昨年の11月29日から大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを始めました。途中約1ケ月の中断をしてしまい2024年に突入してしまいましたが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事
「高天神城」を落とした「家康」に対して、「武田勝頼」はどんどん凋落していきました。1582年1月には信濃の有力豪族「木曽義昌」が「織田方」へ寝返り、これを契機に信濃(武田)攻めを開始します。

武田領内の「浅間山噴火」もあって豪族や領民は動揺を抑えきれず「織田方」へどんどん付いていきます。「徳川方」は遠江から駿河へ進攻し、極めつけとして「駿河」における「武田方」の中心人物であった「穴山梅雪」(「信玄」の次女を妻に貰っていた「武田氏」の親族にも拘わらず)が「織田方」に内通し、更に「家康」を通じて寝返った後の褒章を持ちかけて「織田方」に寝返らせて、「駿河」一国を献上させました。

「梅雪」の裏切りが、「武田方」を大きく揺るがせた事件となり、これが大きな引き金となって武田兵が離散、「勝頼」の逃避行と「天目山」へ追い込まれての自刃となりました。

こうして「信玄」の死後9年で名門「武田氏」は滅亡して、1582年3月に「家康」は旧領の「駿河」一国を与えられます。

この1582年は非常に様々なことが起こった年でもあります。

 

「信長」は、信濃(武田)攻め後、富士山見物、駿河見物を兼ねて東海地方を廻って帰路に着いていますが、その時の「家康」による接待が素晴しいものだったようです。

その返礼ともいえる1582年5月には、「家康」は「安土城」に招かれて接待を受けています。そして6月に入り6月1日には堺での茶会と見物の為に堺へ入りました。

そして6月2日、「本能寺の変」が起こり「信長」は自刃、「信長」と同盟者であった「家康」一行は命からがら「神君伊賀越え」によって3日で「岡崎城」へ帰国しました。

しかしその後、「織田領」となっていた「旧武田領」を巡って「上杉」「北条」「徳川」の争いが勃発し、結果、「北信濃」は「上杉氏」が、「上野(こうずけ)国」は「北条氏」が、「甲斐国」「信濃国」は「徳川氏」の支配となります。この争いが「天正・壬午の乱」(1582年7月)と呼ばれています。

「信長」の死後、「織田氏」の行く末を決める「清須会議」が1582年6月27日に行われました。ここで、後継者は「三法師(「信長」の嫡男「信忠」の子供)に決定しましたが、その後見の座を巡って「織田信雄」と「織田信孝」が対立、宿老による集団指導体制が造られましたが、「信孝」「柴田勝家」対「信雄」「羽柴秀吉」が戦い、「信雄」を「織田氏」の当主とします。

しかし、「賤ケ岳の戦い」で「柴田勝家」が敗死し、「信孝」も「秀吉」に粛清されることによって、今度は「信雄」と「秀吉」の対立が始まりました。「秀吉」は「織田氏」に替わって自らを天下人と位置づけ、「家康」に対しては、「秀吉」は「上杉景勝」や「真田昌幸」と結び付けて「家康」と対立するようになります。

「秀吉」を共通の敵とした「信雄」と「家康」は接近するようになり、東に関心を向ける「秀吉」を危険視した「家康」は、「信雄」を支持して「織田氏」の復興を標榜しながら「秀吉」と対抗していく姿勢を強めて行きます。

こうして1584年3月に、「小牧・長久手の戦い」が勃発します。


「家康」は、「織田信長」が築城して居城していた「小牧山城」を補修し陣城として活用した後、密かに「犬山城」に移動します。

 

「秀吉方」の「森長可(ながよし)」対「徳川方」の「酒井忠次」が戦う「羽黒の戦い」では「森長可」は敗走、次に「家康」の留守を衝いて三河を襲う計画で「羽柴秀次」を大将にして「森長可」「池田恒興」が進発しましたが、「長久手」で「家康・信雄軍」に襲撃されて両氏とも戦死します。

しかし「信雄」は11月に入り「単独講和」を「秀吉」と結んだことから、大義名分を無くした「家康」も講和を余儀なくされます。

 

 

それでは、「家康」「織田信雄」が「秀吉」と対峙して、改修して対「秀吉」の陣城にした「小牧山城」をお届けします。

 

「小牧山城」の位置↓

 

「羽柴秀吉」との戦いの拠点となった「小牧山城」(愛知県小牧市)、最初は「信長」の美濃攻めの拠点だった

 

「小牧山城」の歴史と城主

「小牧山城」は、「織田信長」が「桶狭間の戦い」後、すぐに美濃攻めの軍を起こすべくまずは「徳川家」と「清須同盟」を結び、美濃攻めの本拠地として選んだのが濃尾平野のど真ん中にある標高86mの「小牧山」でした。

 

「信長」は「丹羽長秀」を奉行として築城させ、長期滞在も視野に入れて城下町も移しましたが、美濃攻略が比較的に早く終わったので居城を「稲葉山城(現岐阜城)」に移し、当城は4年で廃城とします。

