昨晩、前々から靴や冬物衣料品の調達に行こうと思っていた「三田プレミアムアウトレット」へ翌日(2/8)に行こうと思い立ち、折角三田まで行くなら近辺の山城に立ち寄ろうと思い、ネットで行き先の山城を色々と検索した結果「淡河(おうご)城」(兵庫県神戸市北区淡河)に決め、縄張図をネットで抽出し予習をしました。

 

家を9時に出て、「中国道」を西宮北インターまで乗り、そこから一般道を走りました。地図では「淡河道の駅」近辺となっていましたのでその駐車場に止めると、真ん前の段丘上に「淡河城址」と大きな看板が見えると共に、模擬ですが復元二重「櫓」が聳えていましたので少しテンションが上がりました。

 

「淡河道の駅」の駐車場から見える模擬の復元二重「櫓」と城址↓

「淡河道の駅」の駐車場から見える模擬の復元二重「櫓」↓

 

淡河(おうご)城」の歴史と城主は予習によりますと、時代がグッと遡り、鎌倉時代の1222年に執権だった「北条時房」の所領となって、家臣が派遣されてきましたが、後に「時房」の子孫が淡河に移り住み、名字を「淡河氏」と名乗るようになったそうです。

 

南北朝時代には「淡河氏」は南朝方で、北朝方だった「赤松円心」に攻められ落城しますが、その後寝返って赤松方乃至北朝方に付いたので、室町時代になっても「淡河城」を拠点に淡河地区を領有していたようです。

 

しかし、「別所則治」が「三木城」に入ると「淡河氏」は三木氏の配下となりますが、「羽柴秀吉」の「毛利・別所氏」攻めが始まると、「淡河氏」は「淡河城」を捨てましたので、その後は「有馬則頼」に与えられました。

 

そして「関ヶ原の合戦」の戦功によって「有馬氏」は、三田に加増転封となったので、「淡河城」は廃城となりました。

 

淡河城」の縄張りは、「裏川」の河岸段丘上に「本丸」を構え、南へは「二ノ丸」「南ノ丸」が、南西から西方向へは「西ノ丸」が拡がる「梯郭式縄張」だったようです。

 

復元図は、「余語氏」が「城郭体系」を元に復元された「淡河城復元図」を見ると良く解ります。

 

「余語氏」作成の「淡河城復元図」↓

 

さて「淡河道の駅」駐車場からは城跡が見えているのですが、現地へ行くのには川を渡らないとそこへ行くことができません。

 

「道の駅」を出て南東の方へ廻り込んでいくと、「牛小屋」沿いに下り道があってのでそれに沿って川方向へ下りました。神戸市内で「牛小屋」を見るなんてビックリ、しかも久々に漂う牛の臭いと牛たちがモノ珍しそうに眺める視線の横を下ると川を渡る橋がありました。

 

「牛小屋」から牛ちゃんが覗いている↓

 

川を渡ると「淡河城」の標識があり、ジグザグ道を上っていくと復元「櫓」脇に出ました。

 

復元「櫓」はかなりの高台ですので、「道の駅」や「淡河」の街も見渡せます。「縄張図」を見ると、逆方向から登ってきた感じで、本来は「虎口」は西側にあり、復元「櫓」の場所から間合いが見えています。

 

復元二重「櫓」脇から見下ろす↓

「淡河城縄張図」(「余語さん」からお借りしました)↓

 

復元「櫓」の左手(南側)には、「天守台」と呼ばれている分厚く幅のある「大土塁」が築かれていて、その上には東側から「稲荷神社」の祠が、そしてその西側は公園になっていて2~3の遊具が置かれていました。一番西端には「淡河城跡」碑が立っています。

 

「大土塁(天守台)」(西方向)↓

「大土塁(天守台)」の上(奥に見えるのが「稲荷神社」、東方向)↓

「淡河城跡」碑(「大土塁(天守台)」の上)↓

 

碑の脇から階段を使って下りると神社の鳥居があり、その脇が「虎口」となっています。「虎口」は両脇からの「土塁」が迫っていますのでかなり深く見えます。そこから見た「天守台(大土塁)」はかなりの高さがありますし、左手(北側)の「土塁」も手前は高さが感じられます。

 

階段上が「大土塁(天守台)」↓

「本丸虎口」(右側が「大土塁(天守台)」)↓

「本丸虎口」(本丸跡から見る、左側が「大土塁(天守台)」)↓

「虎口」前から見た模擬の復元二重「櫓」↓

 

「本丸」跡は南側が拡がり、北側が少し狭くなっていますが結構広々とした敷地となっていました。

 

「本丸」跡(北方向)↓

「本丸」跡内から見上げた「大土塁(天守台)」↓

「本丸」跡内から見上げた「大土塁(天守台)」↓

 

「虎口」の手前は、北側は「空堀」の様で竹で覆われていましたが、西側の「土塁」の外面が見えました。一方、南側の堀は水は張っていないですが元々は「水堀」だったようで、「本丸」跡の南東隅から東側にかけて延びています。

 

「虎口」手前の北側は「空堀」↓

西側「土塁」の外面↓

 

南側に廻り込むと「水堀」跡が良く見えて、「稲荷神社」が建つ「大土塁(天守台)」の上から堀底までの高さがかなりあることが一目瞭然で分かります。

 

「本丸」跡の南東隅の「水堀」跡↓

「本丸」南側の「水堀」跡↓

「本丸」南側の「水堀」跡(右側が「大土塁(天守台)」)↓

 

南側の敷地から「本丸」跡の「大土塁(天守台)」に、「土橋」のようなものがありましたが、橋を渡っても高さのある「大土塁」には行けないので、多分堀の中の「仕切り土塁」のようなものではないでしょうか。

 

「水堀」の間に跨る「仕切り土塁」か? ↓

 

その敷地から南方向に「白壁」で囲われた所がありますが、そこは「淡河家墓所」で小さな墓碑が並んでいました。元々ここに「竹慶寺」という寺院があったようですが移転してしまい墓碑だけが残ったらしいです。

 

「淡河家墓所」↓

「淡河家墓所」内に小さな墓碑が並ぶ↓

 

そこから周囲を眺めて、余語さんの「淡河城復元図」を眺めてみることにしました。

 

 

周囲は、全て田んぼで何の遺構も残されてはいませんが、曲輪だった位置だけを確認しました。「淡河氏墓所」の西隣の田んぼは「二ノ丸」跡、南側は一段高くなった田んぼでしたが「南ノ丸」跡で「政所」だった場所、そして西側から南西の山裾までが「西ノ丸」跡だったエリアでこちらも現在田んぼです。そして「本丸」跡の北側で「裏川」沿いには「大手門」があったそうで、その跡は確認しませんでした。

 

白壁が「淡河家墓所」、手前が「二ノ丸」跡↓

一段高くなった田んぼ部分は「南ノ丸」跡で「政所」だった場所↓

「三ノ丸」跡↓

 

本来であれば、大城郭で多くの兵士が待機できた可能性がありますが、現在は「本丸」跡だけが残る小さな城跡となって残念です。しかし、東側の道の駅から見上げると「淡河城跡」という看板と共に模擬ではありますが復元「櫓」が建ち、共にモニュメントとなってアピールされているのは嬉しいことです。

 

この後、西側に「淡河城西付城」があるとのことで、地図にも掲載されていたのでナビを頼りに向かいました。ナビではこの付近との案内があり車を降りて確認すると、深い谷底の向こうにうっすらと敷地らしいものが見えたので、道を迂回して裏側へ廻り、藪中へ入っていきましたが、それらしき跡地は見つけられずで退散しました。

 

その後、「三田プレミアムアウトレット」へ約30分で到着しました。土・日曜日に来ることが多く、駐車場へ入るのに苦労していましたが、本日は平日で平面駐車場にすんなりと止めることができました。

 

場内も、どの店舗もお客さんは少なく、非常に見やすいでした。私お気に入りの「アーバンリサーチ」では、最終バーゲン価格なんでしょうか、格安値段だったので3着も購入、また「ホーキンス」の靴も2足目が半額になるバーゲンをしていたのですが、茶色系統でお気に入りのデザインのモノがバンドルサービス対象外、でも2足でかなり安いお買い物ができました。

 

本日のゲット商品(衣料品)↓

本日のゲット商品(靴)↓

 

お城巡りもできたし、お安い冬物商品のゲットもできて、大満足の1日となりました。

 

 

 

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