大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

昨日も、以下の出来事を記載しましたがもう一度復習しておきます。

 

「小牧・長久手の戦い」で「織田信雄」が「秀吉」と和睦に応じてしまったことで、梯子を外された「家康」は、一旦和睦を受け入れて「家康」の次男「於義丸」(後の「秀康」)を「秀吉」の養子に差し出しますが、「家康」と「秀吉」の間は冷戦状態が続きました。

 

そんな中、「天正壬午の乱」で「北条氏」と和睦で問題となった「沼田」を領有する「真田昌幸」に対して、「家康」は「沼田城」の「北条氏」への明け渡しを命じると、「昌幸」はそれを拒否して「上杉景勝」に寝返りました。

 

そして1585年8月に「家康」は「沼田城」「上田城」等へ軍を派遣しましたが、特に「上田城」(長野県上田市)において「二の丸」まで突入した「徳川軍」は、それが擬態であって逆に総攻撃を受けて大損害を受けました。

 

昨日のブログでは、「徳川軍」が攻撃した「上田城」をお届けしました。

 

「上田城」を攻めあぐねた「徳川軍」は「真田氏」に呼応した「丸子(まりこ)城」(静岡県静岡市駿河区)を攻めて睨み合いが続く中で、重臣の「石川数正」が「秀吉」に出奔し「秀吉」は「家康」に対する攻撃を宣言したので「徳川軍」は撤退しました。

 

それでは今回は、「真田氏」に呼応して旗を揚げた「丸子(まりこ)城」をお届けします。

 

 

「丸子(まりこ)城」の位置↓

 

”本曲輪”周囲に仕掛け多く睨み合いが続いた丸子(まりこ)城」(静岡県静岡市駿河区

 

「丸子城」の歴史と城主

1394年~1428年に間に、「今川氏」の家臣「斎藤氏」によって築城されたようで、1476年には「今川氏」の家督争いの中で「龍王丸(後の「今川氏親」)が一時当城で過ごしました。

 

1568年には、「武田信玄」の駿河侵攻によって駿府は陥落し、「信玄」は「山県昌景」を城代として置き、その後は城番を置いて駿河を固めようとします。

 

しかし、1581年に「武田勢」が守っていた「高天神城」が「徳川軍」によって落城して「武田勢」は後退します。1585年の「第一次上田合戦」では、城主の「丸子氏」が「真田氏」に呼応した動きによって「徳川方」の「諏訪頼忠」「岡部長盛」らにより攻撃をしますが、それを退け睨み合いとなりました。

 

その後「徳川家康」は、駿府防備の為に「松平備後守」に「丸子城」に駐留させましたが、1590年の関東移封によって廃城となります。

 

縄張り

標高約140mの「三角(みかど)山」の尾根先端に築かれ、北から「L」字状の逆に延びます。「L」字のトップに「本曲輪」を置き、周囲を「丸馬出(出曲輪)」「三日月堀」や長い「竪堀」で守りを固めています。

 

「本曲輪(本丸)」から「二の曲輪(二の丸)」「三の曲輪(三の丸)」「北曲輪」の西側下には、長大な「横堀」と「土塁」が築かれていて、西側からの攻撃に備えています。

 

また各「曲輪」の間には「堀切」、「東曲輪(大手曲輪)」周囲の「三日月堀」等も、防備を高めています。

 

「縄張り図」(形が正確、現地に掲出)↓

「縄張り図」(イメージ絵図、現地に掲出)↓

 

大手口まで

それでは、「稲荷神社」から南に向かって進んで行きます。「大手口」までの途中には小さな「堀切」が見られ「土橋」が架けられています。

 

「堀切」に架かる「土橋」↓

 

大手曲輪(東曲輪)

「大手口」から「大手曲輪(東曲輪)」に入る「土橋」の右手から奥にかけて「L」字型の横堀が横たわっています。「大手曲輪(東曲輪)」は次に続く「北曲輪」の馬出的な存在でした。

 

「大手曲輪(東曲輪)」手前の「横堀」↓

「大手曲輪」↓

 

曲輪

「北曲輪」に入ると「虎口」があって両脇には「土塁」が築かれていますが「木戸」跡のようです。「北曲輪」の形は「く」の字型を逆方向にした形で、ここが「今川時代の本丸」だった場所です。

 

「北曲輪」の「虎口」(「木戸」跡、「本丸曲輪」方向)↓

「北曲輪」↓

 

丁度「く」の字型の出張った辺りには高さがある「土塁」がありましたが、それが「櫓台」のようです。

 

「北曲輪」内の「櫓台」↓

 

二の曲輪(二の丸)

「北曲輪」の西端には、「二の曲輪(二の丸)」との間に深い「空堀」が仕組まれています。そして堀底から上がると

「二の曲輪(二の丸)」となり、視界が拡がる展望台が設置され、ベンチも置かれた広い敷地となります。

 

「北曲輪」と「二の曲輪(二の丸)」との間に深い「空堀」↓

「二の曲輪(二の丸)」↓

「二の曲輪(二の丸)」からの眺望↓

 

「二の曲輪(二の丸)」と「本曲輪(本丸)」の間にも「堀切」が設けられていて、「土橋」を挟んで西側の小さな穴は「箱堀」のようになり、東側は下へ落ちて行く「竪堀」になっています。

 

「箱堀」(「土橋」から西側)↓

「二の曲輪(二の丸)」と「本曲輪(本丸)」の間の「堀切」と「土橋」↓

「二の曲輪(二の丸)」と「本曲輪(本丸)」の間の「堀切」から「竪堀」へ↓

 

本曲輪(本丸

「本曲輪(本丸)」へ上がる階段は二段構成になっていて「桝形虎口」が採用されています。「本曲輪(本丸)」は広く、虎口が3箇所あって、一つは先程の「桝形虎口」、二つ目は「平虎口」でこちからは南へ段状に延びる「袖曲輪」の出入口、もう一つが「喰違い虎口」です。

 

「本曲輪(本丸)」へは「桝形虎口」となっている↓

「本曲輪(本丸)」の「桝形虎口」(少し分かりにくい)↓

 

「本曲輪(本丸)」の「桝形虎口」から東側にかけてと北側にかけてに「土塁」が続きます。

 

「本曲輪」の東側「土塁」↓

「本曲輪」の北側「土塁」↓

「本曲輪(本丸)」↓

「本曲輪(本丸)」の「平虎口」↓

南へ段状に延びる「袖曲輪」↓

 

「喰違い虎口」は、何とか喰い違いになっているのが認められますが、その下へ下りるには少し滑るのを警戒しながら下りなければなりません。

 

「喰違い虎口」↓

 

物見曲輪(馬出し的

下を見下ろすと、「堀」を隔てて「馬出的」な「物見曲輪」が横たわるのが見えます。下まで下りると「本曲輪」と「物見曲輪」の間に「V」字となった堀切が見られます。

 

 

「本曲輪(本丸)」から見下ろす「馬出的」な「物見曲輪」↓

「本曲輪(本丸)」の西下にある「馬出的」な「物見曲輪」↓

 

「本曲輪(本丸)」と「物見曲輪」の間の「堀切」↓

 

大鈩曲輪(おだたらくるわ)-馬出

また「物見曲輪」の下には、「馬出 (大鈩曲輪-おだたらくるわ)」が盛り上がりを見せていて、その周囲を綺麗な形をした「三日月堀」が確認できます。

 

「物見曲輪」の下には「馬出 (大鈩曲輪-おだたらくるわ)」↓

「馬出 (大鈩曲輪-おだたらくるわ)」↓

「馬出 (大鈩曲輪-おだたらくるわ)」と「三日月堀」↓

「馬出 (大鈩曲輪-おだたらくるわ)」と「三日月堀」↓

 

更にその下からは、凄い長い距離がある「竪堀」が下に向かって落ちて行き、その東側には「竪堀」の流れに沿って「土塁」が付随していますので、「竪堀」の行方を目で追うことができました。

 

長い「竪堀」と「土塁」↓

長い「竪堀」と「土塁」↓

長い「竪堀」と「土塁」↓

 

大横堀-本丸下から北曲輪下まで続く

そして最大の見所は、「物見曲輪」と「本曲輪(本丸)」の間の「堀切」から端を発するように、尾根上の「曲輪」が折れ曲る辺りまで、その下に沿って北西方向に「横堀」が掘られていて完璧の西側防御に徹しているのが見られます。

 

「横堀」(「北曲輪」方向)↓

「横堀」(「北曲輪」方向)↓

「横堀」(「北曲輪」方向)↓

 

「北曲輪」から見下ろす「横堀」↓

 

更には、その「横堀」の中間点辺りには、「馬出」と「三日月堀」を設けています。

 

「丸子城」がある「三角山」↓

「丸子城」がある「三角山」(手前の山)↓

 

以上「丸子城」を見てきましたが、「本丸(本曲輪)」中心に数々の防御が仕掛けられていますので、「徳川軍」としても下手に進軍できない状況が続き睨み合いとなりました。

 

睨み合いが続く中で、重臣の「石川数正」が「秀吉」に出奔し「秀吉」は「家康」に対する攻撃を宣言したので「徳川軍」は撤退せざるを得なくなりました。

 

 

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