大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

「家康」は、1603年2月に「征夷大将軍」に就任します。その際に「後陽成天皇」からの宣下を受けたのが「伏見城」でした。

 

宣下を受けた翌3月に、「二条城」において「本丸」(現在の「二の丸」部分)を完成させて、「家康」の「征夷大将軍」の祝賀等一連の儀式を行いました。

 

ただ、「征夷大将軍(将軍)」となった「家康」は、当面「伏見城」で政務を執り、武家諸法度の告知や朝鮮の使節と引見したりしています。

 

 

「二条城」の位置↓

 

 

『江戸時代初期の“徳川三代”上洛時と幕末にスポットを浴びた「二条城京都府京都市中京区

 

二条城と呼ばれたお城の変遷

現在の「二条城」をお話する前に、「二条城」と呼ばれているお城についてお話をしておきます。

 

「二条城」とは、時代々々の権力者が「京」を抑える為に築いたお城がありました。本格的なモノは、室町幕府13代の「足利義輝」の「二条御所」で、「永禄の変」で「松永久秀」「三好三人衆」が謀反を起こしたときに焼失します。これは、大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれていました。

 

その後、「織田信長」が室町幕府15代将軍として「足利義昭」を担いで上洛した時に、「義昭」の為に築いた「二条御所」で「旧二条城」と呼ばれています。しかし、「信長」と「義昭」が不仲になり、「義昭」を1573年に追放した後は解体され、当時「安土城」建築真最中だったので、一部資材として転用されたそうです。

 

「旧二条城」碑 (平安女学院の北側)↓

「旧二条城」の石垣(地下鉄烏丸線工事で発掘された石垣を御所の南西隅に展示)↓

 

 

 また「信長」の京都で滞在する際の宿所として使用されていたのが「二條殿(古二条城)」で、後に「正親町(おうぎまち)天皇」の皇太子に譲ったので「二条新御所」とも呼ばれています。元々は公家「二条家」の二条邸であったモノを「光秀」と共に「京都奉行」であった「村井貞勝」に命じて改修させました。「本能寺の変」では「織田信忠」が籠城した場所になったそうです。

 

「京都まんがミュージアム」裏手の「両替町通り」沿いに「二條殿跡」碑(「烏丸御池」駅すぐの北西)↓

更に「豊臣秀吉」が「京」における拠点として築いたのが「二条第(にじょうてい)」で、天守も築かれていたようで、1587年に「聚楽第(じゅらくてい)」を築城させるとそちらへ移りました。

 

現「二条城」の歴史と城主

さて現在の「二条城」(京都府京都市中京区)は、関ケ原の戦い後、「徳川家康」が天下普請で建てさせたお城です。1603年に、現在の「二の丸」部分を完成させ「家康」の征夷大将軍の祝賀等一連の儀式行われました。「伏見城」で「天皇」からの宣下を受け、その後の祝いの儀式は「二条城」で行うというパターンは、二代将軍「秀忠」(1605年)、三代将軍「家光」(1623年)まで引き継がれました。

 

天守は1606年に完成させ、1611年に当城で「豊臣秀頼」と会見を行い、「大坂冬の陣」では本営として使用されました。

 

1619年に、「秀忠」の娘「和子(まさこ)」が「後水尾天皇」に嫁入りする前に、「和子(まさこ)」の宿館として使用する為に、大規模改修を行いました。

 

更に1626年、三代将軍「家光」の時に「後水尾天皇」による「行幸」を受け入れる為に、西側に増築して現在の「本丸」が造られ、天守台には「伏見城」の天守が移築されました。しかし「行幸」終了後は、多くの建物が解体や移築され、現在でもその遺構を目にすることができます。

 

「二条城」御殿の一部が、現在「三渓園」(横浜市中区本牧に移築「聴秋閣」として現存重文)↓

伝「二条城」の建造物(現在は、「世田谷観音寺」の「阿弥陀堂」で、金閣寺を模している)↓

 

