昨年の11月29日から大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを始めましたが、途中約1ケ月の中断をしてしまい2024年に突入してしまいましたが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。
<「家康」の出来事>
「家康」にとって「遠江」一国の支配をする為にはどうしても「武田方」からの奪還が必要だった「高天神城」ですが、難攻不落のお城攻めとないりますので、周囲の「武田方」の城から切り落していかなければならず、「諏訪原城」「犬居城」「田中城」等を次々と攻略し、最後に「高天神城」のすぐ近くに「横須賀城」と6砦を築いて攻勢を強めました。
「横須賀城」を中心にした包囲網に対して「高天神城」では、「武田方」の「岡部元信」率いる100名が守備するにすぎず、城は孤立して兵糧輸送もストップされていたので、「徳川方」としては一気に攻めることもできたのですが、「家康」は慎重論を取り1万の兵で取り囲み兵糧作戦を行いました。
というのも、暫くすると「高天神城」の「岡部元信」から降伏の申し出がありましたが、「織田信長」からは、それを受け入れるなとの書状が届いていたからです。「信長」の思いとしては、「武田勝頼」が「北条氏」とも抗争中だったので、「高天神城」に援軍を送ることができないだろう、そうすると「勝頼が高天神城を見殺しにした」との風評を立てることができるとの狙いでした。
このような状況下、1581年3月にとうとう「岡部元信」は打って出たものの全員が討ち死にして落城したので、「家康」は「高天神城」を奪還することができました。
ということで、本日はその「高天神城」をお届けしたいと思います。
等の六砦を築いて包囲網を完成させました。
「高天神城」の位置↓
『徳川方と武田方と壮絶な争奪戦を繰り広げられた「高天神城」(静岡県掛川市)』
<「高天神城」の歴史と城主>
当城は、駿河の守護職であった「今川氏」が遠江に勢力を伸ばす中で支城として築かれたようです。しかし、「今川義元」が桶狭間で敗死したことで「今川氏」が衰退、家臣だった城主の「小笠原長忠」は「徳川家康」の誘いに乗って「徳川方」となりました。
その後、「武田信玄」が勢力拡大をすべく遠江へ進軍してきましたが、「長忠」は籠城して城を死守したので攻めきれずに通過していきます。
「信玄」死後、1574年に「武田勝頼」が「高天神城」を攻略します。「長忠」は援軍も無く力尽きて開城し、「武田氏」の持ち城となります。
1575年に「武田勝頼」が「長篠の戦」で大敗したのを機に、「家康」は「高天神城」奪還作戦を取り、「横須賀城」を中心に、周囲に6砦(高天神六砦)を築く包囲網によって孤立化を進めました。
1581年には、「武田方」は弾薬が切れ援軍も無いままに全員出撃しましたが玉砕して果て、その後入城した「家康」によって焼き払われました。
<縄張り>
お城の丁度真ん中の「井戸曲輪」跡を中心に「東峰」と「西峰」に分かれていて、「一城別郭(いちじょうべっかく)」のお城といいます。
「東峰」は主に居住空間で、「大手門」が置かれ「三の丸」「備前曲輪」「的場曲輪」等の曲輪があり発掘調査では礎石などが見つかり居住空間であったらしいです。
「西峰」は西側からの攻勢に対する戦闘態勢を施した空間のようで「袖曲輪」「堂の尾曲輪」「井楼曲輪」「馬場曲輪」「二の丸」「西の丸」等が置かれて、堀切、横堀、切岸等の様々な仕掛けの宝庫になっています。
「高天神城」の縄張図↓
「高天神城」の立体絵図↓
<東峰-追手門>
「追手門」は「東峰」の方にあり「搦手門」は「井戸曲輪」から北側へ下りた所にあります。
今回は「追手門」跡から登城していきます。まず最初に「着到櫓」台があり、「追手門」の監視を担っていたものと思われます。その脇に「三の丸」へ上がる階段が続きます。
