大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

「家康」による対「豊臣秀頼」包囲網構築を決意し、実行に移していった経緯

「家康」は、1603年に「伏見城」で後陽成天皇の宣下を受けて「征夷大将軍」に就任し、「二条城」において将軍就任の「祝賀の儀」を開きました。この時点で、「家康」は従一位・右大臣に叙位任官した為、「秀頼」の叙位(従二位・内大臣)を上回り立場が逆転します。

 

1604年には、全国支配を視野に入れるべく、諸大名(特に西国大名)に対して「御前帳(土地の帳簿)・国絵図」を提出させて、軍役の賦課する基準や将来的な「天下普請」の為の負担の基準を決めて把握しました。

 

築城に関して言えば、「関ケ原の戦い」後直ぐの1601年に琵琶湖の南端と関ケ原の東側に拠点を築くべく「膳所城」「加納城」の築城を天下普請で行いました。

 

更に、1604年前後位から重要地点における築城命令を発信しています。例えば、1601年には早くも「福井城」の築城命令を出しています。これは100万石だった「前田家」を牽制する為でもありました。

 

また、1603年には北陸から近畿に入る重要地点を抑える(これも「前田家」を意識したものかも)為に「彦根城」の築城を急がせています。その結果、周辺の既存城から建造物や資材の移築を行い1607年に完成させています。本日は、この「彦根城」をご紹介します。

 

そして、1605年に二代将軍として「秀忠」に引き継ぎ、将軍職は「徳川家」が世襲することを世に宣言しました。

 

1607年に「家康」は「駿府城」に移って「大御所政治」(二元政治)を始めます。

 

 

「彦根城」の位置↓

 

 

『“豊臣方”攻防に備えた各種仕掛けが満載の「彦根城」(滋賀県彦根市)』

 

「彦根城」の歴史と城主

畿内の有力外様大名に睨みを利かすべく「佐和山城」に「井伊直政」に入城させました。しかし、「直政」は2年後に「関ヶ原の合戦」で受けた傷が原因で逝去してしまいます。

 

「直政」を継いだ藩主「直勝」はまだ幼少でしたので、「家康」と家老の「木俣守勝」とで「彦根城」を「天下普請」で築城させ、まず1606年に三重三階「天守」を含む第1期工事を完成させます。その後「表御殿」等の建築を進めて完成したのは1622年でした。

 

3代藩主となった「直孝」の時に、「大坂夏の陣」の働きや幕政にも関わり35万石まで加増されて、「徳川家」家臣の中では最高の石高を得て、「井伊家」は盤石な基盤を構築するようになります。

 

そして、江戸時代通じて幕府の重鎮を務め、老中や「井伊直弼」など5人の大老を輩出する城主(藩主)となりました。

 

「縄張り」と「天守」の位置>

立地は、「金亀(こんき)山」に築かれた「平山城」で、中枢部は「中世城郭」の「山城」の様相、一方各所に石垣使用や多門櫓の配備で「近世城郭」の様相をしています。

 

周囲は「内堀」「中堀」「外堀」+西側に人工河川「芹川」+東側に琵琶湖の「松原内湖」と守りは鉄壁で特に「大坂」を意識した西側は「芹川」「外堀」「中堀」「内堀」の四重の守りを施した鉄壁の守りを駆使しています。

 

「天守」の位置は、「金亀(こんき)山」山上を削平した「本丸」の北東隅に置かれました。

 

縄張り図↓

 

今回は、大坂方の攻撃に対して、如何に対処を考慮していたかをポイントにして見ていきたいと思います。

 

主郭部分の「縄張図」(パンフレットより)↓

 

敵の「本丸」への攻撃から守る仕掛けと建造物群>

「本丸」までのルートの出発点であるメイン入口が「表御殿」脇にあります。

 

・「登り石垣」

まず「表御門」跡で目につくのは、四箇所ある内の一つの「登り石垣」です。ここはそんなには長くはないですが、「鐘の丸」まで繋がっています。また、「鐘の丸」の西側にも「大手門」跡に向かって「登り石垣」が下っています。

 

登り石垣(表御門側)↓

登り石垣(大手門側)↓

 