そして1634年には、「家光」は30万人と言われる大軍を率いて入城しましたが、朝廷や西国大名に対する威嚇的なデモンストレーションであったようです。

 

その後、4代将軍「家綱」から約230年間、城主不在のお城で「二条城代」から「二条在番」制となり江戸からの交替武士が管理しました。1720年の落雷で「天守」を焼失、更に火事で「本丸御殿」や「隅櫓」も焼失、地震で櫓や門や一部「御殿」も倒壊などがあり、それらは再築することなく幕末に至ります。

 

1862年に14代将軍「家茂(いえもち)」が、約230年ぶりの上洛を果たしますが、それに備えた「二の丸御殿」の修復と、「本丸御殿」が既に焼失していたので「仮御殿」が「本丸」内に建てられました。1865年には、「第二次長州征伐」の為に再上洛した「家茂」は「大坂城」に移りますが、翌年病死します。

 

15代将軍「慶喜」は、1867年9月に「二条城」に入城しますが、10月には二の丸御殿の「大広間」で「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上しました。その後12月までの間は、当城の「本丸」に建てられた「本丸仮御殿」に居住していたようで、その古写真が残されています。

 

縄張り 

「二条城」の曲輪は「輪郭式平城」で、「家康」の建築当時は現在の「二の丸」が「本丸」で単郭でしたが、「秀忠」「家光」の時に複郭となります。当初の「本丸」(現在の「二の丸」)は、現在の東半分しかなく望楼型「天守」が北西隅に御所を見下ろすように建っていたようです。

 

そして現在の「本丸」は西側に増築され、「内堀」を隔てて周囲を「二の丸」で取り囲んでいます。「本丸」の東出入口は「本丸東櫓門」で、「二の丸溜蔵」間とは「廊下橋」で連結し、西側は「本丸西虎口」から出入りになっていました。

「城内絵図」↓

 

二の丸東側

お城全体の出入口は、東側に「東大手門」を置き、西側に「西門」を、北側には「北大手門」がありました。この「北大手門」は、1626年の「後水尾天皇」行幸時に、御所からお迎えができる最短コースとして造られました。また「南門」もありますが、こちらは「大正天皇」の「行幸」の際に建築されたものです。

 

「大正天皇」の行幸時に建てられた「南門」↓

 

まず現在の出入口である「東大手門」(重文)から見ていきます。この門は正門にあたり「渡櫓門」になっています。門は、軒庇付連子窓の下に石落としを設け、鉄板を貼った門扉で堅固にしています。 

 

「東大手門」(重文)城外から↓

「東大手門」(城内から、軒庇付連子窓の下に石落とし、鉄板を貼った門扉)↓

 

当門の北西にある「北大手門」もこれと同形式ですが、ひと廻り小さ目に造られていて朝廷対応の「大手門」の位置づけでした。「東大手門」より長さは3間短いが幅・高さは同じ、装飾性や部材は劣っていました。1626年の「後水尾天皇」行幸後は、北にあった「京都所司代」との連絡門として使用されていました。

 

「北大手門」(重文)城外から↓

「北大手門」(重文)城内から↓

 

「東大手門を潜ると、右手に大きめの「番所」(重文)が建って前側は畳敷となり、ここで入城者あらためをしていました。

 

「番所」(重文、東大手門側より)

 

そして突き当りには、西側奥に建つ「二の丸御殿」を守るかのように御所風の「築地塀(ついじべい)」が南北に走っています。

 

御所風の「築地塀」(重文)↓

 

塀を右手に見ながら左へ折れると、左奥には現存で二重の「二の丸東南隅櫓」(重文)が建ち、この対として西南隅には「二の丸西南隅櫓」(重文)が建ちます。「東南隅櫓」の南側には「千鳥破風」が、「西南隅櫓」の西・東側には「唐破風」を付けていますが、それ以外は、二階壁の「長押(なげし)」、窓の形など全体の形も同形式になっています。

