」上から見下ろして撮った「畝状竪堀」↓

 

「曲輪1」跡の東端には電線の鉄塔が立ち、そこからの眺めは1城目の「宇佐山城」よりも「琵琶湖」の「湖西」沿岸と対岸の「湖東」が頗る良く見通せました。「宇佐山城」よりもかなり北側(電車で37分の距離)に位置していますので、雪を被った「伊吹山」や山あいと山あいの間の平坦地となっている「関ヶ原」方面、そして湖内の「竹生島」を見渡すことができる大パノラマでした。

 

鉄塔が建つ「曲輪1」頂上(東方向)↓

「曲輪1」跡から北方向の雪山↓

平坦地が「琵琶湖」湖東の「関ヶ原」方向↓

「琵琶湖」に浮かぶ「竹生島」↓

 

「曲輪1」跡の南側には「出枡形虎口」があり、北側には礎石が発掘された場所があり、現在はその礎石が嵌め込まれていて当時の「常御殿」の復元絵図も掲出されていました。そこでは生活をしていた痕跡として土器、包丁、刀つば、建築用鉄くぎが出土したそうです。

 

「曲輪1」跡南側の「出枡形虎口」↓

「曲輪1」跡の「礎石」↓

「礎石建物」の復元絵図(現地に掲出)↓

「曲輪1」跡の南東方向↓

 

「曲輪1」跡の北側は一段下がり、北側には「土塁」を設けて、その下には「竪堀」が2本「切通し」に向かって施されています。

 

「曲輪1」跡北側の「土塁」↓

 

その「切通し」へ向かうべく、「曲輪1」跡から「畝状竪堀」脇を再度下りて、東側の山道を進みますと、東側の山裾に向けた「竪堀」が見られました。この城は、各所に仕掛けについての案内表示があるので非常に親切で、あまり見逃すことも少ないように思えます。

 

「曲輪1」跡の東下にある「竪堀」↓

「竪堀」脇に見られた「尾根土橋」↓

「曲輪1」跡の東山腹に見られる「竪堀」(下から見上げる)↓

 

「曲輪1」と「北西尾根上曲輪群」との間には、両脇から迫る「切通し」をシッカリと見ることができます。その脇にある「北西尾根上曲輪群」に上る階段を上がると小さな曲輪群(4箇所)が並び、「5曲輪」には「土塁」が北から東にかけて築かれ、その下には「横堀」が掘られていました。

 

「曲輪1」と「北西尾根上曲輪群」との間の「切通し」↓

「北西尾根上曲輪群」へ上がる階段↓

「北西尾根上曲輪群」の小曲輪↓

「曲輪5」跡の「土塁」下の「横堀」↓

 

「5曲輪」跡から北側を見下ろすと、凄い深い「堀切」が見られ、更にその底からは東西2本ずつの「畝状竪堀」が施され、それが下まで続いていました。

 

「5曲輪」跡から北側を見下ろすと凄い深い「堀切」↓

2本の「畝状竪堀」(東方向)↓

2本の「畝状竪堀」(西方向)↓

2本の「畝状竪堀」(西側)を見上げる↓

 

特に西側は、かなり下まで木々が植わっていましたが、その間を縫ったような形の数本の「竪状畝堀」を見ることができました。

 

数本の「畝状竪堀」↓

「大堀切」底を見あげる↓

「大堀切」の「土橋」↓

 

この「大堀切」の北側は、非常に厳しい「切岸」が施された尾根の断面が見られ、上へ上がると「曲輪」となっていましたが、更に小規模な「堀切」そして長い「曲輪」の北側には「大堀切」が東西に切られていて、北部が弱いとのことで、何重にも亘る仕掛けが設けられているのが分かりました。

 

「大堀切」の北側(非常に厳しい「切岸」が施された尾根の断面)↓

「大堀切」の北側の「曲輪」(非常に厳しい「切岸」)↓

北側の「曲輪」跡とその向こうの「曲輪」間の「堀切」↓

その「堀切」を越えると長い「曲輪」跡が続く↓

長い「曲輪」跡の北側にも「大堀切」↓

 

私達は、先ほどの「曲輪1」の山肌に設けられた「畝状竪堀」まで戻り、「切岸」が効いた「曲輪1」下の道を東へ進んで「南西尾根上曲輪群」の「曲輪2」跡に至りました。「曲輪1」跡と「曲輪2」跡の間も半端ない「大堀切」となっていて上から見下ろすと深い底が見えました。

 

「曲輪1」の縄張図(現地に掲出)↓

「曲輪2」跡と「曲輪1」跡の間の「大堀切」↓

「曲輪2」跡と「曲輪1」跡(奥)の間の「大堀切」↓

「曲輪2」跡から見下ろす深い「大堀切」↓

 

「曲輪2」跡は「土塁」で囲われていて、特に南側の「土塁」には幅が見られました。その南側、「曲輪3」跡との間は「大堀切」となっていて先ほどの「曲輪1」跡の高さに匹敵するくらいの深さがあり、上から虎色ロープが数本たらされていましたので一瞬下りるのを躊躇いましたが、意を決して下りることにしました。

 

「曲輪2」跡の南側「土塁」↓

 

一番下りやすそうなロープを選び一人ずつ「大堀切」底に着くまで待って降りましたが、ロープが少し短く最後は滑り下りたという感じになりました。

 

「曲輪2」跡から見下ろした「曲輪3」跡との間の「大堀切」↓

「曲輪3」跡と「曲輪2」跡との間の「大堀切」底↓

 

「大堀切」底から「曲輪2」跡を見上げて、帰りはロープを使ってよじ登らないといけないので少し恐怖感がありました。

 

「大堀切」底から見上げた「曲輪2」跡↓

 

「曲輪3」跡へは割と簡単に上がりその次の「曲輪4」跡の間の「堀切」もそんな深くは無かったので「曲輪4」跡までは辿り着きましたが、それ以降はもう断念して戻りました。

 

「曲輪3」跡と「曲輪4」跡の間の「堀切」↓

 

やはり「曲輪2」跡をよじ登るのは大変腕の力が必要でしたので、翌朝は右肩から腕にかけて筋肉痛になっていました。

 

城友が「曲輪2」をよじ登っています↓

 

以上の様に、非常に多くの仕掛けが施された面白みのある山城と、麓の広々とした規模の「城館」跡はなかなか見られないレア物でした。当初は「大溝城」「高島陣屋」を巡る予定でしたが、たまたまネットでこの近辺のお城を見ていて「国指定史跡」とあったのでググって掲載されていたのを見つけたのが良かったです。

 

私はこの日、中学時代の「仲良し会」(総勢18名)の宴会開始時間を1時間も遅れての参加となりましたが、「清水山城・清水山城館」に行けたことで後悔はしませんでした。1時間遅れた分は、二次会(といってもお茶会ですが)は22時半まで皆さんと付き合ってこれも楽しく過ごすことができました。この日は、29,500歩も歩きましたが、全く疲れはありませんでした。

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー