大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

「江戸城」は1590年~1660年の長きに亘る工事と「天下普請」によって完成させたお城でしたので、時代が「家康」死後の先まで進行しましたが、ここでもう一度時代を引き戻してお話を続けます。

 

1598年8月に「秀吉」が逝去し、その後は「五大老」と「五奉行」の協業によって政権運営が行われるようになりました。しかしその後「家康」は、「豊臣政権下」では大名間の婚姻の許可制という決まりがあったにも拘わらず、独自で大名間の婚姻を進めたことによって、1599年には「前田利家」や「石田三成」から政権運営の専横とのことで反感を受けます。

 

1599年4月に「利家」が亡くなると、朝鮮出兵以来仲が悪かった「加藤清正」「福島正則」と「石田三成」の間で揉め事が起こり、「三成」襲撃事件が起きます。その仲裁役を「家康」が行い「三成」は「家康」に助けられますが、「三成」を蟄居させます。

 

そして「家康」は、「大坂城西の丸」に入城して政務を開始します。この時に、「西の丸」にも「天守」を建てたと言われていて、絵図にもそれが反映されています。

 

「大坂城」(西の丸内に天守)↓

 

「朝鮮出兵」を終えた各大名は自分の領地へ帰国しはじめたのが1599年でしたが、「上杉景勝」が領内の諸城を増強、拡張して軍事力を増強しているとの情報が「家康」の耳に入り、「景勝」に上京して釈明するように命じましたが、それには応じずその返事は「景勝」の家臣「直江兼続」の「直江状」だけでした。

 

これを受けて1600年6月に「上杉景勝」に叛意(はんい)ありと「会津征伐」を宣言します。これは、私戦ではなく「後陽成天皇」から『豊臣政権の忠臣である「家康」が謀反人の「景勝」を討つ』という大義名分を得ての出兵となりました。

 

「家康」が出兵すると、7月には「石田三成」が挙兵して、「家康」がいなくなった「大坂城西の丸」を占拠奪還し、更に「鳥居元忠」が留守居を務めていた「伏見城」を攻撃します。(伏見城の戦い)

 

「小山」(栃木県小山市)に滞在していた「家康」は、その情報を聞いて「小山評定」を行い武断派の「清正」「正則」を味方に付けて東軍を結成します。

 

「小山評定の地」↓

 

先に「江戸」を出発した「福島正則」達豊臣恩顧の大名と軍監として「本多忠勝」らが東海道を上り、「徳川家」の大名達の殆どは「秀忠」隊に配属されて中山道を上った。しかし「中山道」を上った「秀忠隊」は、周知のように上田城において「第二次上田合戦」で「真田勢」に手こずり「関ヶ原」に遅延するという大失態を招きます。

 

一方「江戸城」に戻った「家康」一行は9月1日に「江戸城」を出発します。9月14日に「美濃赤坂」に着陣し、9月15日に関ヶ原で東軍と西軍とが激突して「関ヶ原の合戦」が勃発、そして僅か4時間余りで決着が付き東軍が勝利をおさめます。

 

「関ヶ原古戦場 決戦地」碑↓

「家康」が最後に陣営を置いた場所↓

「石田三成」が陣営を置いた「笹尾山」↓

 

その後の論功行賞では、西軍の大名の改易・減封・移封、「豊臣家」各地の直轄地も東軍大名へ分配され加増されて、「家康」自身も250万石から400万石に加増され、一方「豊臣家」は「摂津・河内・和泉国65万石の一大名とされます。

 

1601年3月には「家康」は、「大坂城西の丸」から「伏見城」へ移り政務を行い、天下普請でまず「膳所城」「加納城」の築城を開始します。

 

 

「膳所城」の位置↓

 

 

『“関ヶ原の合戦”後すぐに築かれた“徳川方拠点”の湖城「膳所城滋賀県大津市本丸町

 

「膳所城」の歴史と城主

「関ケ原の合戦」後の1601年に、来る「大坂方(豊臣方)」と一戦があるだろうとの思いを持つ「徳川家康」の命による「天下普請」で、東海道を抑え、琵琶湖の水路も抑えることができるこの琵琶湖湖畔の場所に、「藤堂高虎」を使って「水城」を築城させました。

 

歴代「城主」は、譜代大名が統治していて、1601年に築城して入城したのが「戸田一西(かずあき)」で、その息子「氏鉄(うじかね)」が二代目です。「戸田氏鉄」といえば、「大垣城」の前で馬に跨る銅像が思い浮かびます。

 

その後は、徳川四天王と謂われた「酒井忠次」の次男として生まれ、1580年には「織田信長」の下に人質として出された時期に「本多家」の養子として入った「本多康俊」が入城します。そして「菅沼家」「石川家」と城主が変遷して、1651年に再度「本多家」が入城すると、幕末・維新迄を当家が統治を続けます。

 

縄張り

縄張りは、当初「本丸」と「二の丸」が琵琶湖内に突き出た島状に配置され、いずれも周囲は琵琶湖面に囲われ、両曲輪は廊下橋で行き来できるようになっていました。

 

「本丸」には、四重四階の総塗込めで入母屋破風以外の破風がない「天守」を建て、周囲を「三重櫓」などの櫓や、「二の丸」及び南側に出っ張る「三の丸」との出入口には各々「枡形」を伴う「鉄門」「本丸門」を置き、更に「二の丸」から西側の南北に構える「三の丸」に出る箇所には「馬出」を設ける等、非常に堅固な造りだったようです。

 

1662年に大地震が起こり、「本丸」内の三重櫓等の倒壊、湖面上の敷地に大きなダメージを受けたことから、「本丸」と「二の丸」を繋ぐ一体化修築工事を行い、元々「三の丸」で東側に出っ張った敷地を「二の丸」として「二の丸御殿」を配備しました。

 

縄張図(大地震後の縄張)↓

 

本丸

京阪電車「京津線」の「膳所駅」から真っすぐ東へ進んだ突き当りに「膳所城跡公園」があり、その正面「本丸」跡入口には模擬ですが立派な「高麗門形式」の門と両脇には土塀が築かれています。

 

膳所城跡公園の「模擬門」(高麗門)↓

膳所城跡公園の「模擬門」城内側から(高麗門)↓

 

「模擬門」を潜ると、正面のこんもりとした台地上に「膳所城跡」碑が立ちます。これに刻まれた文字は、最後の城主(藩主)であった「本多康穣(やすしげ)」の甥「本多亀男」という方の揮毫だそうです。

 

「膳所城跡」碑↓

 

「膳所城跡公園」は広々としていて 「本丸」跡内の北東隅に「天守閣跡」碑が立ちますが、「天守台」もなく場所を示すだけの標識となっています。

 

「本丸」跡(膳所城跡公園)↓

「天守閣跡」碑↓

 

公園からは何ケ所かの石段が設けられていて、湖岸沿いに降りることができます。湖岸沿いには、そんなに高くない石垣が築かれていて、「本丸跡」の北側には「井戸」跡が、南側には曲線を描く「雁木」が繋がり「舟入場」のような風情になっています。

 

「本丸」跡から「北の丸」跡方向↓

湖岸にある「石垣」と「井戸」跡↓

湖岸に沿って曲線の「雁木」(舟入場跡か)↓

湖岸の「石垣」と「雁木」↓

 

湖岸には、お城の石垣の一部であったような大きな石が、水面から顔を出して無造作に並んでいます。

 

湖水に沈む石↓

 

1662年の大地震によって、「本丸」内の三重櫓などが崩壊し湖面に浮かぶ敷地にも大きなダメージがあったことから、「本丸」と「二の丸」を繋ぐ一体化修築工事が行われました。これによって、元々「三の丸」で東側に出っ張った敷地を「二の丸」と呼称変更して「二の丸御殿」もそこに建てられました。

 

1662年以降の縄張り(左が北、右が南、本丸は旧本丸と旧二の丸を一体化して、旧三の丸を二の丸とした)↓

 

二の丸跡

現在、新「二の丸」跡の北側には、平櫓風の「浄水施設」が建っていて城内に馴染むような工夫がされています。その北側は、石垣が陸側に入り込む「堀」で、そこには「本丸」と「二の丸」を繋ぐ「廊下橋」があった場所だと思います。

 

平櫓風の「浄水施設」↓

平櫓風の「浄水施設」(「二の丸」跡の北端部分で堀が入り込んでいる)↓

平櫓風の「浄水施設」がある「二の丸」跡から「本丸」跡をのぞむ↓

「二の丸」跡から東側へ出張る「三の丸」跡方向↓

 

三の丸跡から城下、移築城郭建造物

「膳所案内絵図」を見ると、「三の丸」跡から東側に少し歩んだ所には「御殿浜」という地名があります。そこは、江戸時代に「城主(藩主)」の隠居御殿「浜御殿」があった場所で、現在でも近くの「本多神社」内には、「御殿庭」の一部が残されています。

 

「城下町 膳所案内絵図」↓

「本多御殿浜址」碑↓

 

上記掲載の「膳所案内絵図」の赤い線が「旧東海道」ですので、これ沿いに歩くと、赤丸の各神社には「膳所城」から移築された城郭建造物が移築されていますので、これを尋ね歩くことで「膳所城」を偲ぶこともできますので、少し追っていきたいと思います。

 

まず最初に、「三の丸」跡の南端となる「勢多口(せたくち)総門跡」碑があります。これは東側から城下に入る「総門」でした。以前訪問した際には、この碑の後ろには「総門番所」の現存城郭建造物が建っていましたが、既にそれは無くなり新築の民家となり「勢多口(せたくち)総門跡」碑が立つだけになっています。

「番所」はどこかに移築保存されていたら良いのですが、ネットで探しましたが見つからないのが残念です。

「勢多口(せたくち)総門跡」碑↓

嘗ての「勢多口番所」↓

 

「勢多口(せたくち)総門」は、現在は「大阪府泉大津市」にある「細見邸」に移築現存していて非常に立派な門です。この「細見さん」は、京都市内岡崎で「細見美術館」をされていて、その財団法人が所有の「城門」となっています。

 

「細見邸」に移築の高麗門(大阪府泉大津市、高麗門形式)↓

 

「京阪石山坂本線」の線路がクネクネと曲がる間を「旧東海道」が貫き、「若宮八幡宮」表門、「篠津神社」表門に「膳所城城門」が残ります。

 

どちらも「高麗門形式」の立派な門で、「若宮八幡宮」の方は市指定文化財、「篠津神社」の方が重要文化財に指定されています。

 

「若宮八幡宮」表門に移築された城門(高麗門形式、犬走門)↓

門の瓦には本多家の家紋「立ち葵」↓

「篠津神社」表門に移築された「城門」(高麗門形式、重文)↓

 

「膳所本町駅」手前まで戻りますと「膳所神社」があって、こちらには3つの城門の遺構があります。「神社北門」は「薬医門形式」、「神社表門」は「高麗門形式」の立派で堅固な城門で共に重要文化財です。また「神社南門」も移築現存した「高麗門形式」です。

 

「膳所神社」北門に移築された城門(薬医門形式、重文)↓

「膳所神社」表門に移築された城門(高麗門形式、重文)↓

「膳所神社」南門に移築された城門(高麗門形式)↓

 

駅前には、滋賀県内一番の進学校「膳所高校」がありますが、藩校「遵義堂(じゅんぎどう)」跡に建ちます。この「藩校門」は、「和田神社」に移築されています。

 

「和田神社」表門に移築された「藩校門」↓

 

このように、今挙げただけでも城下内には6箇所の移築門があり、少し離れた場所への移築した城郭建造物は「櫓」も含めて倍以上の移築建造物があるという、全国でも最大級の現存移築物数を誇るお城です。

 

芭蕉会館に移築された「二重櫓」(かなり改変されているらしい)↓

 

「膳所駅」周辺以外に移築されている「膳所城城門」を下に掲載しておきます。

 

「本丸黒門」(現在「御霊神社本殿脇門」大津市膳所池ノ内町) ↓

「南大手門」(現在「鞭崎神社神門」草津市矢橋町)↓

「城門」(現在「近津尾神社神門」大津市国分)↓

「二の丸水門」(現在「新宮神社」草津市野路町)↓

 

これらを見て回ることで、江戸時代の「膳所城」の姿を思い描くことができて、非常にワクワクするお城だと思います。

 

江戸と京都を結ぶ「東海道」を戦略的に取り込んで築城をさせた「膳所城」ですが、「家康」の先見の明ある選地であったことが良くわかります。

 

 

 

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