 

「二の丸東南隅櫓」(重文、外堀越し、千鳥破風が付く)↓

「二の丸東南隅櫓」(重文、城内側より、千鳥破風が付く)↓

「二の丸西南隅櫓」(重文、外堀越し、唐破風が付く)↓

「二の丸西南隅櫓」(重文、城内側より、唐破風が付く)↓

 

「築地塀」が西に折れ曲がった所に、桃山形式の色鮮やかなで彫刻が美しく豪華な切妻造・檜皮葺の「唐門」(重文)が建ち、門の間から見える「二の丸御殿」の「車寄」と「遠侍」の建物に惹かれます。

 

「二の丸御殿唐門」(重文)↓

「二の丸御殿唐門」(重文)の桃山風の彫刻↓

 

国宝「二の丸御殿」

「二の丸御殿」(国宝)は、「車寄・玄関」から入城し、「遠侍(とおざむらい)」「式台(しきだい)」「大広間」「蘇鉄(そてつ)の間」「黒書院」「白書院」の建物が北西に向かって雁行状に繋がります。

 

「二の丸御殿」平面図

 

「車寄」は、「遠侍」の玄関で、入母屋造で屋根は檜皮葺で、牛車が入れるように床は石と敷瓦となっています。

 

「二の丸御殿の”車寄・玄関”」(国宝)

 

ここから内部は、写真撮影が禁止ですので、外観の写真を掲載します。

 

「遠侍」は、登城した大名達の控えの間で「一の間」~「三の間」「勅使の間」で構成されていました。「勅使の間」とは、将軍が勅使(天皇からの仕え)を迎える間で、上段に勅使が座り、下段に将軍が座りました。室内は、金地で楓の障壁画が飾られています。

 

「二の丸御殿の”車寄せ”と遠侍”’大きい屋根部分)」(国宝)↓

 

「式台」は、大名が「老中」と対面する部屋で、「将軍」への献上品をここで渡しました。北側には、「老中」の執務室になっています。

 

「二の丸御殿の”遠侍”(右)、”式台”(左)」(国宝)

 

「大広間」は、将軍が大名と公式に対面する場所で、1867年に15代将軍「慶喜」が、諸大名を集めて「大政奉還」を宣言した大部屋です。こちらも「一の間」~「四の間」があり、「一の間」は上段に当たり、付け書院、床の間、違い棚、帳台構えを備えていて、襖絵は「狩野探幽」作の「松と鷹」が雄大に描かれています。

 

「二の丸御殿の”大広間”」(国宝)↓

「二の丸御殿の”大広間”と”蘇鉄の間”」(国宝、手前に蘇鉄が植わる)↓

 

「大広間」と「黒書院」の間には、蘇鉄が描かれた廊下「蘇鉄の間」によって結ばれます。この間の庭には蘇鉄が植えられていたのでこの名称が付けられたようです。

 

「二の丸御殿の”蘇鉄の間”」(国宝)

 

「黒書院」は、将軍と親藩や譜代大名とが内輪に対面できる所で、小広間とも呼ばれています。障壁画は「狩野尚信」で、四季の情景が描かれています。これら建造物の裏北側に拡がる広場がありますが、ここには、将軍の生活を支える機能を持つ建造物などが数多く繋がっていました。

 

「二の丸御殿の”黒書院”」(国宝)↓

「二の丸御殿の黒書院」(国宝、南面)↓

 

最後に「白書院」ですが、「御座の間」とも言われ、将軍の居間であり寝室となっていました。寝室に相応しく落ち着いた水墨山水画になっていて「雪中花鳥図」等です。

 

「二の丸御殿の”白書院”」(国宝)

 