「登り石垣」は「秀吉」による朝鮮出兵時に朝鮮内に築いたお城「倭城」に開発された仕掛けで、その後国内に持ち帰って導入したお城が有りますが、そんなには多くありません。例としては、松山城、洲本城、米子城等で見られます。

 

切岸」と「大堀切」

「表御門」跡から石段を上っていく先には「天秤櫓」が見えてきますが、左手には崖が迫ってきます。これが「山切岸」という仕掛けで、「山」部分を削って簡単によじ登れなくした「山城」の仕掛けの一つです。

山切岸(左の崖)↓

 

更に、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の尾根を分断した深い「大堀切」を通らなければならず、まずそこで「太鼓丸」側に建つ「天秤櫓」からの攻撃を受けることになります。

 

「天秤櫓」(重文)と「廊下橋」-「大堀切」の上↓

 

・「天秤櫓」(重文)

そしてそこを無事通り抜けて「鐘の丸」へ石段で上がっても、そこから「天秤櫓」前の橋を渡って「太鼓丸」に入らないと「本丸」へ行けませんので「橋」を渡ろうとすると、既に「橋」が切落されているかもしれません。もし「橋」がそのままで「天秤櫓」入城しようとすると、天秤型の東西両櫓からは再び攻撃の手が襲います。

 

「天秤櫓」の全景↓

 

この「天秤櫓」ですが、この櫓も「長浜城」大手門からの移築櫓だと伝わっていますが真偽は不明です。ただどこかのお城からの移築であることは確かということです。当櫓は、現存で重文指定されています。

 

「天秤櫓」内部は「小屋組み」↓

 

良く見ると、右と左の向きが違うのがわかります。「天秤櫓」は、両端に二重櫓が備えられ、正面の右側の櫓は「桁面」を見せ、左側の櫓は「妻面」を見せています。

 

天秤櫓(重文-右部分)↓

天秤櫓(重文-伝長浜城の大手門を移築)↓

 

また石垣の積み方が左右違います。左は「落し積み」、右は「牛蒡積み」と言われる「野面積み」となっています。これは元々は両方ともに古い積み方「野面積み」でしたが、後になって左側を修築してその当時の積み方の主流の「落し積み(谷積み)」を用いた為です。

 

左は「落し積み」↓

右は「牛蒡積み」↓

 

太鼓門櫓」(重文)

「天秤櫓」を抜けると石段が続き、右に折れて今度は「太鼓櫓門」が構えますので、再びそこからの攻撃を受けることになります。このように複雑なルートと関門になっていますので、「本丸」に至るまでは並大抵ではありません。

 

「太鼓門櫓」と「続櫓」(重文、正面より、どかの城の城門を移築))↓

 

「太鼓門櫓」は、特殊な形をした「門」であり「櫓」でもあります。

というのも、正面は「門」の右側に「続櫓」が併設され、そこから攻撃ができるようになっています。「本丸」内から見ると、壁面は塗り込めの壁ではなく、中に置かれた「太鼓」の音が城外に聞こえるようにする為なのか開放となっています。また、半間幅の「廊下」に「高欄」が付くという珍しい構造になった建造物です。この建造物は、他のお城から持ち込まれて移築されたものです。

 

「太鼓門櫓」と「続櫓」で「太鼓門櫓」の「高欄」と「半間通りの廊下」↓

 

現在では、「本丸」に入ると真正面は国宝「天守」が眩しく佇んでいますが、先に「西の丸」跡に聳える「西の丸三重櫓」をご紹介します。

 

・「西の丸三重櫓」(重文)

「本丸」の北側には、「西の丸」という長い曲輪が控えていて、当時は等間隔に「櫓」が配置されていたようです。そしてその先に、「大堀切」を築いて「出曲輪」という「馬出的」な曲輪を設け、「大堀切」の延長戦上に山麓に向かって東西2本の「登り石垣」を設けていました。

 

更に「西の丸」の北西隅に「西の丸三重櫓」を築いて、そこからの敵の入城に監視の目を光らせていました。

 

この櫓は、現存重文の「西の丸三階櫓」が建ちます。こちらも他のお城からの移築された建造物であり、「小谷城」からの移築だと伝わりますが、その真偽は疑わしいそうです。ただ、どこかのお城から移築されたのは確からしいです。

 

