2/10(土)に、城友と一緒に湖西(琵琶湖西側)の山城巡りをしました。

 

「大阪駅」で待合せ8時の新快速で「京都駅」へ、そこから「湖西線」の電車に乗り換えて「大津京」で下車しました。

 

まず1城目は、以前から双方とも登城したかった「宇佐山城」(滋賀県大津市)です。当城は、「宇佐山八幡宮」から登城しますのでそこを目指し約15分程歩きました。

 

「宇佐山八幡宮」は境内が広い神社のようで、坂道をどんどん上がって行くと拝殿等があるようでしたが、途中右手方向に進み、いよいよ登城開始です。

 

「宇佐山八幡宮」鳥居↓

 

その前に、「宇佐山城」の歴史と城主についてお話をしておきます。

 

当城は「森可成」が築きますが、「織田信長」が摂津で「三好勢」のお城を攻めている間に、「浅井・朝倉連合軍」が坂本へ攻勢を強めます。更に中立を取っていた「比叡山」勢力が「浅井・朝倉連合軍」に加勢した為、「森可成」等が討ち死にしてしまいます。

 

しかし、「連合軍」は急峻な「宇佐山城」を落とすことができず、「信長」軍が「三好氏」との戦いより優先して「連合軍」と激突して勝利を収めますが、「連合軍」は「比叡山」に籠り膠着状態になったので、「信長」は「正親町天皇」による和睦を要請します。

 

その後「信長」は、恨みを持った「比叡山」に対して「明智光秀」に命じて焼き討ちを敢行させました。

 

焼き討ちを成功に導いた「明智光秀」は「宇佐山城」主となり、その後「丹波攻め」の際には、「丹波」と「坂本」を結ぶ中堅点として機能させます。

 

宇佐山城」の縄張りは、標高335mの「宇佐山」の尾根を南北に使用した「連郭式縄張り」で、「本丸」「二の丸」を南側に置き、「大堀切」を挟んで北側に「3の丸」を築いています。更に北側には「三の丸」から離れて段曲輪を持つ「北曲輪」を出曲輪として設置しています。

 

標高335mの「宇佐山」↓

「縄張図(現地「本丸」跡に掲出されていた図に赤字で補充しました)↓

 

 

それでは、麓から登城を開始します。

 

思った以上に急斜面の山道を途中まで上ることとなり、その後は九十九折れで上がって行くと、目の上に石積みが見えたことによって、上り道の疲れが一気に吹っ飛びます。

 

急斜面の山道を上る↓

最後は「九十九折れ」の山道↓

「本丸」下の「腰曲輪」跡東面に貼りつく石積み↓

「本丸」下の「腰曲輪」跡東面に貼りつく石積み↓

 

この「石積み」は「本丸」下の「腰曲輪」跡東面に貼りつく石積みでした。それを見ながら斜面を左手に曲がり込むと、広い「大堀切」に行き当たり、東西に長い竪堀が続き落ちていきます。特に西側に落ちる「竪堀」は道路化しています。

 

「大堀切」底(奥は西側へ落ちる「竪堀」)↓

「大堀切」底から西側へ落ちる「竪堀」↓

「大堀切」底から東側へ落ちる「竪堀」↓

 

まず「大堀切」右手の「三の丸」跡へ上がると、その先からは「琵琶湖大橋」よりも南側の「南琵琶湖」が一望でき、手前の大津市内、湖東の近江富士等が綺麗に見渡すことができました。

 

「三の丸」跡↓

「三の丸」跡から望む「琵琶湖」と「大津市街」↓

「三の丸」跡から望む「琵琶湖」(坂本方向)↓

 

「三の丸」跡を下りて、「本丸」跡へは高さがある階段を上りますが、まず「本丸」跡下を「横堀」に沿って右へ廻り込んでいくと、その斜面には多くの石が斜面に貼りつくとともに、石積みも見られました。

 

「横堀」跡↓

「本丸」跡下の「石積み」↓

「本丸」跡下の「石積み」↓

「本丸」跡下の「石積み」↓

 

「本丸」跡へ階段を上がると「本丸」跡にはTVの電波塔が立ちます。その脇をすり抜けていきますが、「本丸跡」東下は「切岸」で非常に厳しく反り立っています。

 

階段を上がるとそこは「本丸」跡↓

「宇佐山三角点 335m」↓

「本丸」跡にはTVアンテナが立つ↓

「本丸」跡東下の「切岸」↓

「本丸」跡下の「腰曲輪」跡↓

 

「本丸」跡南側は段になっていて幅と高さがある「土塁(現地図面では「櫓台」と説明)」が立ち塞がっていて、その南側が「二の丸」跡になっています。「土塁(櫓台)」には石があちらこちら埋まった状態で、番号が付けられ発掘調査中のようでした。

 

「土塁(現地図面では「櫓台」と説明)」↓

「土塁(櫓台)」中の石(番号が振られている)↓

 

「土塁(櫓台)」の南側には窪地があり。そこから「二の丸」跡が南に向かって伸びています。

 

「二の丸」跡から見た「土塁(櫓台)」↓

「土塁(櫓台)」の南側の窪地↓

「二の丸」跡(南方向)↓

 

南東下にも曲輪が見えます。この曲輪は「帯曲輪」のように南から東にかけて細長く伸びた「腰曲輪」で、下に降りてそれを辿っていくと道が右側に折れて下っていきます。その法面には約1.5m程の「石積み」がびっしりと見られました。

 

「腰曲輪」下の「石積み」↓

「腰曲輪」下の「石積み」↓

「腰曲輪」下の「石積み」の隅石↓

 

以上のように、「宇佐山城」は東側に重点を置いた防衛をとっていますが、これらは「森可成」時代に対「浅井・朝倉連合軍」対策で施したものなのか、「明智光秀」城主時代に築いたものなのかは不明です。しかし、「琵琶湖」を一望できるという点では、その後「光秀」が「坂本」に居城を築こうと選地する判断ができたのではないだろうかと思いました。

 

「北曲輪」跡は、「三の丸」跡下の「腰曲輪」から北に向かって尾根線をかなり歩いていかないと行けないので、今回は断念して下山をしました。

 

時間的には、予定時間より30分程早かったので昼食時間が1時間取れたのですが、駅周辺の食堂はどこも一杯で結局駅前のソバ屋に入りました。しかし、ここも料理待ちのお客さんがいてドギマギしながら料理を待ちました。

 

というのも、「大津京駅」を11時55分の電車に乗らないと1時間後の電車となってしまい、次の登城予定時間が大幅に後ズレしてしまうからです。

 

しかし、11時55分発の「敦賀行新快速」に間に合い乗車できました。ただ車内は満員で立つしかなく、途中でも殆ど降りるお客様もなく結局35分間立っていましたが、「琵琶湖」を眺めながら城友と城談議と鉄道談議に花を咲かせることができたあっという間に最寄り駅の「新旭駅」に到着しました。

 

湖西線車両からの眺め↓

湖西線車両からの眺め↓

 

次回は2城目の「清水山城」をお届けします。

 

 

 

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