大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。
<「家康」等の出来事>
できごとについては、「駿府城」の歴史の中でお話をしていきます。
「駿府城」の位置↓
『江戸移封前に築城後再び大御所として戻り天下普請で大城郭にした「駿府城」(静岡県静岡市葵区)』
<「駿府城」の城主と歴史>
この地には、室町時代に駿河国の守護となった「今川氏」が「今川館」を築き栄華を誇っていました。
しかし、「今川義元」が1560年に「桶狭間の戦い」で「織田信長」に討たれ、その後「今川氏」の「今川館」は、「武田氏」に攻められ領地も「武田氏」のモノとなりましたが、「武田勝頼」が織田・徳川軍に滅ぼされた後は、「今川氏」は「徳川家康」の庇護を得て存続する一方で、その遺領を「家康」が領することとなりました。
「家康」は、1582年に「武田氏」が滅亡すると、駿河国は完全に「家康」の領土となり、1585年にかつて「今川館」のあった場所に「駿府城」を築城して、翌年に「浜松城」から新たに居城としました。
しかし1590年に「豊臣秀吉」が「小田原平定」で天下統一を果たすと、「家康」を警戒した「秀吉」は「家康」の「江戸」移封を決め、「家康」もその命に従いました。その後1595年に、「秀吉」臣下の「中村一氏」が「豊臣氏直轄地」の代官として入ります。
江戸時代となり、「家康」が早々に将軍を退き将軍職を「徳川秀忠」に譲位した後、1607年に「家康」はこの「駿府城」を「隠居城」として「天下普請」で大改築を行うも失火により「天守」「御殿」が焼失、直ちに再建させて翌年に「天守」「本丸御殿」が完成して、「家康」の十男「頼宣(よりのぶ)」が入城します。「家康」は、大御所として幕府を背面からバックアップしました。
「頼宣」が「和歌山城」へ移封となった後は、三代将軍「徳川家光」の弟である「忠長」が居城しましたが、「家光」に虐(いじ)められ改易されて「高崎城」預かりとなり、その後自刃するという悲しい運命をたどりました。
「忠長」改易後は、「駿府城」は藩主のいないお城となり幕末まで「駿府城代」といったお城の管理役人が在住するのと、「駿府在番・勤番」という城代の補佐が置かれました。また、幕府直轄の天領でしたので、「駿河代官所」も置かれていました。
<縄張り>
縄張りですが、堀は「本丸堀」「二ノ丸堀」「三ノ丸堀」の三重で取り囲み、「本丸」「二ノ丸・西ノ丸」「三ノ丸」を持つ「輪郭式平城」でした。
「縄張り図」(パンフレットより)↓
「縄張り図」(パンフレットより)↓
<三ノ丸>
それでは、「南三ノ丸堀」沿いの「大手御門」跡からスタートします。
「大手御門」跡は、「三ノ丸堀(外堀)」の「土橋」を渡り石垣の間を進み、直角に曲がった所にあった「渡櫓門」から入る構造で、現在でもその石垣がシッカリと残っています。石垣を抜けた所が「静岡県庁」前になり「三の丸」跡になります。
「大手御門」跡(突き当りを右へ)↓
「大手御門」跡(右へ曲がった所)↓
「大手御門」跡を抜けると現在は静岡県庁↓
「三の丸」跡は、現在「県庁」を始め、税務署、裁判所、市民文化会館、体育館など行政などの諸施設の他に、小・中・高校の敷地となっています。
<二ノ丸>
●復元「巽櫓」
「二の丸堀(中堀)」沿いに東側に進むと立派な城郭建造物が建ち並びます。
まず南西角に見えるのが、復元「巽櫓」です。
こちらは1988年に木造復元された二重三階「平面矩折れ(かねおれ)」した大型櫓が建ち、大坂城の「乾櫓」と同型で、これは「徳川氏」の代名詞的な「櫓」となっています。
復元「巽櫓」(南西方向から、「大手門」跡方向から)↓
復元「巽櫓」(南面)↓
復元「巽櫓」(南東隅)↓
復元「巽櫓」↓
復元「巽櫓」(二重三階「平面矩折れ(かねおれ)」、二ノ丸側から)↓
●復元「東御門」
復元「巽櫓」の北側には「土塀」に付随して復元「東御門」が建ちます。
「東御門」は1996年に木造復元された立派な「高麗門」「渡櫓門」「多門櫓」で構成する桝形門になっています。
「中堀(二の丸堀)」を木橋で渡ると正面に「高麗門」が構えます。その両脇の土塀裏には「雁木」を備え、いざという時にはその石段を上がり戦闘態勢に付けるようになっています。
復元「東御門」を「二ノ丸堀」外側から↓
復元「東御門」を「二ノ丸堀」外側正面から(正面は「高麗門」、左に見えるのが「多門櫓」、右に見えるのが「渡櫓門」)↓
復元「東御門」の「高麗門」(桝形内から)↓
「高麗門」脇の土塀内側には「雁木」↓
「高麗門」を入った正面には「多門櫓」が「渡櫓門」から続き桝形を構成しており、その下の石垣は「切込接・布積み」で築かれ、また、桝形内には二つの「鏡石」が据えられています。
復元「東御門」の周囲は「多門櫓」
「東御門」の石垣の積み方は「切込接・布積み」、二つの「鏡石」
枡形では、右折れになって「渡櫓門」を潜りますが、その「渡櫓門」は白漆喰総塗籠めの外壁で、門の冠木には太い梁が見え、窓下には瓦の庇を設けています。
復元「渡櫓門」の太い梁と瓦付き庇↓
「渡櫓門」を抜けると「二ノ丸」跡に入ります。現在は、その中は広々していますが、本来は「二ノ丸」の内側を「本丸堀(内堀)」が掘られていてその中に「本丸」がありました。
復元「東御門」(復元「本丸堀」前から)↓
復元「東御門」を構成する「多門櫓」(裏から)↓
現在その「本丸堀(内堀)」は一部復元されて水も湛えています。本来「本丸堀(内堀)」への水の供給は、「二ノ丸」跡を横切って両側を石垣で固めた「二ノ丸水路」が設けられていて水位を保つ機能を果たしていました。その「二ノ丸水路」は江戸時代から残されていたものを整備して存在しています。
「二ノ丸水路」↓
「二ノ丸水路」↓
「二ノ丸水路」が繋がる復元「本丸堀」↓
復元「本丸堀」↓
先に「二ノ丸」跡を時計回りに見て行きます。西側へ進みますと、「二ノ丸堀(中堀)」に橋が架かり門跡らしい場所に遭遇し「二ノ丸御門」跡となっていますが、元々の「二ノ丸御門」は1957年(昭和32年)まで存在していましたが取り壊され、70m東へ新たに出入口が設けられていて、それがこの門跡です。
元の場所より東へ移動した「二ノ丸御門」跡(三ノ丸から見た)
「二ノ丸堀」沿いの石垣の積み方は、「打込接・乱積み」が途中で「切込接・布積み」に替わったり、「箱積み(切込接)・布積み」の箇所があったりと、長年の間に修復されてきた痕跡が残されています。
「二ノ丸堀」沿いの石垣(「打込接・乱積み」が途中で「切込接・布積み」に)↓
「箱積み(切込接)・布積み」の箇所↓
●復元「坤櫓」
「西ノ丸」の南西隅には、白漆喰総塗籠めの2014年に復元された「坤(ひつじさる)櫓」が建っています。二重三階七間四方の櫓で二重目の西面と北面には「切妻破風」の「出窓」とその下には「石落とし」を伴う仕掛けを持ち、「名古屋城」の「西南隅櫓」や「東南隅櫓」とほぼ同形式の櫓になっています。この櫓も「徳川氏」の櫓の代名詞のようにもなっています。
復元「坤櫓」(南西から)↓
復元「坤櫓」(西側から)↓
復元「坤櫓」(北西から)↓
「西二ノ丸堀」(北方向)↓
復元「坤櫓」も内部を見た跡は、「二ノ丸」跡を北に向かって進むと「清水御門」跡があります。この門跡は、「二ノ丸堀」を渡った所に構えられた門で、現在は「高麗門」を支えた石垣が残っていて、丁度その「渡櫓門」の発掘調査を進めている最中の姿が、ガラス越しで見えるようになっていて礎石を見ることができます。
「清水御門」跡↓
「清水御門高麗門」跡の石垣(右、左)↓
「清水御門」跡両脇の「西中堀」↓
「清水御門渡櫓門」跡の発掘調査中↓
ここから、更に「二ノ丸堀」沿いを「二ノ丸」側を進んで北面に廻ると「北御門」跡があります。
「二ノ丸堀」に架かる橋を渡ると「北御門」跡の石垣が構えています。裏側には「雁木」も設えられ、桝形風空間を通り「二ノ丸」へ入るとすぐ西側には「馬場先御門」があったらしいですが、現在は失われていて説明書きだけが立っています。
「北御門」跡の石垣↓
「北御門高麗門」の石垣↓
「北御門高麗門」の石垣↓
「北御門」跡の石垣裏の「雁木」↓
「北御門」の左手(東側)奥には「二ノ丸御殿・台所」があった場所ですが、現在は立派な茶室と紅葉山庭園が復元されています。
元「二ノ丸御殿・台所」跡(現在は、茶室と紅葉山庭園)↓
<本丸>
そして「北御門」先には本来は「本丸堀」があったのですが、現在は埋められていますので「本丸御殿」跡の広々した敷地が拡がります。
広々とした「本丸御殿」跡
「本丸跡」碑
「本丸跡」碑の後方には、鷹狩姿の「徳川家康」像や「家康御手植えのミカン」が立ちます。この像は我々がイメージしている「家康像」を最もよく表しているのではないかと私は思いました。
鷹狩姿の「徳川家康」像↓
鷹狩姿の「徳川家康」像↓
「家康御手植えのミカン」↓
●「天守台」発掘現場
発掘現場は、「本丸」跡の北西隅に広い囲いがあり、そこの入口から入って行きますが無料で入場できます。
「天守台発掘現場」の囲い↓
「天守台発掘現場」の入口↓
入って驚くのは、一面に石垣や石、土が見え、その間に「赤」や「緑」や「黄」のコーンが置かれています。それらコーンの意味する所は、「緑」コーンは「慶長期」のモノ、つまり「徳川家康」が築いた(「天下普請」で築かせた痕跡)「天守台」の石垣や「本丸」部分の石垣、「赤」コーンは「天正期」のモノ、(発掘時は「豊臣政権下」に入城していた「中村一氏」が築いた「天守台」の石垣部分と言われていましたが、最近になってその「天守台」も「家康」が築いたものではないかと言われています)で、「黄」コーンは「今川氏時代」の「今川館」のモノということです。ただ、「黄」コーンは殆ど目にはできませんでしたが、中央の方にあるのでしょう。
入ってすぐの所からは、「慶長期」の「本丸石垣」と「天正期」の「天守台」石垣が重なっている場所ですので、時代の差による石垣の積み方の違いが良く解る場所です。所謂「天正期」の「野面積み」に対して、「慶長期」の「打込接」の違いが分かります。
「慶長期小天守台東面」と「天正期天守台入口南面」(南の方からのぞむ)↓
手前(緑コーン)は「慶長期本丸西面石垣」、奥(赤コーン)は「天正期天守台南西隅」↓
「天正期天守台」↓
「駿府城」の「天守台」発掘調査が行われている最中の2019年1月頃に、「中村一氏」の「天守台」が内側から見つかり、当時「豊臣秀吉」が「一氏」に築かせた「天守」が建ち、金箔瓦も使用されていたというニュースが報じられていたのが思い出されます。しかし最近、「天正期」のモノも、「徳川家康」が築いた「天守台」ではないかと言われています。
展示館内に展示の金箔瓦(矢印の部分に金箔)
その「天正期の天守台」の大きさは、「慶長期の家康」の「天守台」に比べれば小さいですが、一分重なっている部分があるということは、それを潰してその上から「天守」が建てられたということでしょう。
発掘上空からの写真(慶長期と天正期の天守台)↓
緑の「家康慶長期」の「天守台」が赤の「天正期」の「天守台」に被る(現地掲出の資料から)↓
「家康」の「天守」の「天守台」の大きさは、発掘現場の西側に廻るとその大きさが実感できます。「天守台」の「打込接」の石垣が下から数段積まれている(積み直し或いは一部復元か)西面を見るとその壮観さが分かります。
「慶長期天守台南面」↓
「慶長期本丸西面石垣」↓
「慶長期天守台西面」↓
「慶長天守台北西隅」↓
「慶長期天守」も「天正期天守」もどちらも「大天守」に「渡櫓」で連結した「小天守」を伴う「連結式天守」であったことが発掘調査からも示されています。発掘調査現場においても、「小天守」台の石垣の表示を見ることができました。
「慶長期の小天守台」↓
「大天守」と「小天守」の位置関係(現地に掲出の資料)↓
発掘現場を上空から撮った写真(現地で掲出)↓
「本丸堀」も、その石垣に沿って西側から北側にかけて復元されています。また、その後方には、石垣の裏に入れ込まれていた細かい石の「栗石(裏込石)」が山積みにされているのが見えます。
「慶長期の天守台北面」↓
「慶長期の天守台北面」↓
後方に置かれた「栗石」↓
また、「駿府城」が明治時代になって破壊された際に、石垣の石を「本丸堀」へ埋め込まれていたらしいですが、発掘調査で「本丸堀」を掘り返す際に出てきた石垣の石も北側の空き地に山積みにされているのを目にすることができます。
「本丸堀」から掘り返された「堀沿いの石垣」↓
「本丸堀」から掘り返された「堀沿いの石垣」↓
大きな石垣に「刻印」された石も展示されていますが、これらは「天下普請」の際に各大名が刻んだものなんでしょう。
「刻印石」
北面からも「天守台」を数段積んだ姿を見て、その大きさには「家康」の当時の力の大きさが反映したものだと思いました。
「天守台」の大きさは、当時の「江戸城」「大坂城」よりも大きく、日本最大の大きさがあったと言われていた「寛永期江戸城(家光時代の天守)」の1.5倍の広さの「天守台」を持っていたらしいですが、一説によると、この「天守台」の上には、「大天守」だけでなく「小天守」や「櫓」群等が建っていた可能性があるらしいです。
「天守台」の大きさ比較(現地に掲出)↓
丁度、「淀城」の「天守台」の様に、「大天守」の周囲に4つの「小天守(櫓)」を据えていたのと同じような構成になっていたのかもしれません。
当時の「天守」の模型が、「日本平ロープウエイ」の乗り場に置かれていたので、それを見ていただきます。
家康の十男頼宣(よりのぶ)が入城するに際して、天下普請で更に大城郭に修築され、前述したように天守の大きさも半端ではなかったようですし、一~二階は御殿風になっていて、三~五重の屋根は鉛葺、最上階は銅葺の豪華な造りであったようです。
「天守」模型(「日本平ロープウエイ」の乗り場に設置)↓
<三ノ丸>
三ノ丸堀(外堀)沿い
「発掘調査現場」から今度は、「三ノ丸」跡の南西隅にあった「四足(よつあし)御門」の石垣が残る所へ足を運びます。「切込接・乱積み」と「切込接・布積み」で構成された門の石垣は桝形の一部を構成していた箇所のようでかなりの長さの石垣が残っています。
「四足(よつあし)御門」の石垣↓
「四足(よつあし)御門」の石垣↓
そして西側の「三ノ丸堀」が残る所へ足を進めますと、まず目につくのが「櫓台」で、名称は記載されていませんでしたが、こんな場所にまで「櫓」が置かれていたのかと感心します。
「西三ノ丸堀」と「(三の丸隅櫓)櫓台」↓
「西三ノ丸堀」と「(三の丸隅櫓)櫓台」↓
その「三ノ丸堀」沿いの道には「外堀の散策道」と名前が付き、散策道からの堀越しには「三ノ丸」跡内に建つ「病院」「税務署」「裁判所」「高校」「教会」と様々な施設が見られます。
「西三ノ丸堀」を渡り「三ノ丸」跡へ↓
「教会」と「高校」の間にある「三ノ丸堀」を渡る橋を渡り「二ノ丸」跡に入って南方向には先程見てきた「清水御門」跡が見えます。東へ直進して「三ノ丸堀」を渡る橋の前に構える「深草御門」跡の石垣が見えます。両脇に石垣を構える立派な門跡でした。
「三ノ丸堀」に架かる橋の手前「深草御門」跡の石垣↓
「三ノ丸堀」に架かる橋の手前「深草御門」跡の石垣↓
「深草御門」跡の石垣の東側の「三ノ丸堀」↓
「草深御門」跡の西側「三ノ丸堀」の水位が異なる場所↓
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