年末の速報で発信しましたが、12/28に「青春18きっぷ」を使用して静岡県までの「日帰り弾丸お城巡りツアー」を敢行しました。

 

「青春18きっぷ」3回目↓

 

訪城先は、長年登城したかった「勝間田城」(静岡県牧之原市)だけでしたが、JR「大阪駅」7時3分に出て、「米原」「大垣」「豊橋」「浜松」の各駅で乗り継ぎ約5時間かけて12時9分にJR「金谷駅」に到着、そこから静電シャトルバスに乗って目的地の最寄りバス停「中島」へ向かいました。

 

「浜松駅」までこの車両(クロスシート)↓

「浜松駅」から「金谷駅」までこの車両(ロングシート)↓

 

「金谷駅」ではバス乗継ぎまで少し時間があったので、近くにある観光案内所へ「勝間田城」関連のパンフを貰いに入りましたが、この観光協会は「島田市」の施設で、私がこれから行く「勝間田城」は「牧之原市」ですので全くパンフは置かれておらず係の方も恐縮されていました。

 

観光協会は仕事の縦割りになっているようですので、他エリア(他市・他の都道府県)の観光情報は「そんなの関係ない!」的な所が多いようです。因みに先日行った「相生駅前の観光協会」では、駅に近接している相生市や赤穂市のモノが置かれているような所もあり、これが本当の観光客に対するサービスなんでしょうね~

 

と、少し愚痴りましたが、バスに乗ると牧之原台地上に上がっていき、眼下には「大井川」や金谷の街並みが素晴らしい光景で見に入ってきます。

 

台地上から見下ろす「金谷」の街と「大井川」(バス内から)↓

 

台地を上りきると今度は、茶畑が辺り一面に拡がる光景に驚かされます。「徳川慶喜・家達」が多くの旗本を引き連れてこの静岡に永住させ、武士から茶生産農家に転職させて今日のお茶づくりの発展に繋がっていると思うと涙ぐましい努力があったと思います。

 

一面に「茶畑」が拡がる↓

 

この牧之原台地上で展開される「勝間田城」の歴史と城主について触れておきますと、「勝間田(勝田)氏」がこの辺りを治める「在地領主」として1156年に史料に登場するようです。鎌倉時代には御家人、室町時代には奉公人として各幕府の中で活躍しました。

 

しかし応仁の乱以降に「今川氏」と対立して、1476年に「今川義忠」の攻撃で「勝間田城」は落城しました。その後「勝間田一族」は離散しましたが、その中には歌人として名をはせた「勝間田(藤原)長清」がいます。

 

勝間田城」の縄張りは、戦国時代以前の原型を残した貴重な山城で、「本曲輪」を中心に小さな「南曲輪」がありますが、大きな面積を取る「二の曲輪」「三の曲輪」の外縁部には「土塁」を設け、尾根沿いには「今川氏」に対する備えとして特に東方向には「堀切」「土塁」「曲輪」を備えた構成になっています。

 

「東尾根曲輪」に並んだ「土塁」のコブと五箇所の「堀切」は見事に残っていて、私が以前から訪城したかった理由がこの情景を見たいが為でした。

 

「勝間田城跡案内図」(現地に掲出分)↓

「勝間田城概要図」(現地に掲出分)↓

 

さて、バス停「中島」で下車した私は、暫く進行方向へ進むと道路際に「勝間田城跡」の標識と案内があり、そこから舗装された山道を上がっていきます。上りきった所にある小規模な茶畑が「出曲輪(的場)」跡のようでして、その奥には「馬出し」跡や「竪堀」も見られます。

 

「出曲輪」跡の「茶畑」↓

奥の細くなっている所に「竪堀」、手前が「馬出し」跡↓

 

そして真正面に「勝間田城跡」碑が立っていて、そこから急斜面の道と廻り込んでいく二手の道があります。先に急斜面の道を上がっていきますと、「三の曲輪」跡の「虎口」が開きそこから中に入れます。急斜面の途中には上下の「土塁」に挟まれた「横堀」が両脇に見られます。

 

「勝間田城跡」碑↓

「三の曲輪」跡の東側の「虎口」↓

「虎口」下の「横堀」↓

 

先ほどの「勝間田城跡」碑に戻り、「三の曲輪」跡の「土塁」沿いに廻り込んで進みますと、そこにも広めの「虎口」に出会えます。

 

「三の曲輪」跡の西側「虎口」(奥に見えるのは「二の曲輪」の土塁)↓

 

「三の曲輪」跡は東西に広く、まず右手は「西三の曲輪」跡になっていて周囲を取巻く「土塁」と建物跡が見られます。今度は身体を東方向に向けて曲輪内を歩いていくと、左手に大きな窪みが見られますがこれは「馬洗場」だったようです。

 

「西三の曲輪」跡(建物跡と低い「土塁」が見える)↓

「三の曲輪」跡内の手前窪みは「馬洗場」↓

 

「三の曲輪」跡の北端沿いには「土塁」が取巻きます。その東最先端からは深い谷底が見えますが「大堀切」が二条あるようです。

 

「三の曲輪」跡の北端沿いの「土塁」↓

 

「三の曲輪」跡南側の一段上「土塁」が見えますが、それは「二の曲輪」跡北端の「土塁」で、その内側が「二の曲輪」跡になっていて多くの「礎石建物群」跡や「掘立建物群」跡が並び、休憩台も置かれています。

 

「二の曲輪」跡北端の「土塁」と東側の「虎口」↓

「二の曲輪」跡北端の「土塁」↓

「二の曲輪」跡内の「礎石建物群」跡↓

「二の曲輪」跡内の「掘立建物群」跡↓

 

「二の曲輪」跡西側にも「土塁」と小さな「虎口」があり「二の曲輪」跡南西には「北尾根曲輪下段」との間に「大堀切」が横たわります。それが北西方向に向かって大きく谷底へ落ちていくのが見られます。

 

「二の曲輪」跡西側の「土塁」と小さな「虎口」↓

「二の曲輪」跡南西と「北尾根曲輪下段」との間の「大堀切」↓

「二の曲輪」跡南西と「北尾根曲輪下段」との間の「大堀切」が「竪堀」化して北西方向へ落ちる↓

 

「大堀切」の南東方向は深い谷底になっています。そこから「東尾根曲輪」跡の「土塁」のコブや「堀切」の北面が見えますが、その最大見どころは後でゆっくりと見るとして、まずは「本曲輪」跡へ向かいます。

 

「大堀切」南東方向の深い谷底↓

「東尾根曲輪」跡の「土塁」のコブや「堀切」の北面↓

「東尾根曲輪」跡の「土塁」のコブや「堀切」の北面↓

 

「本曲輪」跡に上がる階段前には前述した「勝間田氏」の一族であった歌人「勝間田(藤原)長清」の歌碑が立ちます。階段を上る途中に扇形の「北尾根曲輪上段」跡がありそこにも建物跡があります。更にその北下段には細長い「北尾根曲輪下段」跡が配備されていて北から東にかけて「土塁」を構えます。

 

歌人「勝間田(藤原)長清」の歌碑が刻まれた石↓

「北尾根曲輪上段」跡↓

「北尾根曲輪上段」跡(「本曲輪」跡から見下ろす)↓

「本曲輪」跡への階段↓

「北尾根曲輪上段」跡の北面(「北尾根曲輪下段」から見上げる)↓

「北尾根曲輪下段」跡の北端「土塁」↓

 

階段を上りきると小規模な「本曲輪」跡が目にできますが、その南側と北側に大きな「土塁」によって両面からの守りに徹しています。土塁に挟まれて「勝間田氏」を偲ぶ「勝間田神社」や「石碑」が建っています。「土塁」上に上がるとその高さは実感できます。

 

「本曲輪」跡への階段↓

「本曲輪」跡の南側の「土塁」↓

「本曲輪」跡内の「勝間田神社」↓

「本曲輪」跡内の「勝間田城跡」碑↓

「本曲輪」跡内の北側「土塁」上から見下ろす↓

 

「本曲輪」の北西下には小さな「腰曲輪」跡と両曲輪を分ける「堀切」と「竪堀」が見られます。

 

「腰曲輪」跡↓

「腰曲輪」跡からの「竪堀」↓

 

また南方向にも「堀切」を挟んで「南尾根曲輪」跡があり曲輪上には「く」の字型をした「土塁」が備わります。

 

「堀切」を挟んで「南尾根曲輪」跡↓

「南尾根曲輪」跡上の「く」の字型「土塁」↓

 

それでは当城の最高のパフォーマンスを発揮していると思われる「東尾根曲輪」跡へ足を進めます。まず東方向に延びる大きく長い曲輪上に出ますと、「二の曲輪」跡や「三の曲輪」跡、そして間に挟まれた谷底が一望できます。

 

「東尾根曲輪」跡↓

手前が「二の曲輪」跡、奥が「三の曲輪」跡」↓

「二の曲輪」跡と「東尾根曲輪」跡の間の谷底↓

 

更には天気が良く霞が無いと(当日は天気は最高に良かったのですが)「富士山」が北側にハッキリと見えるそうですが、当日は「富士山」周囲に霞があってか辛うじて左側の輪郭が確認できるだけでした。ここから見る「富士山」を楽しみにしていましたが残念でした。

 

この方向に「富士山」が見える筈なんですが・・・「富士山」の左側の輪郭が微かに見える↓

 

ただ、この上から東側を見ると、本来は最強の防護施設となる三つの「堀切」によってできた「土塁のコブ」が、ポコリ、ポコリと見える光景は何となく可愛げがありました。

 

「東尾根曲輪」跡の一つ目の「堀切1」と「土塁コブ1」二つ目の「堀切2」と「土塁コブ2」↓

 

二つの「土塁コブ」によってその向こう側の隠されている景色はどんな状態なんだろうという期待感がドンドン沸き上がってきます。

 

一つ目の「土塁コブ」を廻り込んで一つ目の「堀切」と二つ目の「土塁コブ」、二つ目の「堀切」を廻り込んだところで、先ほど来、隠されていた景色が目の前に現れた瞬間「だんご三兄弟」が念頭に湧いてきました。

 

一つ目の「土塁コブ1」と二つ目の「土塁コブ2」の間の二つ目の「堀切2」↓

「東尾根曲輪」跡の「土塁コブ2」の奥に現れた「だんご三兄弟」↓

「東尾根曲輪」跡の「土塁コブ2」の上から「土塁コブ3」と「土塁コブ4」↓

 

三つの「堀切」に切断された小さめの「土塁コブ」が三つ現れました。これで「土塁コブ」は五つ見ることができ「堀切」も五本確認できました。五つ目の「土塁コブ」は少し長めで上へ上がり「東尾根物見台」に繋がります。

 

「東尾根曲輪」跡の五つ目の「土塁コブ5」は少し長め↓

「東尾根曲輪」跡 「土塁コブ4」「堀切5」↓

「東尾根曲輪」跡の最先端「物見台」↓

 

「東尾根物見台」から逆方向に見る「だんご三兄弟」とその奥(西側)に見える「土塁コブ」の見え方も絵になる情景でした。

 

「東尾根曲輪」跡の「土塁コブ4」「土塁コブ3」「土塁コブ2」 (手前から西方向)↓

「東尾根曲輪」跡の「土塁コブ3」「土塁コブ2」 (手前から西方向)↓

「東尾根曲輪」跡 (手前から「堀切3」「土塁コブ2」「堀切2」「土塁コブ1」)↓

「東尾根曲輪」跡の「堀切」に架かる「土橋」↓

「東尾根曲輪」跡の「堀切3番目」↓

「東尾根曲輪」跡の「土塁コブ1」「土塁コブ2」と「堀切1」「堀切2」の北面↓

 

今回特に私的(わたくしてき)に一番見たかった「東尾根曲輪」跡をジックリ堪能した後、「二の曲輪」跡内にあるベンチで一休みしてお茶と塩分補給のポテチを食べ暫し物思いに耽りました。

 

帰りのバスまで時間があったので、バス停までの道のりに植わる温州ミカン、ハッサク(?)、レモンの木々を愛でながら歩きました。

 

ハッサク? ↓

レモンがこんなにタワワに実っているのを始めて見ました ↓

 

JR「金谷駅」に着き、帰りは15時52分発の「浜松行」電車に乗り「浜松駅」で半時間ほど乗り継ぎ時間があったので駅周囲をブラツキ、車中で簡単に食べれるサンドイッチ等を買い込み17時1分発の電車に乗りました。途中「蒲郡」で特別快速に乗換え「大垣」まで乗り換えることなく一直線で帰れました。

 

JR東海の車両もクロスシート(浜松から興津行はロングシートでしたが)ですので旅気分が味わえます。また、隣に人が座らなず空いている状態ではサンドイッチくらいなら口にもできます。

 

「大垣」「米原」で乗換え「大阪駅」に着いたのが21時42分と「金谷駅」を出て約6時間弱でしたが、車中では友達・知人へラインをしたり、ブログの速報投稿等で時間もあっという間に過ぎて、なんと往復12,000円分を2,300円で楽しめ、しかも「お城巡り」までできた最高のパフォーマンスとなりました。

 

以前より訪城したかった「勝間田城」に年末に行けたことが2023年度の最高の成果だったと思います。

 

 

 

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