西の丸三重櫓(重文-伝小谷城天守を移築)↓

西の丸三重櫓の内部↓

「西の丸」と「出曲輪」の間の「大堀切」↓

「西の丸三重櫓」と「続櫓」(北側より)↓

 

天守(国宝)>

「井伊家」二代目の「直継」は、1603年に本拠地を「佐和山城」から「彦根城」に移し、当時は対「豊臣」方に対抗すべく築城にスピード感が必要であったことから天下普請で築城されます。従って、城内の城郭建造物は、「天守」を始め、先程お話したように「天秤櫓」「太鼓門」「三の丸三重櫓」等は、他のお城から解体移築されて持ち込まれたと言われ、「天守」は1606年に完成したと謂われています。

 

「本丸」には、「大津城」の四重「天守」を三重に改修して持ち込まれて三重「天守」に改変されています。

「関ケ原の合戦」の前哨戦であった「大津城」の戦いで、西軍に攻められたものの「京極高次」がそこで踏ん張り落城せずに、西軍を足止めしたことで、落ちない「天守」である「大津城天守」を「彦根城」に据えたとも謂われています。

 

「穴太衆」の石積み職人を主人公に「大津城攻防戦」を描いた「塞王(さいおう)の楯」で直木賞受賞した「今村翔吾」さんの小説によって、「大津城」は一躍有名になりましたね。

 

「天守」は三重三階地下一階で、大入母屋の上に望楼を乗せたもので、梁行(東西面)に対して桁行(南北面)が2倍近くあるので、外観が各々の方向から見た時には全く違った見え方をします。

 

「天守」妻側から↓

「天守」桁側 「付櫓」と「続櫓」(玄宮園より)↓

「天守」南東方向から↓

 

天守の形式は、「付櫓」が付く「複合型天守」で、「付櫓」には更に「続櫓」が繋がっていて、そこから入城するようになっていますが、もう一つ「天守」に直接入る入口を持ち、こちらは天守の石垣内に設けられた地下室から入るルートとなります。 

 

「天守」「付櫓」「続櫓(多聞櫓)」↓

「天守」入口(「天守」北側にある出入口で、一階に通じる)↓

 

「天守」の外壁面は、「白漆喰塗籠」と1階は「下見板張り」併用で、様々な装飾が施され、華麗な「天守」を演出します。

 

まず「破風」ですが、「軒唐破風」「入母屋破風」「庇付切妻破風」「切妻破風」等が全部で18か所も配置され、「唐破風」内には金装飾が施されています。

 

金装飾を施した軒唐破風、廻縁と高欄、華頭窓、千鳥破風↓

 

最上階には、格式の高い「廻縁」と「高欄」を採用し、また窓も格式を重視した「華頭窓」を施して二重目と三重目に全部で18か所を向けていますが、一方一重目の窓は「突上戸」を採用しています。

 

「天守」(国宝、「唐破風」「千鳥破風」が多数ついている、1階は「突上戸」)

「天守」(国宝、1階は「突上戸」)

 

「天守」を乗せる「天守台」はそんなに高くなく「野面積み」になっています。

 

低い「天守台」↓

 

それでは城内に入ります。城内側からは「鉄砲狭間」がたくさん並んでいますが、外壁にはそれが分らないように造られています。いざという時には、城内の鉄砲狭間の板を打ち破って銃眼を出せるように細工されています。

 

「天守」内の「鉄砲狭間」(外からは形が見えない工夫)↓

 

各階は身舎(もや)が中央にあり、周囲を「武者走り」で囲っています。壁の上部は白壁となり、最上階の天井は梁材と桁材が剥き出しとなっていて天井はありません。

 

「天守」1階部屋内と武者走り↓

「天守」1階「身舎」部屋内と「武者走り」↓

「天守」2階の「武者走り」↓

「天守」2階の内壁↓

「天守」3階↓

「天守」3階の「狭間」と内側の「引き窓」↓

「天守」3階は天井板が張られない「小屋組み」↓

「天守」内の3階から2階への階段(角度67度)↓

 

その他の櫓など城郭建造物>

その他にも現存の多門櫓や二重櫓があり重要文化財に指定されていて、お城の守備力や監視力を高める役割の他に、現在では全体の景観を美しくさせています。

 

佐和口二重櫓」は、「中堀」に構えられた枡形「佐和口門」の両脇から守りを固める「多聞櫓」の両端に付随した「二重櫓」です。

 

