昨年の11月29日から大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを始めましたが、途中約1ケ月の中断をしてしまい2024年に突入してしまいましたが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」の出来事

「家康」にとって「遠江」一国の支配を回復する為に絶対に必要だった「高天神城」を、1574年に「武田勝頼」によって攻められ、「家康」は援軍を送れずに落とされてしまいます。

 

これによって「武田方」にとっては、「高天神城」は「遠江・三河」侵攻の重要拠点となったのですが、翌年に今度は「家康」が「長篠城」を攻城し、更には「長篠の戦い」にも勝利したことによって、「高天神城」の奪取の為に周囲にあった「武田方」のお城に対して順次攻略を進めて行きました。

 

その一環としてまずは「高天神城」の東側にある「諏訪原城」を1575年に落とし、次に1576年には「犬居城」を攻めました。続いて、「武田方」が1570年に「今川方」より奪い「遠江攻略」の拠点にしようとして改修を行った「田中城」を1578年3月から攻め立てます。1582年には「田中城」を完全に「徳川方」のお城にしてしまいます。

 

そして「高天神城」奪還の為の拠点として極めつけは、「家康」は1578年から「大須賀康高」に「横須賀城」を築かせました。更に、「高天神城」の周囲には「三井山砦」「獅子ケ鼻砦」等の六砦を築いて包囲網を完成させました。

 

 

「横須賀城」の位置↓

 

それでは、今回はこの「横須賀城」を紹介していきます。

 

 

“高天神城”奪還の拠点として築かせた「横須賀城」(静岡県掛川市-日本で唯一の“玉石垣造り”のお城

 

「横須賀城」の歴史と城主

この城は、「徳川家康」が遠江における覇権争いで一旦「武田勝頼」に奪われた「高天神城」の奪還作戦の拠点として「大須賀康高」に築かせた城砦で、更にその周囲に6砦を築いてとうとう1581年に「高天神城」の奪還を果たします。

その後、「大須賀康高」の居城となりますが、「豊臣秀吉」が全国統一を果たすと「家康」は関東に移され、「豊臣系」の大名「有馬豊氏」等が入城して近世城郭化します。

関ケ原の戦い後は、再び「大須賀家」が戻り、その後廃藩となりますが、1619年に「能美松平家」が2万6000石で入城し、更に「本多家」5万石、「西尾家」2万5000石と変遷して「西尾家」が幕末・維新まで統治します。

 

縄張り

築城当時の古図面によれば、お城の近くまで入江が迫る海城だったことがわかります。

当城の別名を「両頭城」といいますが、これは、「大手門」が東西に1基ずつ設けられていたことから命名されました。

 

「東大手門」は「二の丸」へ、「西大手門」は「三の丸」への入城口となり、その真ん中辺りに「本丸」が設けられた「連郭式縄張り」でした。更に、「本丸」の西側に小さな「西の丸」、「天守台」の背後の北側には「北の丸」が配備されました。

 

「北の丸」の東側は、城域内で最も標高が高く「三の丸」に接していますが、この辺りは「中世山城」に近い曲輪配置となっています。

 

「横須賀城」の絵図(現地に掲出分)↓


南外堀
現在、バスや車が走る道路沿いの北側の広場はかなり先まで続いていて、これが「南外堀」跡です。当時の絵図を見ると、この道路は当時海を隔てる「土手」になっていて南側がもう海だったのですが1707年の「宝永大地震」によって、海が隆起して陸地になり海水が干上がったそうです。現在では、海岸線はそこから見えないくらいですのでかなりの隆起だったと思われます。

 

「南外堀」跡(東方向)↓


「南外堀」跡(西方向)↓

「南外堀」の南側にあった「土手」が現在は車道に↓

「車道」の向こうは当時は海だった↓

 

二の丸

「南外堀」跡の西端には、「西大手門跡」碑が立ち、その東側の盛り土上には二重の「西櫓」が建っていました。その内(北)側が「二の丸」跡となります。

 

「西大手門」跡と跡碑↓

「西櫓」台の盛り土↓


車道から一本中に入ると細い道が車道と平行に走りますが、そこから更に細い道を入ると西から東に向かって広場が広がりますがそこが「二の丸」跡です。その広場の西端の水路が「西外堀」跡で、そこを越えた所には「不明門跡」碑が立ちます。

 

一番西側から東方向(本丸跡)方向↓

「西外堀」跡の水路↓

「不明門」跡の跡碑と奥が「馬屋」跡↓

 

この「不明(あかず)門」が移築されたお寺「撰要(せんよう)寺」がすぐ近くにあります。お寺の山門として再利用されている「薬医門」形式の移築門は、「本多家」時代に築かれたものなのか、門には「本多家家紋」の「立ち葵」が付いています。

 

「不明門」が移築された「撰要寺山門」↓

「不明門」が移築された「撰要寺山門」の冠木に付く「立ち葵」の家紋↓

「不明門」が移築された「撰要寺山門」(薬医門、裏側から)↓

 

「二の丸」跡の東側に少し段上になったエリアがありますが、そこが「二の丸御殿」跡で、その広場に沿った北側の窪みが「北外堀」跡です。

 

「二の丸御殿」跡(西方向)↓

左半分の段下は「北外堀」跡(東方向)↓

 

西の丸
広場の東側は駐車場や見学者用のトイレになり、その向こう側の小高い山が「西の丸」跡から「本丸」跡に繋がります。

 

「本丸」を中心にした模型(現地に展示)↓

「西の丸」跡の台地西面(手前は、「堀」代用の池跡)↓


「西の丸」跡の南側から西側にかけて取り巻く「帯曲輪」跡まで階段があり、その一部は発掘された部分を使用しているそうでした。「帯曲輪」跡から更に階段を上ると「西の丸」跡になります。

 

「西の丸」跡(東・本丸方向)↓

「西の丸」跡を東下から見上げる↓


「西の丸」跡と「本丸」跡の間は、現在低木で区切られていますが、絵図では門は描かれておらず御殿が「本丸」側から少し延びて「西の丸」内に築かれているようにも見えます。


「西の丸」跡から「本丸」跡への現在の入口↓


 

本丸
「本丸」跡には「横須賀城」碑が立ち、その後ろ北東隅には2~3段の石積みされた「天守台」と中に礎石が見られ、当時は4重の天守が建っていたそうです。

 

「横須賀城址」碑↓

「本丸」跡(奥に、「天守台」が見える)↓

「天守台」跡↓

「天守台」上に礎石↓

「本丸」跡から望む「南外堀」跡と「宝永地震」でずっと後退した海岸線↓

 

後方の「腰巻石垣の土塁」越しに覗き見すると、真下に拡がる「北の丸」跡の広場ではゲートボールを楽しむ高齢者達の姿が見えました。

 

「北の丸」跡(「天守台」から見下ろす)と奥の山は「松尾山」↓

 

このお城の最大の特徴でもある「玉石垣」というのは、直径30㎝弱の丸形の石を積み上げた石垣で、全国でも殆ど見ることができない石垣(石積み)の一種です。これらは「天竜川」等の河原にある川石を集めてきて積み上げたもので、豊臣政権下で入城した大名の「有馬家」或いは「渡瀬家」が主君の「豊臣家」の威光を誇示する為に、丸石によって石垣を積み上げたと考えられています。

 

「玉石垣」の石を近くから見るとこんなんです!

 

「本丸」跡と「西の丸」跡の両側から階段があって、その下りた広い敷地下が「本丸南下門」跡と見られていますが、その間の扇状敷地部分に積まれた石垣に「玉石垣」が見られます。

 

「西の丸」跡からの石段と「玉石垣」の状況↓

「西の丸」跡下から見上げる石段と「本丸」跡南面の「玉石垣」↓

更に「本丸下門」跡へ下りる石段とその周囲の「玉石垣」↓

本丸南下斜面の玉石垣↓

本丸南下斜面の玉石垣↓

本丸南下斜面の玉石垣↓

「玉石垣」の中に見られる石の扉↓

「本丸南下門」跡への石段↓

 

城内最大の櫓門が建っていた「本丸南下門」の東側には、堀代わりの「三日月池」が横たわり、その上の敷地「三日月池北側中段」に、「玉砂利遺構」が見られます。「三日月池」の上を上がっていくと先ほど「天守台」上から見下ろした「北の丸」跡が北方向に拡がりを見せます。

 

「三日月池」↓

「三日月池」北側の「玉石垣」↓

「三日月池」北側中段の遺構(「本丸」跡南下「玉石垣」と「玉砂利遺構」)↓

「三日月池」北側中段の遺構(「玉砂利遺構」)↓

 

「北の丸」跡から見上げた土塁状の「天守台」は見事な形をしていて、この上に四重天守が建っていた時は非常に大きな「天守」に見えたことと思います。

 

「天守台」を「北の丸」跡入口付近から見上げた↓

「天守台」を「北の丸」跡から見上げた↓

 

北の丸・松尾丸

「北の丸」跡は、「天守台」の北側下に拡がり、現在は広場でゲートボール場等として利用されています。

 

本丸跡東から北にかけての北の丸跡↓

「北の丸」跡↓

 

「北の丸」跡東北隅には「松尾山」に上る道があり、そこを上がると平坦地になっていて周囲に「土塁」が見られます。その北東隅の少し盛り上がった所には礎石が並んでいて、1600年の中盤頃に北東方向の防御を担うべく「多聞櫓」が築かれたようで絵図にも記載されています。

 

「松尾山」に上る道↓

「松尾山」頂上の北東隅には「多聞櫓」を配備(「多聞櫓」台)↓

「多聞櫓」台上に残る礎石↓

「多聞櫓」台から見下ろす「松尾山」山上平坦地↓

 

また、「多門櫓」跡の東真下には深い「空堀」が築かれていて防御力の高さが分かります。

 

「松尾山」北東の深い「空堀」

 

「松尾山」の南側、「北の丸」跡沿いに竹林となっている辺りが当時「牛池」という名の代用堀があった場所です。

 

竹林とこの辺りが「牛池」跡↓

 

「松尾山」の周囲は、当時「家康」が「大須賀康高」に築かせた城砦であったのではないかと思います。

 

三の丸

この竹林の東側に広がる広場が「三の丸」跡です。広大な広場になっていて「藩庁」の建造物が建ち並んでいました。「三の丸」跡東南隅には二重の「太鼓櫓」が建っていたようですが現在は遺構はなく、その東側から北側にかけて窪んだところが「東外堀」跡のようです。 

 

広大な広場の「三の丸」跡(東方向)↓

「北外堀」跡↓

「東外堀」跡(「三の丸」跡の最東)↓

 

「西大手門」に対する「東大手門」跡は、住宅地内の道路脇に小さな標柱で「東大手門跡」とあるだけで特に遺構はみられません。

 

小さな標柱の「東大手門跡」

 

「横須賀城」の遺構として、「番所」がここから約20分程車道を歩いた先に移築されています。また「搦手門」が、お城の北へ少し歩いた所に所在する「本源寺山門」で再利用されています。

 

移築現存の「番所」(20数年前に訪城した時の写真)

移築現存の「番所」(20数年前に訪城した時の写真)

「搦手門」(「本源寺山門」に移築、20数年前に訪城した時の写真)

「搦手門」(「本源寺山門」に移築、20数年前に訪城した時の写真)

 

「家康」の出来事

「横須賀城」を中心にした包囲網に対して「高天神城」は、「武田方」の「岡部元信」率いる100名が守備するにすぎず、城は孤立して兵糧輸送もストップされていたので、「徳川方」としては一気に攻めることもできたのですが、「家康」は慎重論を取り1万の兵で取り囲み兵糧作戦を行いました。

 

次回のブログでは、いよいよ「高天神城」攻めによって奪還作戦を敢行します。

 

 

 

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