大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ終盤を迎え、ここにきて「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマで、「家康」の歴史を8期間に分けて「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓

 

第2期の家康(元康)の出来事

第2期「戦国大名駆け上がり期」では、「織田信長」との同盟関係を礎に東三河の「今川領」へ攻め入り、1562~1566年にかけて「今川氏」のお城であった「吉田城」「西尾城」「田原城」等を次々と攻略して「家康」のお城にしていきます。

 

1566年には「松平」姓から「徳川」姓に改姓し、「三河守」を叙任しました。25歳の時です。

そして1567年には、「織田家」との同盟関係を一層強固とするために、「家康」の嫡男である「信康」を「信長」の娘「五徳」と結婚をさせます。

 

1568年には、「武田信玄」とも同盟を結びました。両者の狙いは、今川領である「駿河・遠江」であり、「大井川」を境にして「家康」は「遠江」を、「信玄」は「駿河」を得ようと考えました。勿論その前提として、1565年には「織田」と「武田」は婚姻関係を結ぶと共に、「武田信玄」の長男と「今川義元」の娘と結婚していたのを廃嫡しましたので、そのような同盟は成立が可能となっていました。

 

同盟がなった1568年12月には、まず「信玄」が「駿河」へ進攻し、「家康」も「遠江」に進攻を始めました。

 

「今川氏真」は、両氏の挟撃には耐えることが出来ず、「今川氏」配下の離反が相次ぎ、結果として「駿府城」を中心とする「駿河」は「武田家」の手に落ち、「引間城」を中心とする「引間(浜松)」は「家康」の手に落ちました。

 

<第2期>

 

“今川氏”から奪取して“家康”の本拠地にした引間城」(静岡県浜松市)』 

 

「引間城」の歴史と城主(藩主)

「浜松」一帯はかつて「曳馬」と呼ばれていて1504~21年頃に「今川貞相(さだすけ)」が「曳馬城」を築城、1514年には「今川」の家臣「飯尾氏」が城主となりました。

 

1560年に「今川義元」が「桶狭間の戦い」で討ち死にした後、「飯尾連竜(つらたつ)」は「今川氏」に反旗を翻し、今川からの猛攻にも耐えますが、その後城主「連竜」は忙殺されて未亡人の「椿姫」を中心となる「飯尾氏」残党が守ります。

 

そこへ、「徳川家康」が凋落による城内「徳川派」と内応して城を奪取しました。

 

こうして「家康」は「遠江」支配を進める為に、1570年に居城を「岡崎城」から「引間城」へ移しますが、その時に地名を「浜松城」に改めました。というのも、「曳馬」という名前が「馬を引く=戦いに敗れる」を連想する縁起が悪いからでした。

 

「曳馬(引間)城」を包含した形で、「家康」は「浜松城」の拡張と改修を行い1582年頃にほぼ完成させます。「曳馬(引間)城」は、現在の「東照宮」辺りです。

 

「引間城」の位置↓

 

「引間城(古城)」跡>

「東照宮」の場所は、現在の「浜松城」の北東方向「二の丸」跡方向の奥に見えるこんもりとした森です。

 

「引間城」の「浜松城」の中における位置(●現在地の場所)↓

「二の丸」跡から望む「引間城」跡↓

 

現在も「東照宮」の周囲は「切岸」を伴う崖となっていて、切通しや堀跡の道路等が見られます。

 

道路面が「切岸」↓

「玄黙口」跡から見る「切通し」↓

「堀」跡の道路↓

「堀」跡の道路↓

 

また、北側には「引間城」の北門があった「玄黙口」跡の標識が立っていますが、ここは、また後日お話をしますが、「武田信玄」との「三方ヶ原の戦い」で敗走して戻ってきた「家康」がこの城門へ退却したと言われています。

 

引間城玄黙口跡の説明書き↓

 

明治維新後、「浜松城」以前の主城であった「古城(引間=曳馬城)」跡に「東照宮」が建てられましたが、太平洋戦争で焼失した今は復元のものです。

 

「古城(引間=曳馬城)」跡碑↓

敷地内の城跡↓

復元「東照宮」↓

復元「東照宮」↓

 

社殿の脇には、成人した「徳川家康」と子供のころの「日吉丸(後の豊臣秀吉)」の二人の銅像が立っています。「家康」は「引間城」の城主となりましたが、何故ここに、「秀吉」幼少の頃の銅像があるかというと、「木下藤吉郎」は浜松の荘(引間)の豪族「松下嘉兵衛」に出会い、宴会の際に「引間城」城主「飯尾氏」に気に入られたことから「松下氏」で武家奉公をして3年間過ごして、その後「織田信長」に出会って出世していきます。

 

成人した「徳川家康」と子供のころの「日吉丸(後の豊臣秀吉)」の二人の銅像↓

成人した「徳川家康」像の拡大↓

 

「東照宮」(「引間城」跡)から西側へ坂道を下りた辺りには「引間城」内での「家康」の住居跡だった場所に説明書きもあります。

 

引間城跡 (東照宮の西側下段、引間城での家康の住居跡) 

 

次回ブログでは、「引間城」を包含してお城を南西方向へ拡張していき、その後「駿府城」へ移るまでの約6年間居城した「浜松城」をお届けします(「引間城」と「浜松城」通算では約16年間)。

 

 

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