これらの建物の西側に拡がる「二の丸庭園」は、「小堀遠州」作で桃山形式の「池泉回遊式庭園」で、どの建物からでも眺められるように作庭されていますが、特に「大広間」の将軍が座る「上段の間」からの眺めが最高の眺めとして作庭されているそうです。

 

大広間西側(「上段の間」前)から見た二の丸庭園↓

 

この入口は、「車寄」西側に置かれ、冠木の無い鏡柱だけの「塀重門(へいじゅうもん)」が建ちますが、明治時代になってからの建造物です。

 

「二の丸庭園」入口の「塀重門」↓

 

また、この入口の左側に拡がる所は、「家光」時代に「後水尾天皇」の行幸があった際に「天皇」やそのお付きの為の御殿「行幸御殿」や「中宮御殿」等を急遽築城した跡地のようです。「行幸御殿」の御殿門が前述した「唐門」で、「伏見城」から移築されたものと言われています。

 

「白書院」西側の「溜蔵跡」を出ると、目の前には「本丸」に入る「本丸櫓門」(重文)が建ちますが、そこに入るのは少し後からにして、左手の壁に沿って南側へ進んだ先に長屋門形式の少しサイズが短めの「桃山門」(重文)が建ちます。

 

「桃山門」(重文)は、「御水尾天皇」行幸時には大きな門でしたが、その後改築されました。扉わきには警備兵の番所と控室があります。

 

「桃山門」(重文、長屋門形式)

「桃山門」(重文、長屋門形式)

 

そこから更に西側へ進んだところには「南中仕切門」(重文)が建ちますが、北側にも同じ門形式の「北中仕切門」(重文)があります。この門は、石垣をくり抜いたような「埋門」形式で、冠木を初め鏡柱や扉全てに鉄板が張られ非常に堅固な門でした。また、屋根は独特な形をしていて「剥(むくり)屋根」を採り入れています。

 

「南中仕切門」(重文)

「南中仕切門」(重文、独特な形をしている)↓

 

「桃山門」に戻り、その対の北側にあるのが「鳴子門」(重文)で、格式を重んじた薬医門形式になっています。

 

「鳴子門」(重文)↓

 

本丸

それでは「本丸」跡に入っていきます。

 

「本丸」は、二代将軍「秀忠」の娘「和子(まさこ)」が「御水尾天皇」に嫁ぐにあたり、「二条城」は「和子(まさこ)」の居城となり、更に1626年9月の「御水尾天皇」の行幸に先立ち大規模な改築と拡張が行われました。

 

「本丸」は、「内堀」に囲われた正方形の敷地で各隅に天守を始め隅櫓を築きました。建築物は、「伏見城」からも数多く移築されました。現在の「二の丸」跡(当時の「本丸」)の南西隅には「行幸御殿」「中宮御殿」「女院御殿」が建てられました。 

 

丁度の真ん中には「本丸」跡側に「本丸東櫓門」(重文)が建ち、堀を跨いで木橋があります。行幸時には、その木橋の上が廊下になっていた建物(廊下橋)があり「二の丸」側の「溜蔵」に続き、更に「黒書院」に繋がっていました。当時はこの廊下を歩いて、「本丸」に入り「天守」まで天皇が歩いて「天守」に登ったそうで、後にも先にも「天皇」が「天守」に上がったのは「御水尾天皇」だけらしいです。

 

この「溜蔵」と「二階廊下」は昭和5年に解体され、部材は「二条城」内に保管されているそうですので、いつか復元されるのが楽しみです。

 

「内堀」を跨ぐ「本丸東櫓門」(重文)↓

「本丸東櫓門」(重文、現在二階は塗り込められていますが、当時は廊下橋の出入口が開いていました)↓

「本丸東櫓門」(重文)の本丸側(櫓門二階には、橋長屋と廊下多門が付属していた)↓

 

「本丸東櫓門」を潜ると階段を左に折れて登ったところが「本丸」跡になります。現在の「本丸御殿」は、京都御所内にあった「旧桂宮邸御殿」を1893年から翌年にかけて移築されたモノです。現在は、保存修理工事の真っ最中です。

 

「本丸御殿」(重文、旧京都御所の桂宮邸を移築)※現在は、保存修理工事中です。↓

「本丸御殿」(重文、旧京都御所の桂宮邸を移築、西側から)↓

 

「本丸御殿」は、1750年に落雷で焼失してから再建はされませんでしたが、幕末に2人の将軍(家茂、慶喜)を迎えるにあたり「仮本丸御殿」が建設されました。「天守台」から撮られた古写真が残されていますが、外観はかなり軽量級のように見えますが、内部はしっかりしていたのではと思います。

 

本丸内の天守台

現在「本丸」跡の南西隅にある「天守台」の上には、前述したように18世紀後半まで「天守」が聳えていました。この「天守」は「伏見城」からの移築したモノですが、「天守」に纏わる経緯を簡単にお話しておきます。

 

 廃城とした「伏見城」の天守は、当初「淀城」に移築する予定でしたが、天皇の「二条城」行幸計画が持ちあがってきたことから、急遽「二条城」の天守として移されることになりました。

 

その「天守」は、五重五階地階1階、銅板瓦葺でした。しかし1750年の落雷で焼失し以降は築かれることはありませんでした。因みに「後水尾天皇」は、唯一天守に上った天皇でしかも2回上ったそうです。余程、「天守」から見える自分の居所である「御所」が、「幕府」からどのように見られているかが気になったのではないでしょうか。

 

「天守台」(東側の「桃山門」辺りから)↓

「天守台」(北側の「本丸西虎口」から) ↓

「天守台」(「本丸」跡側から)↓

 

一方、「伏見城」天守の受け入れ先であった「淀城」は「伏見城天守」サイズで天守台を築いていましたが、その案(「伏見城」天守の移築計画)が無くなったので、それまで「二条城」に建っていた「天守」(「家康」時代の「天守」で「大和郡山城」の「天守」だったものを移築した)を移したそうです。ただ、「伏見城天守」に併せて普請した淀城「天守台」だったので、四隅が空いてしまい四隅には小さな櫓四基を置きました。

 

それまで建っていた「天守」とは、「徳川家康」時代に、「大和郡山城」の「天守」を「二の丸御殿」の西北隅に移築して建てたもので、丁度現在の「清流園」内の「和楽庵」辺りに建っていたようで、「洛中洛外図屏風」(林原美術館蔵)の中に描かれている「天守」だそうです。 

 

「洛中洛外図屏風」(林原美術館蔵)の中に描かれている「家康」建築の「天守」(「東大手門」前に掲出の写真)↓

「家康」築城の「天守」があったと思われる場所(現在は、「清流園」内の「和楽庵」付近)↓

 

「本丸」の西側の出入口は「本丸西虎口」と呼ばれ、枡形を採り入れた堅固な門だったようです。

 

本丸西橋と出枡形(「天守台」より) ↓

「本丸西虎口」と「内堀」を跨ぐ「西橋」(奥には「天守台」)↓

 

二の丸西側

「西橋」を渡った「西二の丸」跡の一角に、石を積み上げた場所がロープに囲われていますが、これは「旧二条城」の石垣の一部で、「織田信長」が「足利義昭」の為に築いた室町にあった「旧二条城」跡から発掘されたものです。

 

 「旧二条城」の石垣の一部↓

 

また、この少し「北側」には、「石垣」の構造物が見えますが、そこが「西門」になります。この門は、「徳川慶喜」が大制奉還を行った後、ひっそりとこの門から城外へ出たそうです。現在は、そばまで近づくことが出来ず、中の状態の写真を撮ることができませんが、「埋門」となっています。写真は、以前に中まで見ることが出来たときに撮った写真です。

 

重文「西門」の周囲「埋門」の石垣↓

重文「西門」の「埋門」(城内から、以前に撮影した写真で現在は立入禁止ゾーン)↓

重文「西門」の「埋門」(城外から)↓

 

「堀」沿いには重文の「北土蔵(米蔵)」と「南土蔵(米蔵)」が同規模で建っています。近くから見ると大きく、扉も厳重な鍵、窓には小さな木の庇が付きます。 

 

重文「北土塀(米蔵)」↓

重文「北土蔵(米蔵)」の扉↓

 

「北中仕切門」は、「南中仕切門」と同形式の門です。その北側には、手前が土塁となり外側は石垣ですが、丁度北に向かって石垣が折れ目となっている箇所には「太鼓櫓」が建っていたようです。

 

「北中仕切門」(重文)↓

「北中仕切門」(重文)の門扉↓

 

二の丸東側

「北中仕切門」(重文)を抜けると、左手に現在は「清流園」という庭園と茶室があります。これは、「角倉了以」の屋敷から一部の建物と庭園の石を運び込み「池泉回遊式庭園」を1965年に築庭しました。 

 

更に進むと右手には、既に「桃山門」の時に説明しました「鳴子門」、更に進むと「東大手門」の時に紹介しました「北大手門」が左手に建ちます。

 

「北大手門」(重文)

 

そこから右手に折れた南側には、三つ目の「土蔵」(重文)と「二の丸長屋門」が並びます。そこから「築地塀」の内側に沿って南方向へ「倉庫」が建ちますが、こちらは復元したものです。

 

その「北大手門」南側には東西に横たわる土蔵がありますが、それは「二の丸御殿北方の米蔵」で重文指定されています。真ん中辺りが長屋門になっていて潜戸も見られますが、その両端は蔵造りで、内側から見ると大きな扉が並んでいますが、残念なことに入場禁止エリアになっていました。

 

重文「二の丸御殿北方の米蔵」の「長屋門」部分↓

重文「二の丸御殿北方の米蔵」の「長屋門門扉」↓

重文「二の丸御殿北方の米蔵」と「長屋門」部分(二の丸御殿側から、望遠で)↓

重文「二の丸御殿北方の米蔵」部分(横から覗き込んで)↓

 

この「米蔵」に対して直角に南北に建つのが復元「収蔵庫」でこちらも、前述の「米蔵」の延長のように内側に扉が並んでいます。

 

このゾーンの西側には重文の「台所」と重文の「御清所」が並でいるので、これら「収蔵庫」は、食事の素材や薪等の燃料類が収納されていたと思われます。

 

復元「収蔵庫」と奥に「重文「二の丸御殿北方の米蔵」↓

復元「収蔵庫」(北向き)↓

 

またこの西側には、「台所」と「御清所(おきよどころ)」が現存し、「台所」の内部は、広い土間と板敷きの広間、御善所、囲炉裏の間がありました。「御清所」は料理する為の建物で調理から盛り付けまで行われ、二つの建物は付廊下で結ばれていました。これらは、「二の丸御殿」の付属建造物という位置づけです。

 

「台所」(重文)↓

「御殿台所入口」(重文、中で写真展開催中)↓

「御殿台所内の小屋組み」(重文)↓

「御殿台所内の小屋組み」(重文)↓

「御清所」(重文)↓

「御清所」(重文)内の天井と煙出し↓

「御清所」(重文)の煙出し(外から)↓

 

復元「収蔵庫」の並びで、重文の「築地塀」が南に向かって延びていきますが、「御所」でも使用されている「築地」は圧巻です。

 

以上で、「二条城」を見てきましたが、「二条城」にスポットが当たったのが、江戸時代最初の三代将軍(家康・秀忠・家光)時代と幕末の二大将軍(家茂・慶喜)時代で、その間の約230年間は、在番が居城していて補修のフォローがあったと思いますが、幕末には殆ど荒れ放題だったようです。

 

 

 

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