まず「佐和口門」の左側に延びる「多聞櫓」とその西端に付随する「二重櫓」は、1767年の火災以降に再建された現存櫓で重要文化財に指定されています。「白漆喰総塗籠め」で「破風」は全く無いですが、腰部分に「鉄砲狭間」が「多聞櫓」から並んでいます。

 

重文「佐和口二重櫓」(「佐和口門」左に延びる「多聞櫓」に付随する)↓

重文「佐和口二重櫓」(「馬屋」側から)↓

 

次に「佐和口門」の右側に延びる「多聞櫓」には、門脇の真上と東端の二か所に「二重櫓」が付随していて、1960年に復元されたものです。

 

門脇真横の「二重櫓」は「妻」側を向け、東端の「二重櫓」は「桁」側を見せています。こちらも「白漆喰総塗籠め」で「破風」は全く無いですが、腰部分に「鉄砲狭間」が「多聞櫓」から並んでいます。

 

復元「佐和口二重櫓」(枡形になっている「佐和口門」右脇に建ち右の「多聞櫓」に続く)↓

「佐和口門」脇の「二重櫓」から東に延びる復元「多聞櫓」とその東端に付随するもう一つの復元「佐和口二重櫓」

 

「佐和口門」は桝形になっていて右へ曲がり直進すると左手に現存で重文の「馬屋」が建ちます。この「馬屋」は全国で唯一現存している建物で、馬の轡(くつわ)から繋がる手綱掛けは、馬との相性が良いとされる「猿」の形をしたものが取り付けられています。

 

重文「馬屋」↓

重文「馬屋」内には手綱掛けは「猿」をイメージした形↓

 

そこから「内堀」沿いに右手に進むと、藩主日常生活用の下屋敷が拡がり、国指定記念物の「御書院」「地震の間」「茶亭 楽々の間」が繋がる「槻(けやき)御殿」となっています。「井伊直弼」は、隠居した「井伊直中」の子としてこの御殿で誕生したそうです。

 

「槻(けやき)御殿」↓

 

「御書院」内には藩主専用の「御上段の間」が残され、国内でも「江戸城」と「彦根城」にしかなかった耐震構造の地震の間」も現存しています。また、「茶亭 楽々の間」の前には枯山水庭が残ります。

 

「地震の間」↓

 

また、楽々園」の南東に隣接する「玄宮園」は、「鳳翔台(ほうしょうだい)」と言われる「数寄屋」を中心に「池泉回遊式庭園」が拡がり、客人の接客饗応の為の空間になっていました。

 

現在でも西側の平山上には「本丸」跡の「天守」が望めますが、当時は今以上に「天守」に加えて「多聞櫓」「着見櫓」等の各種の櫓等を借景とした見事なまでに美しい庭園だったと思われます。

 

「楽々園」の南東に隣接する「玄宮園」↓

現在でも「天守」を借景とした眺めが見られる「玄宮園」↓

 

更に、外観復元の城郭建造物ですが、「二の丸御殿」が建てられていて、中は「井伊家」の宝物を展示している博物館になっています。貴重な資料や文化的の価値が高い兜や能舞台衣装・能面・扇子等々によって江戸時代の大名生活を知ることができます。

 

「二の丸御殿」玄関↓

「二の丸御殿 大広間」↓

 

 

また、「資料館」がある「大広間」はRC造りである一方、藩主が日常の政務を執り行っていた「表向」や藩主や家族等の生活の場であった「奥向」がある「奥御殿」は、各部屋が木造で復元されていて、そこから見る庭園やお城風景も素晴らしいものがあります。

 

「奥御殿」内の「御座の間」↓

「奥御殿」内の庭園↓

 

「大広間」と「奥御殿」の丁度中間場所には、元々そこにあった「能舞台」が一時別の場所へ移築されていましたが再移築して元の場所に戻っていますので、これも一見の価値があります。また、「奥御殿」の「奥向」にある「御亭(おちん)」も再移築されて元の場所へ戻っています。

 

再移築現存「能舞台」↓

再移築現存で「奥向」にある「御亭(おちん)」(内部は「数寄屋風」)↓

二の丸御殿(復元)屋根と天秤櫓(重文)↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー