12/23(土)に城友と訪城した最後のお城(3城目)は「山崎陣屋」(兵庫県宍粟市山崎町)です。「篠ノ丸(ささのまる)城」から下山して駐車場から車に乗り、坂道を下ったすぐの所にあります。

 

私達は、「山崎市立図書館」近くに車を置いくと、もうそこは「内堀」跡を綺麗に舗装した道になっていました。

 

「内堀跡」碑↓

「内堀」跡↓

 

「山崎陣屋」の資料が「図書館」で貰えないかと入館して伺うと、「ブラやまさき」というガイドブックと「山崎歴史郷土館」の資料をいただきましたので、その後の遺構巡りに凄く役立ちました。

 

まず「山崎陣屋」の歴史と城主(藩主)についてお話をしますと、1615年に「尼子氏」が築いた砦に始まる「山崎城」に「池田輝政」の四男「輝澄」が3万8千石で入城し、居館を設けてそこを藩庁としました。しかし、お家騒動で廃絶となって「池田家」に替り「松井康映」が入封、その後一時「天領」となりますが1649年に「池田光政」の弟「恒元」が入封します。しかし、三代後の「数馬」が6歳で亡くなった為に「池田家」は廃絶になります。

 

そして1679年に「本多忠英」が1万石で入封しました。以降、幕末・維新まで「本多家」が代々領有しました。

 

山崎陣屋」の縄張りですが、陣屋でありながら、「本丸屋敷」を中心に西側に「西屋敷」、東側に「武者屯(たまり)」を配備して、その周囲を「内堀」「中堀」で囲っていました。

 

「陣屋絵図」(城内掲出分、図下が北)↓

 

上記「主郭」の周囲には「武家屋敷」を置いて、更に周りには「外堀」を構え、「表門」は外枡形を採用したり、「喰い違い石垣」を設けたりして凄く堅固な陣屋でした。

 

また「本丸屋敷」の四隅には「角櫓」を配備し、「武者屯」には二重の「太鼓櫓」を設けていました。

 

「陣屋縄張り図」(「山崎歴史郷土館」の資料掲出分)↓

 

私達は、図書館でいただいた「縄張図」を見ながら、探索を始めました。

 

「ブラやまさき」掲載のマップ↓

 

まず図書館前に鎮座していた「喰い違い石垣」です。外部から内部が見えないようにしたモノですが、石垣の積み方があまりにも整然としていたので現存のものか復元したものかが分かりませんでした。ただ石には苔の跡があって古そうには見えましたが・・・ その後も、南面の石垣群が、判断に迷うところでした。というのも、南面の石垣は「切込接・布積み」ですが、箱積みに近い整然とした見たことが無い積み方です。

 

奥に「喰い違い石垣」↓

「喰い違い石垣」↓

 

次に、奥の方に足を進めると、陣屋内で唯一残る建造物「紙屋門」が建っていて宍粟市指定文化財になっていました。「紙屋門」とその両脇の瓦屋根付き土塀も現存のようです。

 

現存「紙屋門」↓

現存「紙屋門」脇の「土塀」↓

 

「紙屋門」は、「高麗門」ですが扉を収納する部分の屋根が外に向けて「ハ」状になっています。また扉の下部は板張りですが上部は透かし扉になっていて古いタイプの扉でした。また丸瓦には「本多家」の家紋「立ち葵」が付いています。

 

「紙屋門」の「八」字型の「庇屋根」と扉の下部は板張り、上部は透かし扉↓

丸瓦には「本多家」の家紋「立ち葵」↓

 

門を潜ると「本丸跡」の大きな石に刻まれた跡碑が立ち、その後ろには「山崎歴史郷土館」の建物が建ち立派な玄関を持ちます。この建物は、1889年築の「龍野治安裁判所山崎出張所」の建物として建てられ、1974年に現在地に移築された兵庫県登録有形文化財です。

 

「本丸」跡↓

「本丸跡」碑↓

「山崎歴史郷土館」の建物(この建物は、1889年築の「龍野治安裁判所山崎出張所」を移築)↓

 

「本丸跡(屋敷跡)」の南側へ廻ると「埋門跡」碑が立ち階段で門内を下りれるようになっています。先ほど「喰い違い石垣」の所で触れたように、この石垣の積み方が「切込接・布積み(箱積みのような)」になっていて余りにも綺麗積み方なので懐疑的でした。

 

「埋門」跡↓

「埋門」跡↓

 

下りると南面石垣沿いに水路が流れていますが、それが「外堀」跡のようです。「埋門」跡の石垣の状態が水路沿いに続きますが、しばらく進むとその石垣が途切れて「野面積み石垣」が露わになっている所が何か所かありました。その石垣が元々のモノであろうと思いましたが、それを修築したのが「切込接・布積み(箱積みのような)」石垣なんでしょうが、江戸時代のモノか現代のものかが不明のままでした。

 

「外堀」跡の水路↓

「外堀」跡の水路と石垣↓

「野面積み」が露わになった箇所↓

「野面積み」が露わになった箇所↓

 

「水路」の南側の道が「桜之馬場」跡でそこから坂道が「武者屯」跡の「山崎小学校」に繋がります。

 

「武者屯」跡への坂道↓

 

「山崎小学校」の正門が、当時の「表門」跡で「跡碑」が立っていて、そこが「外枡形」になっていた様子が絵で描かれていたのでイメージが湧いてきます。主だった場所には、当時のイラストが描写されていたので凄く想像を掻き立てることができました。

 

当時の「表門」跡に立つ「跡碑」(現「山崎小学校」の正門)↓

 

「表門」跡を北に通る道が「大手前」で「大手前碑」もあり丁度その西側の駐車場の所が、「家老達」が居住した「家老屋敷」跡のようです。

 

「大手前碑」(この奥辺りが「家老屋敷」跡)↓

 

東西の自動車道を渡ると「外堀跡」碑が立ち更に道が右折れした所には「中門跡」碑が立っていました。「外堀」沿いの石垣なのかわかりませんでしたが、一応写真に収めました。

 

「外堀跡」碑↓

「外堀」沿いの石垣か? ↓

右折れ枡形の「中門」跡↓

「中門跡」碑↓

 

「山崎城之図」を見ると、この他にも「角鷹門」「土橋門」「鶴木門」「新門」等があって城外からの出入口として機能していたようです。多分、各門跡には「門跡」碑が立っていたと思いますが、既に暗くなってきましたので「山崎陣屋」から撤退する時間となりました。

 

もう少し時間があれば、いただいたマップに沿って色々と城下町巡りができたでしょうけど、少し後ろ髪を引かれる思いで「山崎町」を後にしました。

 

スタート地点の「相生駅」には17時20分頃に到着しました。私は翌日用事があったので「城友」とは「相生駅」で別れましたが、「城友」は相生泊で翌日も山城巡りに行く予定だとか。

 

「相生駅」発17時49分に乗車して「姫路駅」で「新快速」に乗り継ぎ「大阪駅」には19時13分に帰ってきました。

 

「山城」2城は少しキツイところがありましたが、三重「岩盤堀切」や2箇所のV字型「岩盤堀切」を目の当たりにしてその「竪堀」を上から滑り下りることができたことや、凹凸がハッキリしたものではなかったものの60本の「畝状竪堀」や「三重堀切」、そして7段の「段郭」を体験できて、非常に楽しく興奮する時間を得たことで大満足で帰ってきました。

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー