前回のブログでも触れましたように、昨年の11月29日から大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを始めましたが、年末年始に16城ものお城に訪城したことから、訪城したお城の「お城紀行」を優先的に投稿していましたので12月19日から約1ケ月間もの間、中断となってしまいました。

 

ということで、昨日から再開を始めました。「家康」の動向はというと、「武田信玄」に奪われた城や領地を奪い返し思い切った政策に出ようとしますが、「信玄」の後を引き継いだ「武田勝頼軍」とは、「お城」を取ったり、取られたりの攻防が続きました。

 

まずは「家康」にとって「遠江」一国の支配を回復する為に絶対に必要だった「高天神城」を落とされましたが、翌年に今度は「長篠城」を攻城し、更には「長篠の戦い」にも勝利した「家康」は、「高天神城」の奪取の為に周囲を攻略していきました。

 

その一環としてまずは「高天神城」の東側にある「諏訪原城」を1575年に落とします。

 

「家康」の出来事

「高天神城」の重要性については、先程もお話しましたが、「高天神城」は遠江の東部にあって「駿河」との国境に近い要塞で「武田方」と「徳川方」両氏が争奪戦を繰り広げたお城でした。

 

「高天神城」は、1574年に「武田勝頼」によって攻められましたが、「家康」は援軍を送れずに落とされてしまいます。これによって「武田方」にとっては、「遠江・三河」侵攻の重要拠点となったので、「家康」としては「遠江」一国の支配を回復するためには絶対に奪回すべきお城でした。

 

その為、簡単に落とせないお城と分っていたので、周囲のお城を順次攻略を進めて行きました。

 

前回お話しました「諏訪原城」の次に1576年に「犬居城」を攻めました。続いて、「武田方」が1570年に「今川方」より奪い「遠江攻略」の拠点にしようとして改修を行った「田中城」を1578年3月から攻め立て1582年には「田中城」を「徳川方」のお城にしてしまいます。

 

 

その「田中城」をここでご紹介します。

 

「田中城」の位置↓

 

 

“高天神城”攻略の足掛かりとする為に武田方の「田中城」(静岡県藤枝市)を奪取

 

「田中城」の歴史と城主

「今川氏」時代に「居館」が築かれましたが、「今川義元」が敗死した後は「長谷川正長」が城を守りますが、1570年に駿河に侵攻した「武田氏」の大軍が攻め込み「正長」は遠江に逃げ、入城した「武田方」の「馬場信房」に命じて改修されました。

 

改修時には、「武田氏」が得意とする「丸馬出」と「三日月堀」を6か所も導入されたお城でしたが、1582年に「徳川軍」によって攻められて開城し、「高力清長」が入城します。

 

そして「家康」の「江戸移封」に伴い豊臣政権下では「中村一氏」の家臣が入城します。

 

関ヶ原の戦い後「徳川家」の管理となって、1601年に「酒井忠利」が入城しますが、その後「駿府城」城主の管轄下におかれる時期を経て、1633年に「桜井松平家」が入城します。譜代大名のお城の常ですが、「水野家」「藤井松平家」「北条家」「西尾家」「酒井家」「土屋家」「太田家」「内藤家」「土岐家」と目まぐるしくが入れ替わり、1730年に「本多家」が入ってやっと藩主(城主)が定まり幕末・維新を迎えます。

 

縄張り

「田中城」の最大の特徴は、「本丸」が方形でそれを中心に、同心円状に堀が巡らされていて、360度から敵の侵入を防ぐ役割をしています。このような縄張りを採用しているのは、日本で唯一「田中城」のみです。

 

田中城城郭絵図 ↓

田中城郭図(下屋敷案内図で掲出されている)↓

 

そして、「武田氏」が改修した際に造られた、「武田式」の防御施設としての「丸馬出」と「三日月堀」を設けています。

 

この縄張りの名称は「円郭式」縄張りと呼び、全国でもここでしか見られない珍しい縄張りを施し、現在でも、その一部を「堀」や「土塁」の遺構で見ることができます。

 

「酒井忠利」の時には周囲に円形を拡げ四重の堀を同心円状に巡らせています。

 

また江戸初期の「本丸」は、将軍上洛用の「御殿」が建てられていましたが、「御殿」が焼失した後の「本丸」には「宝庫」と現在「史跡田中城下屋敷」に移築復元されている「御亭(おちん)」がありました。

 

「下屋敷」内に移築されている「本丸櫓(御亭)」↓

 

本丸

現在の「本丸」跡は、「西益津小学校」となっていて「田中城本丸碑」が校門前に立ち、校庭には、「田中城」が模型で再現されています。

 

「田中城本丸跡」碑(現 西益津小学校校門前)↓

田中城の模型↓

 

また、周囲には円形で巡らされていた「二之堀」の一部が曲線を描いて残り、その上を復興した「木橋」が架かります。

 

「二之堀」↓

「二之堀」(西益津中学校校門前に残る)↓

「大手二之門跡」表示と「二之堀」↓

復元「大手二之橋」(「二之堀」に架かる)↓

 

二之丸

現在残る遺構「下屋敷」の配置図が下です。「二之丸」跡の南側は「清水御殿」が建っていた跡で、現在「西益津中学校」になっています。

 

「下屋敷」案内図(遺構配置図)↓

「清水御殿」跡に建つ「西益津中学校」↓

「(清水)御殿跡」表示↓

 

本丸周囲を囲む曲線の道の半分位が残りますし、それに沿って「二之丸」跡の周囲を取り囲む「三之堀」も一部「水堀」と「土塁」の遺構を見ることができます。

 

「三之堀・土塁跡」表示↓

「三之堀」跡 ↓

北側の「三之堀・土塁跡」表示↓

北側の「三之堀・土塁跡」↓

西側の「土塁」跡↓

西側の「土塁」跡↓

 

三の丸

「三の丸」には、四か所の「枡形櫓門」と「丸馬出」がセットで築かれ、全ての「丸馬出」前には「三日月堀」が掘られていました。その中で、特に東海道の藤枝宿に繋がる「藤枝口」前の「大手一の門」は、最大の規模として総石垣の「枡形門」になっていました。しかし、現在はその石垣を見ることができません。

 

「大手一之門跡」表示↓

「大手一之門」前の「三日月堀跡」表示↓

 

「三の丸」跡には、「土塁」が各所に残り、「丸馬出」跡やその前面に掘られた「三日月堀」が空堀になって現存もしています。また、随所に立札で、門跡、建物跡が判るようになっています。

 

東側の「三日月堀」跡(凹んでいる所で左側が「馬出し」)↓

「外堀跡」表示(「松原木戸」辺り、本丸を中心に一番外側を円形で取巻いた)

 

下屋敷

お城の南東には「下屋敷」が設けられていました。現在、規模は1/3に縮小されていますが、庭園が整備され更には、「本丸の御亭(おちん)」や、廃城後に城外へ移築されていた「茶室」、「仲間(ちゅうげん)部屋と厩(うまや)」やその他にも「長楽寺村郷蔵」が移築されています。

 

この「長楽寺村郷蔵」は市指定文化財で、藩の非常米を備蓄する蔵として江戸時代に長楽寺村に置かれていたものです。これら、現「下屋敷公園」内へ移築現存建造物が再移築されていて、旧「下屋敷」は憩いの場所、観光スポットとなっています。

 

旧「下屋敷」に移築された「本丸櫓(御亭)」と復元「冠木門」↓

「下屋敷茶室」(市指定文化財、木造平屋瓦葺、元田中藩家老の茶室で移築)↓

下屋敷「仲間部屋・厩」 (南側より)↓

下屋敷「仲間部屋・厩 の納屋」と「中間部屋」部分↓

最後の藩主「本多家家紋(立て葵)」が付く瓦が置かれていた↓

「長楽寺村郷蔵」↓

 

庭園の中には「土塁」が残り、当時の庭園が復元されています。

 

庭園全景↓

「下屋敷泉水」↓

「大溝」跡↓

「下屋敷土塁」跡↓

 

城外

「田中城」跡から少し離れた「旭伝院」(焼津市保福島)には、田中城の「屋敷門」が移築され現存しています。

 

田中城屋敷門(現 旭伝院山門)

田中城屋敷門(現 旭伝院山門)

 

日本で唯一の円形お城ですので、是非一度は訪れられることをお薦めします。

 

「徳川軍」は、「高天神城」奪還の為の布石として、「武田方」のお城を攻め落していき、それを陣城として足掛かりをつけていきました。次回のブログでは「横須賀城」をお届けする予定です。

 

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー