大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ終盤を迎え、ここにきて「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマで、「家康」の歴史を8期間に分けて「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓

 

第2期の家康(元康)の出来事

第1期終盤は「今川氏」と手を切って「織田信長」と同盟関係を結び、名前も「今川義元」の「元」を捨てて「元康」から「家康」と名を改めました。

 

そして東三河の「今川氏」への攻城を開始していくといった第2期「戦国大名駆け上がり期」を展開していきます。

 

「家康」は「今川領」である「東三河」への攻勢として、「今川氏」のお城であった「西尾城」「吉田城」「田原城」等を1562~1566年の間に次々に攻略して「家康」のお城にしていきます。

こうして、1566年には三河を統一して名字を「徳川」に改姓しました。

この過程で「今川氏」から「家康」配下のお城になったお城について、前回「吉田城」「西尾城」を紹介してきましたが、本日は併せて攻城した「田原城」を見たいと思います。

 

<第2期>

 

「田原城」の位置↓

 

竹千代を強奪した戸田一族のお城だが譜代大名に返り咲いて城主になった「田原城」(愛知県田原市』 

「田原城」の歴史と城主(藩主)

1480年頃に「戸田宗光」が築城したのが最初です。「戸田氏」は東三河を地盤として築きますが、西三河の「松平氏」の配下となり、更に「松平氏」に従って守護大名「今川氏」の支配下に入ります。

 

1547年、「松平広忠」の嫡男「竹千代(家康)」が人質として「今川義元」の駿河へ送られる時に、その任務に就いた「戸田康光」(宗光の曾孫)は「今川氏」を裏切って「竹千代」を「今川氏」と敵対する「織田信秀」に引き渡しました。

 

これに怒った「義元」は「田原城」を攻めて「康光」を討ちました。その後、今川のお城となり城代が置かれます。

 

1560年に「桶狭間の戦い」で「今川義元」が討ち死にすると、「家康」は「信長」と同盟を結び1566年までに三河一国を統一して「田原城」も「徳川氏」のお城になりました。

 

「豊臣政権」となると、1590年に「池田輝政」の城代が入ります。

 

関ケ原の戦い後に「戸田家」が復活し、1664年には「三宅家」が入城して以来幕末・維新まで統治が続きます。江戸時代後半には、画家・文人であった「渡辺崋山」が家老となり藩政改革を行うも「蛮社の獄」で切腹を迫られました。

 

縄張り

築城当時は、東・北・西側が海に囲まれ、「本丸」を中心に東側に「腰曲輪」を置き、陸続きだった南側に「二の丸」「三の丸」と配した「梯郭式縄張り」でした。

 

「今川氏」から「徳川氏」支配時代のお城の様子は良く解っていません。現在見られる曲輪や石垣は、「池田輝政」の重臣「伊木忠次」が城代として入っていた時から、「戸田氏」城主時代に整備されたものです。

 

縄張りは、非常に守りが堅固な造りになっていて、他城ではあまり見られない、門と門の間に「三の内」や「二の内」と言った袋小路的なスペースを設けて、門も「桜門」から「日の出門」「四脚門」「格子門」と「本丸」に入る為には4つの直線的門を通る必要がありました。

 

17世紀後半には、お城の東側が大規模な干拓が行われたので、海に面したお城構えはなくなりました。

 

「三州田原城図」↓

 

三の丸

「二の丸」「本丸」への入口は「桜門」から入城しました。「桜門」の奥には「日の出門」が建ち、その間は「三の内」という閉鎖空間になっています。

 

「桜門」、三つあった「櫓門」の一つで重要な場所に建てられ、前面に堀を構え、櫓門の後ろには「日出門」を構えて空間を造り、その隅には二重の「二の丸隅櫓」を置いて出入りの監視を強めていました。

 

木造復興の「田原城 桜門」(二階は板張り、両脇の城壁は「海鼠壁」)↓

木造復興の「田原城 桜門」と後ろには復興「二の丸隅櫓」が見える↓

 

古写真には「桜門」の一部が写っているものの、はっきりした外観が判らないので、1994年に木造復興された櫓門の外観は、袖石垣には乗らず、門扉や門柱に鉄板を貼り付け、二階部分を総板張りで仕上げています。

 

古写真に写る門両脇の土塀は、「海鼠壁」でしたので、復元では「海鼠壁」を採用しています。堀の水、1階の白壁、2階の板張り、両脇の海鼠壁が巧くコラボできて美しい門となっています。

 

木造復興の「田原城 桜門」(「日出門」側から)↓

木造復興の「田原城 桜門」(東内側から)↓

木造復興の「田原城 桜門」(海鼠壁、2階の板張り、水堀のコラボ、南西方向から)↓

「田原城」の模型(手前が「桜門」、資料館内に展示)↓

「桜門」の右側の水堀↓

「三の丸」跡石垣(鎬積み)と袖池↓

「三の丸」跡(現護国神社)↓

「日の出門」跡↓

 

ニの丸

「日の出門」跡を抜けると、「二の内」という閉鎖空間が「三の内」に続いて造られ左側に「二の丸隅櫓」が聳え、その脇には「二の丸」に入る「二の丸門」がありましたが、現在は模擬の「冠木門」が建てられ、敷地内は「田原市博物館」になっています。

 

「二の丸門」跡に建つ模擬「冠木門」と「田原市博物館」↓

 

「二の丸隅櫓」は、明治時代初期の古写真が残っていて、下見板張りで初重目には「出窓」が見られます。

 

1765年に城内補修の為に幕府に提出された絵図では、1基の「二重櫓」と3基の「多門櫓」、城門12棟(内櫓門3棟)が記載されていますので、「二重櫓」は「田原城」内ではシンボル的に天守代用の役割を果たしていたようです。

 

現在は、1958年と早い時期に、元の「二重櫓」跡地に入母屋造りに望楼が乗る「望楼型」で、外壁は「白漆喰総塗籠め」、初重東側には庇状の唐破風が付けられる等、古写真とは全く違う模擬櫓が建てられています。

 

「二ノ丸櫓」の古写真↓

「二ノ丸櫓」の模型↓

模擬「二の丸隅櫓」(当時は、下見板張りで出窓付き、左奥には復興「桜門」が見える)↓

模擬「二の丸隅櫓」(復興「桜門」前から見上げる)↓

模擬「二の丸隅櫓」(古写真とは全く違う外観)↓

 

「二の内」から「本丸」へ進むと「四脚門」があり「本丸門」である「格子門」で「本丸」が守られていました。その「四脚門」前の両脇には、深い「空堀」が設けられその延長上には「水堀」となって「本丸」周囲を取り囲んでいます。

 

二の丸空堀(本丸と三ノ丸の間)↓

旧蓮池に繋がる空堀↓

空堀から見上げる二の丸石垣↓

「格子門」跡から「四脚門」跡桜門方向(両脇の木々は空堀)↓

 

このように今まで見てきましたように、「本丸」までの関門は「桜門」-「三の内」空間-「日の出門」-「二の内」空間-空堀-「四脚門」-「格子門」と完璧なまでの守りを施しています。

 

「本丸」跡(現巴江<ともえ>神社)↓

 

「桜門」の外側は、「侍屋敷」が拡がっていて、その入口には二重の櫓門の「惣門」が建っていました。現在でもその石垣が残っています。

 

田原城「惣門」跡石垣↓

 

お城の周囲は、学校や「渡辺崋山」を祀った「崋山神社」等が建ちますが、白壁の塀をあちらこちらに巡らして城下町らしい雰囲気造りに努力が払われています。

 

「渡辺崋山」は、幕末に家老に抜擢されて藩政改革を断行した人でも有名です。

 

「渡辺崋山」を祀った「崋山神社」↓

白壁の塀をあちらこちらに巡らして城下町らしい雰囲気↓

学校の校門も白壁の塀↓

「瓦塀」↓

 

 

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