「追手門」跡↓
「着到櫓」跡↓
<東峰-三の丸>
「三の丸」跡に着くとその周囲は「土塁」に囲われていて、また眺めも良好でここから「富士山」を望むことができます。「三の丸」は、別名「小笠原与左衛門曲輪」と名付けられ、彼が「三の丸」の大将として城兵250人を従え守備していたそうです。
「三の丸」跡↓
「三の丸」跡周囲の「土塁」↓
「三の丸」跡から見える「富士山」↓
<東峰-御前曲輪・本丸>
その北側の段上が「御前曲輪」「本丸」の各跡が繋がって北へ延びています。「本丸(本曲輪)」跡は、「土塁」に囲われていて、掘立柱の建物と礎石上に建つ建物が有ったことが発掘調査で分かっているそうです。
「御前曲輪」跡から「三の丸」跡を見下ろす↓
「御前曲輪」跡↓
「本丸」跡↓
「本丸」跡周囲の「土塁」↓
更に、「本丸」跡と「御前曲輪」跡の間には「元宮」がありますが、これは現在「西の丸」跡に建つ「高天神社」が江戸時代半ばまで建っていた場所です。
<東峰-腰曲輪・的場曲輪>
更に「本丸」跡は、東崖下の「腰曲輪」や西側の「的場曲輪」によって固く守られていました。
「腰曲輪」は比較的平坦で細長く、「本丸」跡下から「御前曲輪」跡下まで取り囲んでいます。その途中の岩盤に格子の扉が嵌め込まれているのが「大河内政局(まさもと)」石窟と言われ、1574年の武田軍の攻撃による落城の際に、徳川方から武田方の軍門に下らなかったことから武田勢が「政局」をなんと9年間も幽閉した石牢です。また、「的場曲輪」跡は、弓矢の練習をする曲輪です。
「大河内政局」幽閉の石窟↓
「的場曲輪」跡↓
<井戸曲輪>
「井戸曲輪」跡は、「東峰」と「西峰」の中間点、しかも「搦手口」からの道の到達点でもあり、曲輪内には「かな井戸」が掘られ山城の水補給場所となっていました。
「井戸曲輪」跡↓
「井戸曲輪」跡内の「かな井戸」↓
「縄張り図」(城内に掲出)↓
「高天神城の城郭構造」(左側が「西峰」、城内にて掲出)↓
<西峰-二の丸>
「西峰」には、西からの集中攻撃に備えて数多くの仕掛けがあり、特に最も多く仕掛けがあるという北に延びる尾根沿いの曲輪方向をまず見ていきます。左手には段々になった「二の丸」跡が西方向へ延びています。
「二の丸」と(段々になった、西方向)↓
「二の丸」跡の最も西側は、縄張り図を見ても分かるように、「切岸」を設けた断崖絶壁にして、そこには数本の「竪堀」を施して攻めづらくしています。
「切岸」↓
「竪堀」(上から)↓
「竪堀」(下から)↓
「二の丸」(東方向)↓
<西峰-袖曲輪>
まず北に進むとまずは小さい曲輪の「袖曲輪」に辿り着きます。この敷地の北側には「虎口」跡の「土塁」二山が盛り上がっています。「虎口」というのは、曲輪の出入口の事で、当時は両脇を土塁で固めて入口には木で門を構えていたかもしれません。
「袖曲輪」跡と後方に「虎口」跡の土塁盛り上がり↓
「袖曲輪」跡の「虎口」跡↓
<西峰-堂の尾曲輪>
その奥には北方向への尾根を分断する「堀切」があり、深さ6m・幅7.5mもあってその向こう側に続くのが「堂の尾曲輪」跡です。
手前が「堀切」で奥に「堂の尾曲輪」跡が伸びる↓
「堂の尾曲輪」跡(左側)と「袖曲輪」跡(右側)の間の堀切↓
「堂の尾曲輪」跡から見た「堀切」越しの「袖曲輪」跡(虎口のふくらみが見える)↓
北に延びる「堂の尾曲輪」跡↓
<西峰-井楼曲輪>
細長い「堂の尾曲輪」跡の先端まで進むと、再び尾根がカットされた「堀切」があり、向こう側の曲輪が「井楼曲輪」跡で見張り台なっていた場所です。
「堂の尾曲輪」跡(手前)と「井楼曲輪」跡(奥)との間の「堀切」)↓
「井楼曲輪」跡↓
<西峰-井楼・堂の尾下>
そこから西側に下りると、当城で最も特徴のある深さ2mの「横堀」が長さ100mに渡って「井楼曲輪」西下から「堂の尾曲輪」西下まで施されていて今でも良く残ります。更にその西側は「切岸」にして断崖絶壁にしています。
「横堀」(「井楼曲輪」西下から「堂の尾曲輪」西下まで、北方向)↓
「横堀」(「井楼曲輪」西下から「堂の尾曲輪」西下まで、南方向)↓
更にその下の「西側」には断崖絶壁の「切岸」を設けていました。
「横堀」跡西側は「切岸」(垂直に近い角度で削っている)↓
これらの仕掛けは、「徳川方」が城主だった時に「武田方」としては攻めやすかったことから、逆に「武田方」が城主になってから西方向から攻めてくると予想された「徳川方」の攻撃からの阻止を行う為に、更に強化して設けたものです。
<西峰-馬場曲輪>
前述の「袖曲輪」と「堂の尾曲輪」間の「堀切」の西下が「馬場曲輪」になっていて、その周囲にも「隍堀(からほり)」を設けていてその跡も2箇所程ありました。当城では、「空堀(からほり)」を「隍堀(からほり)」と表示しています。
「堂の尾曲輪」跡と「袖曲輪」跡との間の「堀切」 (「馬場曲輪」から見上げる)↓
「隍堀(からほり)」↓
<西峰-西の丸・馬場平>
「馬場曲輪」跡から「二の丸」跡の西端に出て、今度は「西の丸」跡へ参ります。
「西の丸」跡には鳥居を潜り長い階段を登った「西峰」の最高峰に「高天神社」が建ちます。お城の守護神で元々は「本丸元宮」にありましたが1724年にこちらへ移されました。周囲には、背の高い「土塁」が残ります。
「西の丸」跡に建つ「高天神社」↓
「西の丸」跡↓
高天神社が建つ「西の丸」跡周囲の「土塁」↓
「西の丸」跡は最高峰だけあって眺めは最高で、遠くに「遠州灘」が光り輝いています。
「西の丸」跡からの遠望(遠くに「遠州灘」)↓
「西の丸」跡から南東方向へ廻ると、尾根をカットした「堀切」や「掘割」が見られ、深い谷を形成してそこへ一旦階段で下り再び向こう側の「馬場平」跡へ上ります。
「堀割」跡
「馬場平」跡は、細長いので馬場の練習地と思われがちですが、「番場(ばんば)」という東南方向から続く尾根からの侵入や出入りを監視する「番所」であって、当て字が使われたようです。
「馬場平」跡↓
<甚五郎抜け道>
ここから西側方向に尾根が続きますが、この尾根上に細い道あります。この道は、「甚五郎抜け道」と呼ばれていて、1581年3月の落城時に軍監だった「横田甚五郎」が城を抜け出してこの尾根伝いの道を甲府迄走り「武田勝頼」に落城報告をしたと謂れている道です。あまりにも尾根沿いの狭い道なので、犬や猿でも恐れをなして後戻りするとかで「犬戻り・猿戻り」とも言われています。
「甚五郎抜け道」の最初部分↓
途中にアップダウンが何度もあり、どうやって「甚五郎」は馬で走り切ったのかと思うような道が続きます。
「甚五郎抜け道」↓
「甚五郎抜け道」(こんな上り道を馬で登ったのか!)↓
「甚五郎抜け道」途中の「竪堀」か ↓
<搦手門~井戸曲輪>
最後に、「搦手門」跡から「井戸曲輪」までを見ていきましょう。
「搦手口」に立つ「史蹟 高天神城跡」碑↓
「搦手門」跡↓
途中、「搦手門」跡から石段になりますが、両脇は険しい「切岸」や「竪堀」が見られ、右手の切り立った崖では3重の色の異なる断層を目にしました。
「切岸」↓
「竪堀」か ↓
3重の色の異なる「断層」↓
そしてもう少し上った場所の切り立った壁の下には、三日月状の湧き水でできた小さな溜池があり「三日月井戸」と呼ばれています。説明書きには『武田方が「几水(きすい)」の事から作った』とあります。
「三日月井戸」(金魚が泳いでました)
以上が、「徳川家康」がどうしても取り戻したかった「高天神城」で、奪還によって「遠江」一国の支配を回復するお膳立てができました。
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