 

その後ここが表舞台になるのが、「信長」死後に開かれた「清須会議」で、「羽柴秀吉」による扱いに不満を持っていた「信長」次男の「信雄」が、「徳川家康」に寄り添う形で、「徳川家康・織田信雄連合軍」対「羽柴秀吉」という構図で対峙することとなって、連合軍の「陣城」として改修されました。

 

従って、「小牧山城」を見る際には、「織田信長」による主に「主郭」周辺の石垣と「大手道」、「徳川家康」による中腹から麓にかけての「横堀」と「枡形虎口」がポイントとなります。

 

縄張り

「大手口」は小牧山の南側に位置していますが、それ以外にも麓には北側の「搦手虎口」他に3箇所もありました。

 

「曲輪」は、大きくは「大手曲輪地区」が「大手口」を取り込んだ形で位置しています。ここに、「大手口」から北方向に真直ぐに延びた「大手道」が延びています。

 

「大手道」の終点部分が東西に分かれ東部分が「主郭地区」、西部分が「西側曲輪地区」となっています。

 

「主郭地区」への入口「虎口」は東西南北4箇所に置かれていて、特に「虎口b」へは直線で「大手口」から登る「大手道」の終点から左に(東側)に折れて直結した所に置かれ、そこからは九十九折れで「主郭」の中心に至る重要な虎口となっています。

 

その他、山麓の東側から北側にかけて「帯曲輪地区」が取巻いています。

 

縄張図(これは、現地に掲出されていたモノ)↓

帯曲輪地区の案内図↓

 

徳川家康が築いた麓の虎口~土塁内

まず、「徳川家康」は「羽柴秀吉」と一戦を交えた「小牧・長久手の戦い」の際に、「徳川方」が手を加えた部分を見て行きましょう。

 

特にそれは、「小牧山」の南から東にかけた麓部分に現在でも遺構を見ることができます。土塁、空堀、枡形虎口が残っています。「南東虎口」は「桝形虎口」で外側からの入口は左へ折れて更に右に折れて中へ入る桝形を形成しています。現在は、その上を木橋で通行しやすくしています。

 

「小牧・長久手の戦い」時に築造された南東側の枡形虎口(外側から左に折れ曲がる)↓

「小牧・長久手の戦い」時に築造された南東側の枡形虎口(更に右に折れ曲がる)↓

 

バス道沿いには「土塁」が草に覆われ「堀」跡も見られますが、「土塁」の内側は、草がカットされた状態で分かり易くなっています。

 

草に覆われた「土塁」と「空堀」跡(「土塁」の外側から)↓

「小牧・長久手の戦い」時に築造された土塁(内側から)↓

「小牧・長久手の戦い」時に築造された土塁(内側から)↓

 

「帯曲輪地区」も「徳川方」が築いたエリアと思われますが、現在は「れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)」という資料館が建ちます。

 

「帯曲輪」跡(左手の建物は「れきしるこまき」という「史跡情報館」)↓

 

織田信長時代の遺構と家康時代の遺構が混在-大手口と大手道、大土塁と大空堀

「大手口」からは、「織田信長」時代に築かれて現在でも真っ直ぐに延びる「大手道」が見られます。

 

「大手道」を詳細に見る前に東側(右手)の開(ひら)けた場所に横たわる大きな「大土塁」と「大空堀」を見下ろしましょう。

 

芝が刈ってあるので非常に綺麗な膨らみと凹みが眼に入ります。ここも「小牧・長久手の戦い」の時に、「徳川方」が手を入れた場所です。この大空堀の中に待機武者達を大勢控えさせていましたが、「羽柴方」からは全く見えなかったと思います。

 

「大手口」から見上げた「小牧山」↓

「小牧・長久手の戦い」で徳川方が手を入れた「土塁」↓

「小牧・長久手の戦い」で徳川方が手を入れた「土塁」と「空堀」↓

「小牧・長久手の戦い」で徳川方が手を入れた「土塁」と「空堀」↓

「小牧・長久手の戦い」で徳川方が手を入れた「土塁」と「空堀」↓

 

それでは「信長」が「稲葉山城(岐阜城)」攻略の際に築いた「小牧山城」のメイン導線だった「大手道」を見ましょう。

 

「大手道」の長さは約150mでその両脇には排水溝と3段の石組があったそうですが、現在は石組は見られず排水溝らしきものは見られます。「織田信長」が「安土城」を築いた時に、「小牧山城」で培ったノウハウの一つであった真っすぐに延びる「大手道」を採り入れて再現したと謂われています。

 

一本道の「大手道」(下から見上げる)↓

一本道の「大手道」↓

一本道の「大手道」(もう少し上から見上げたところ)↓

一本道の「大手道」下り↓

 

尾張藩時代の遺構

右手には“ポツンと一軒家”如く墓所が立ちますが、これは、尾張藩九代藩主「徳川宗睦(むねちか)」の墓標です。尾張藩の藩主が菩提寺で弔われないで何故「小牧山」にあるのかですが、元々は菩提寺「建中寺」に墓所があったのを、昭和時代中頃に、こちらへ移されたとか。

 

理由は、戦後の区画整理で市内にあった墓所の移転計画で、敷地面積の都合上、全ての藩主の墓所を移転できなかったので、それを聞いた小牧の方が、小牧にも所縁(小牧代官所を設けた)があった「宗睦」の墓石を貰い受けて「小牧山」へ移設したそうです。

 

「大手道」脇に立つ『尾張藩九代藩主「徳川宗睦(むねちか)」の墓標』↓

 

中腹に横たわる家康が築いた「土塁」「横堀」

「大手道」の突当りまで上ってきますと、この付近にも「小牧・長久手の戦い」時に、「徳川方」が築いたと言われている「土塁」と「横堀(空堀)」が見られます。

 

「小牧・長久手の戦い」時の「土塁」↓

「小牧・長久手の戦い」時の「横堀」↓

「小牧・長久手の戦い」時の「横堀」↓

 

「大手道」はここで折れ曲り東に向けて約70m程延びます。丁度この北側には先ほどの「土塁」が築かれその前には「横堀」が掘られています。

 

東西を走る「大手道」(左手に、「土塁」と「横堀」がある)↓

 

主郭

「大手道」は「虎口b」から「主郭地区」に入り、「九十九折れ」となって「主郭南虎口」に繋がります。

 

九十九折れの「大手道」(もう手前は、「主郭虎口」)↓

まもなく「主郭虎口」↓

 

階段を少し上がった所が「主郭」で、「歴史館」及び「展望」となっています。その山肌には、沢山の巨石や石組みが見られます。

 

大手道の最期、南正面の「主郭南虎口」から「主郭」に入ると現在はそこに城郭建築風の建物「歴史館」が建ちます。「主郭」に入る際に通った所には、大きな方形の「花崗岩」の石と、尾張徳川家19代の「徳川長親」の銅像が立ちます。

 

「主郭跡」碑と尾張徳川家19代の「徳川長親」の銅像↓

 

「小牧山」は元々「尾張藩徳川家」のものでしたが、明治維新時に明治政府に没収されていました。しかし「長親」は「小牧山」を自費で買い戻し、昭和5年に小牧市に贈られた山です。

 

「主郭」の西側から南東側にかけた山肌には、積まれていた石が落ちた「転落石」が散らばっています。

 

主郭周辺案内図↓

転落石↓

転落石↓

 

また、「主郭」の下部を腰巻石垣風に巨石をとり巻いている箇所や、「石垣=石積み」も見られます。

 

石垣↓

巨石の石垣↓

石垣↓

 

また、説明書きが立ち並んでいて色々な発掘情報を目にすることができます。現在見た目では判らないですが、石段は上下段になっていたり、入隅と出隅を繰り返しながら主郭を取り囲んでいました。また、「根石」は良好に埋まっていたようです。

 

「上下段の石垣」の発掘状況↓

「上段の石垣と裏込石」の発掘状況↓

「下段の石垣」の発掘状況↓

「段築状の石垣」の発掘状況↓

 

「主郭」下の空き地に細かい石が積み上げられている塊が数か所ありましたが、それが発掘された「裏込石」だったとのことで、「小牧山城」のこれだけの石垣にも拘わらず、これ程の「裏込石」を詰め込んでいた、ということは、他の大城郭の石垣の裏に眠る「裏込石」の量の多さは想像を絶するものだということが分かりました。

 

発掘された「裏込石」の置き場↓

発掘された「裏込石」の置き場↓

 

それでは、主郭に建つ模擬の城郭建造物風建物である「歴史館」の外観と、最上階の展望部分からの眺めを見ましょう。

 

この「歴史館」の建物は、西本願寺の「飛雲閣」をモデルにして1968年に開館したもので、望楼型のなかなか斬新なデザインの外観を誇っています。

 

「飛雲閣」をモデルにした斬新な外観デザインの天守風建造物↓

「飛雲閣」をモデルにした斬新な外観デザインの天守風建造物↓

「飛雲閣」をモデルにした斬新な外観デザインの天守風建造物(東面)↓

「飛雲閣」をモデルにした斬新な外観デザインの天守風建造物(北=裏面)↓

 

当時の「織田信長」時代には、このような重層の「天守」といわれる建造物は築造していなかったでしょうが、山頂から360度の範囲内の敵の動きを察知できただろうな、ということを体験することができます。

 

また、ここを拠点に、当時の「稲葉山城」にいた「斎藤龍興」を攻めるべく陣取ったと思いますが、北北西方向に、小さく「金華山(稲葉山)」を望むことができました。また、名古屋駅周辺に建ち並ぶビルの摩天楼は非常に目立っていました。  

 

「金華山(稲葉山)」をのぞむ↓

名古屋駅周辺に建ち並ぶビルの摩天楼をのぞむ↓

 

 

 

 

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