大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

戦後の処遇で、「摂津・河内・和泉」三国65万石の一大名となった「豊臣秀頼」が、「大坂城」を居城としたので、「家康」自身の「京」での拠点を「石田三成」によって攻められ焼失した「伏見城」として、その再建を命じました。

 

そしてまだ未完成だった「伏見城」へは、1601年3月には移って政務を行い、天下普請でまず「膳所城」「加納城」の築城を開始を命じていて、この2城は前回、前々回ご紹介しました。

 

「伏見城」は、「家康」のお城として新築されるまでに色々と経緯の有るお城です。また、「伏見」の地はその後も色々と歴史的な変遷があった場所ですし、現在は「伏見城」に訪城しようと思っても、中心的なモノがないのが事実ですので、それらをひっくるめてどのようになっているかを紹介したいと思います。

 

 

「伏見城」の位置↓

 

 『壮絶な戦いで落城したが家康の手で再建された「伏見城(木幡城)京都府京都市伏見区

 

伏見の歴史と城主(伏見城とは)

「伏見城」と呼ばれているモノは3城ありました。

 

まず「秀吉」が築城した初代の伏見城は「指月(しげつ)城」と言われ1596年に地震で倒壊したものの、「指月城」で使える櫓や門などを移築して、早くも 1597年に近くの「木幡(こはた)」に二代目の「伏見城(木幡(こはた)城)」を完成させました。

 

そして1598年に「秀吉」がこの城で逝去し、「徳川家康」が京都における拠点として入城しました。

 

しかし、1600年に勃発した「関ケ原の合戦」の前哨戦で西軍に攻められて、城を死守していた「家康」の家臣「鳥居元忠」らは壮絶な戦いの末に落城しましたが、戦後直ぐに「家康」は再建を急がせて1601年には焼失を免れた「西の丸」へ入城し、更に1603年3月に完成した「伏見城」では、2月に「征夷大将軍」の宣旨を朝廷から受け取っています。

 

その後、「徳川家」の拠点としていましたが、1623年に廃城として、その後は城内にあった城郭建造物は各方面に移築されたりしています。

 

現在の「伏見城」と「縄張り」

現在、「伏見城」と一般的に言われているのが、年配の方ならご存じで1度は行かれたことが有るかもしれない「伏見桃山城」です。

 

このお城の模擬「天守」群と模擬「大手門」は、昭和39年に「伏見桃山城キャッスルランド」として営業を開始しました。しかし平成15年1月に閉園となり、その後放置されていましたが平成19年にそれを中心に「伏見桃山城運動公園」として市民に開放されています。

 

ただ、建築物の中には入れませんし、建物に近づく事も禁止されていますので、遠目から見上げるしかないですが、かなり大きく立派な建造物であることは写真ではお伝えできないかもしれません。ただ、56年間も経過しているのに剥げ落ちたりボロボロ感もなく、外壁の色も他のお城にない色ですのでひと際目立ちます。

 

「伏見桃山城」の模擬天守と模擬小天守(南側より)↓

「伏見桃山城」の模擬天守と模擬付櫓(北東方向より)↓

「伏見桃山城」の模擬天守と模擬付櫓(東方向より見上げる)↓

「伏見桃山城」模擬大手門の華美な装飾↓

「伏見桃山城」の模擬天守と模擬小天守、模擬大手門↓

 

この天守群と門は、広大な「伏見城」城域の曲輪内である「お花畑山荘」という曲輪に建てられています。

またこの曲輪の東側には、「徳善丸」「弾正丸」「大蔵丸」という曲輪が並びその北側が大きな「堀」となっていて、現在でもその名残が「北堀公園」として名前も残って見られます。

 

縄張図↓

「伏見城北堀」跡(現 「伏見北堀公園」の東方向)↓

 

また、「治部少丸」という曲輪は、「豊臣秀吉」の股肱の臣「石田三成」の官職名で正式には「治部少輔(じぶしょうゆう)」ですが、通常は「治部少」と言われていたそうで、「石田三成」の邸宅があった曲輪なのでしょう。

 

「治部少丸」跡

 

前掲出の「縄張図」で記載されている「徳川時代」の「天守」がある主郭の「本丸」跡や「二の丸」跡は、現在「明治天皇伏見桃山稜」となっていますので、かなりの遺構が残されていると思われますが、当然入ることが出来ません。

 

ただ周囲で見られる石垣や石材、「秀吉」が最初に築いた「指月城」跡、そして再利用されている城郭建造物などが残っていますので、それらを探し当てて巡るのも楽しみ方の一つだと思います。

 

「明治天皇伏見桃山御陵」に至る参拝道は、東に向かって左手に拡がる森の中が「ニノ丸」跡で、右手にも森が続きます。途中には「伏見城の石」と書かれた看板が立っていて、一つ一つがかなり大きく、所々には石をノミで割るために付けられ「矢穴」が並ぶ石も横たわっていました。

 

「明治天皇伏見桃山御陵」に至る参拝道↓

「伏見城の石」↓

「伏見城の石」(矢穴が目立つ)↓

 

両脇沿いの森から脱出した解放的な空間の場所が、「伏見城」の「本丸跡」のようで、少し廻りこんだ所に鳥居がありその奥に饅頭状の盛土がありますが、そこが「明治天皇伏見桃山御陵」です。盛土のほぼ北側に徳川時代の「天守台」が有ったとされていますので拡大しておきます。

 

「明治天皇伏見桃山御陵」↓  

「天守台」があったとされる所↓

 

そこから振り返った(鳥居の反対方向)南側は、断崖絶壁で桃山から宇治にかけての眺めがよく見渡せます。「縄張図」では、断崖の下が「四の丸」跡と「大名屋敷」跡、更に南東方向には「山里丸」そして宇治川に繋がる巨大な「御船入」跡が配備されていたようです。

 

「四ノ丸」跡と「大名屋敷」跡方向↓

 

それでは折角ですので、「秀吉」が最初に建てた「指月城」の遺構も発掘されていますので、少し写真を掲載しておきます。

 

JR奈良線「桃山駅」に近い所にある「桃山小学校」の校門内側には「指月城の石材」が展示されたり、マンション前に発掘された石垣の石を積みなおし、その脇には発掘時の状況や発掘物の写真や縄張り図、解説が掲出されています。その周辺エリアは高台になっているようで築城する場所としては最適な立地だったと思います。

 

「桃山小学校」の校門内側には「指月城の石材」が展示↓

「桃山小学校」の校門内側には「指月城の石材」が展示↓

「指月城」跡から発掘された石垣を復元↓

 

三代目の徳川「伏見城」が、1623年に廃城になった後は、江戸時代通して幕府の伏見町とその周辺や川港を統治・監視する役所として「伏見奉行所」が置かれました。ここには、主に譜代大名が派遣される重要ポストであったようで、「奉行所」といえども櫓を二基備えるなど城郭化していたようです。

 

幕末の「鳥羽伏見の戦い」では、「幕府軍」は「当奉行所」に陣取り、「薩長軍」が「御香宮(ごこうぐう)神社」を拠点にして衝突した場所で、「幕府軍」がここで敗れたことから、大坂へ敗走することとなったターニングポイントです。

 

その「御香宮神社」の「大手筋」に面した「御香宮神社の神門」は巨大な薬医門で、「伏見城大手門」が移築されたもので、重要文化財に指定されています。 

 

「伏見城大手門」(現在「御香宮神社の神門」)↓

 

この門から神社内をまっすぐ突き当たった建造物は本堂に付随した「拝殿」ですが、この拝殿の屋根下には色とりどりの彫刻物で飾られていることからも桃山時代の建造物であることがよく解ります。こちらも、「伏見城御殿」の遺構だそうです。

 

「伏見城御殿の一部」(現在「御香宮神社の拝殿」)↓

 

この神社の社務所に併設されている「伏見城跡出土遺物展示室」があり自由に見ることが出来ます。部屋内の大きなガラス戸付きの棚に、発掘調査で出土した「伏見城の丸瓦や滴水瓦等」が並んでいて、五三の桐、金箔付き瓦など興味深いものが多く展示されていますので、是非見学をしたら良いと思います。

 

ただ、金箔の付いた瓦はほぼ二代目の「豊臣秀吉」時代の「伏見城」のモノと思われます。

 

「伏見城跡出土遺物展示室」↓

「伏見城」からの発掘瓦(五三の桐紋)↓

「伏見城」からの発掘瓦(金箔が残る)↓

「伏見城」からの発掘瓦(金箔が残る)↓

 

また、拝殿と神門の間には、「伏見城」で使用されていた大きな石が多数集められています。

 

「伏見城跡残石」(「御香宮神社」境内)↓

 

「大手筋」を西側に少し進んだ所には二つの鉄道の駅があります。ほぼ同じ場所に位置するにも拘わらず「近鉄京都線桃山御陵前駅」と「京阪本線伏見桃山駅」と、駅名が異なっています。

 

そこを越えて商店街の中に少し入り右手に曲がったところに建つ「源空寺山門」には、二重の櫓を彷彿するような門が建ちます。この門も「伏見城」内にあった「城門」が当寺で再利用されているそうです。

 

「伏見城城門」(現在 「源空寺山門」に移築再利用)↓

 

移築再利用されている「伏見城」の建造物や部材

最後になりますが、「伏見城」の遺構は、全国あちらこちらに、伝説のモノも含めて多数存在するのをご存じでしょうか。 ただ、現存城郭建造物の中で、確かにこれが「伏見城」の遺構ですと証明されている建造物はそんなに多くはなく、「伝伏見城遺構」との表現が多いのも事実だと思います。

 

しかしながら、その建造物が「伏見城」のモノだったということは、お城ファンにとっては、非常に空想を膨らませたり、夢を追うことが出来てお城巡りを一層楽しめるキッカケにもなると思いますので、私は「伝伏見城」であっても、違和感なく受け入れることにしています。

 

全国に残る「伏見城」の遺構(移築或いは資材が再利用されている建造物)↓

 

何故「伏見城」の遺構が移築されて再利用されているのが多いのかという理由として二つ考えられます。

 

一つには、時の権力者であった「秀吉」や「家康」の権威を利用したくて、「伏見城」を構成していた城郭建造物を下賜されその権威を授かったことによって、時のトップの信頼を得ているとのことで、領地の統治にも利用しようとしたのではないかと思います。関白時代の「秀吉」の京都の拠点として建てられた「聚楽第」の遺構も全国で見られます。

 

一例として「観欄亭」(宮城県宮城郡松島町、「伊達政宗」が「秀吉」から拝領した「伏見城」」の茶室↓

「観欄亭」(宮城県宮城郡松島町、「伊達政宗」が「秀吉」から拝領した「伏見城」」の茶室↓

 

もう一つは、関ケ原の合戦後の江戸時代初期には「徳川家」対「豊臣家」の対立構図が引き続き存在していた時期で、特に「豊臣秀頼・淀君」が居城していた「大坂城」を、「徳川方」による包囲網形成することが急がれていたことから、「伏見城」の城郭建造物を手っ取り早く新しく築城を進めるお城に転用した為でもあると思います。

 

更には、「大坂夏の陣」で滅びた「豊臣家」を慕う豊臣恩顧の大名が、「大坂夏の陣」後も西日本には多く存在していたことから、彼らに対する監視を強化すべく有力譜代大名を配備する為の築城も急がれていたことから、廃城された「伏見城」の城郭建造物の活用を行ったと思います。

 

「明石城」坤櫓(「伏見城」からの伝移築)↓

「福山城伏見櫓」↓

「大坂城」の「伏見櫓」跡↓

「大坂城」の「伏見櫓」跡↓

「岸和田城」の「伏見櫓」跡↓

「岸和田城」の「伏見櫓」跡↓

 

何も城郭建造物を同じ形でそのまま移築するだけでなくて、当時は建築資材の入手が難しい時代でしたので、手っ取り早く資材を調達する為には、巨大だった「伏見城」の建造物の部材が使用されることが多かったのでしょう。そのような事情もあって、各所へ運ばれた部材を使用した建物が、伝説として「伏見城」の建造物の移築と言われている建物が多く残っているのかもしれません。

 

部材の再利用で有名なのが、「関ヶ原の合戦」の前哨戦で西軍に攻められた時に、在城していた「鳥居元忠」を始め約200名が最後には城内で自刃しましたが、その際に付いた血糊の手形や足型が残る部材を、再利用したと伝わる寺院の天井が「お城の血天井」として現在五~六ケ所で見ることができます。

 

これらのお寺で見ることが出来るのは、「家康」が「元忠」達を供養するために、「徳川家ゆかりのお寺」でこの床板を保存することにしたとのことです。

 

「正伝寺」(しょうでんじ、京都市 北区西賀茂北鎮守菴町)↓

「正伝寺」の「血天井」↓

「興聖寺」(こうしょうじ、宇治市宇治山田)↓

「興聖寺」の「血天井」↓

「興聖寺」(げんこうあん、京都市北区鷹峯北鷹峯町)↓

「興聖寺」の「血天井」↓

 

その他にも、「宝泉院本堂、書院の一部」(京都市左京区大原勝林院町)、「養源院」(京都市東区三十三間廻り)、「栄春寺観音堂」(京都市伏見区桃山町丹下)にも「血天井」があります。

 

<「家康」等のできごと>

「関ヶ原の合戦」後に、すぐに幕府を開いて「征夷大将軍」とならなかった理由は、戦後も「豊臣政権下」の「徳川家康」という位置付けでしたし、当時「秀頼」が「関白」に就任するとの噂が流れたことも一因でしたので、諸大名は、年始の挨拶にはまずは「大坂城」の「豊臣秀頼」を先に訪問して、臣下の礼をとっていました。

 

従って、戦後処理における東軍に属した諸将に対する領地分配の「領地宛行状(あてがえじょう)」は、「家康」の名義で発給をせずに、「家康」からなのか「秀頼」なのかを曖昧なまましていたようです。

 

一方、「家康」は「豊臣家」が持っていた権限(京都市中・畿内掌握、鉱山の直轄領化など)を積極的に吸収していき、時期を見計らって待っていたようです。

 

そして「家康」が、1603年2月に「征夷大将軍」に就任しますが、その際に「後陽成天皇」からの宣下を受けたのが「伏見城」でした。

 

宣下を受けた翌月3月に、「二条城」において「本丸」(現在の「二の丸」部分)を完成させ「家康」の「征夷大将軍」の祝賀等一連の儀式を行いました。

 

ただ、「征夷大将軍(将軍)」となった「家康」は、当面「伏見城」で政務を執り、「武家諸法度」の告知や「朝鮮使節」と引見したりしています。

 

それでは、その「二条城」について次のブログでお届けします。

 

 

 

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