大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ終盤を迎え、ここにきて「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマで、「家康」の歴史を8期間に分けて「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓

 

家康(元康)の出来事

第1期は「家康のルーツと今川時代での戦国期」ということで、1・2回目は「家康」のルーツ「松平郷」を紹介し、3回目は「家康(幼名:竹千代)」の出生のお城「岡崎城」をお届けしました。「岡崎城」は出生の地だけでなく約19年後には「岡崎城」に戻り、それから約10年間居城していたお城です。

 

そして4回目は、今川方の武将として初陣を果たして「寺部城」を攻め、前回5回目も「今川義元」の命により「大高城」への兵糧補給を成功させ、織田方の「丸高砦」を殲滅するといった活躍を見せました。

 

しかしここで、一大転機となったのは言うまでもなく「桶狭間の戦い」です。

 

「大高城」への補給を成功させるなどした後「大高城」に居た「元康」は、「今川義元」が「桶狭間」において敗死したとの報を聞いて、暫くは情報収集した後に、「今川」の本拠地「駿府」に戻らずに、当時「岡崎城」の城代であった「今川家」の家臣が「駿府」へ逃げたとの情報を得て「岡崎城」へ帰還をします。

 

翌年(1561年)には、「元康」は、時の将軍「足利義輝」に駿馬を送り三河領主として幕府と繋がりを持とうとしたことや、東三河の今川方の拠点「牛久保城」を攻撃して、「今川氏」から独立する立場を明確にしていきました。

 

「元康」は、東側の「駿河国」の「今川家」と敵対関係となったことで、西側の「織田信長」へ接近を図ろうとしました。

 

丁度「信長」も上洛する為に美濃の「斎藤家」と交戦最中であり、後方(東側)の「家康」との接近を考えていたことから相互利害が一致しました。そして1562年に、「元康」は「清洲城」に出向き、「信長」と「清洲同盟」を締結しました。

 

そして「今川氏」から独立をした「松平元康」は、1563年に「義元」からの「元」の字を捨てて、名前を「家康」と改名しました。

 

1563年には、西三河に置いて「家康」生涯の「三大危機(※)」の一つと言われた「三河一向一揆」が勃発し、三河武士の半数近くや「家康」の家臣「渡辺半蔵」「蜂屋半之丞」や後に「家康」の諜臣となる「本多正信」「本多正重」等が信仰を取って「家康」に反旗を翻しました。

(※)「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」

 

1564年に「三河一向一揆」を鎮圧すると、すぐに東三河侵攻を再開しました。「家康」は「酒井忠次」に命じて「今川方」の「小原鎮実(しずざね)」の「吉田城」攻めを命じました。「忠次」は勝利を納めたものの落城させることができず、再度の「吉田城」攻めを攻撃して和議に持ち込み「今川氏真」の許しを得て「吉田城」が「家康」側に明け渡されました。

 

その後も「家康」は「田原城」を陥落させて、三河からの「今川勢力」を一掃しました。これによって「三河一国」の平定を果たしました。「田原城」は「第2期」で触れたいと思います。

 

「吉田城」の位置↓

 

今川から奪取して”酒井忠次”に城代を任せた吉田城」(愛知県豊橋市』  

歴史と城主

古くは1500年初めに「今川家」の傘下であった「牧野家」が現在の地に「今橋城」を築城しました。その後、「今川家」・「牧野家」対「松平家」と縁戚の「戸田家」との間でお城の争奪戦が続きましたが、1546年に「今川義元」の代になって「今川家」の支配となって城代に「小原鎮実(しげざね)」を置いて守りを固めていました。

 

しかし「桶狭間の戦い」後の1565年に「徳川家康」が「吉田城」を攻めて奪取し、城代に「酒井忠次」を置きました。その後は、「武田家」の侵攻に晒されましたが、「忠次」は守り抜きます。

 

やがて「豊臣秀吉」により「家康」が関八州へ移されましたので、それに伴って入城したのが「秀吉」恩顧の大名「池田輝政」でした。「輝政」は、「今橋城」を取り込んだ縄張りと城郭建造物の建築によって近世城郭に変貌させました。

 

関ケ原の戦いで東軍に与した「輝政」は、恩賞で「姫路城」へ移り、その後に「松平(竹谷-たけのや)家」が入ります。

 

その後は、譜代大名のお城となりますが、非常に多くの「大名」が入れ替わりました。「松平(深溝-ふこうず)家」「水野家」「小笠原家」「久世家」「牧野家」「松平(大河内)家」と1729年頃まで交代劇が続きますが、その後やっと城主が「松平(本庄)家」と固定し安定した統治が行われるようになりました。

 

特に「小笠原家」以降は、奏者番、大坂城代、京都所司代、寺社奉行、若年寄、老中等幕府の要職についたことから、譜代大名の出世城と言われました。

 

縄張り

豊川を背に「本丸」があり、その周囲を東・南・西側に「本丸堀」で囲います。その堀に沿って「二の丸」が囲いその周囲を「二の丸堀」が掘られ、更にそれを包み込む様に「三の丸」が拡がります。「三の丸」の周囲も「三の丸堀」で囲みました。

 

縄張り図(現地に掲出分)↓

昔の絵図(「鉄櫓」の所には五重天守が描かれている、鉄櫓内に掲出分)↓

 

本丸・旧今村城跡=金柑丸

「本丸」には3箇所の大きな門がありました。一つは、豊川から出入りできる「本丸北御多門」があり、「二の丸」からは「本丸南御多門」が、元「今村城」跡と言われている「金柑丸」からは「御裏門」で繋がっていました。

 

本丸「北御多門」跡↓

本丸「南御多門」跡 (奥が本丸跡) ↓

「御裏門」跡(これを抜けると「金柑丸」跡)↓

 

「金柑丸」跡に建つ「豊城神社」、元は「今橋城本丸」があった所で、戦国時代の馬出遺跡の名残 が見られます。

 

戦国時代の馬出遺跡の名残の「土塁」? ↓

「本丸」跡と「金柑丸」跡の間の「堀」跡

 

「本丸」四隅に築かれた「櫓」群ですが、北西隅には城内最も大きく天守代用でもあった「鉄櫓(くろがねやぐら)」、北東隅に「入道櫓」、南東隅に「辰巳櫓」、南西隅には「千貫櫓」が立ち、二重の「入道櫓」以外の三つの櫓は格式が高いと言われている三重櫓を据えています。これらの櫓は下見板張りで、意匠もよく似ていたようです。

 

「本丸」内の4つの櫓以外にも、「二の丸」に3基、「三の丸」に1基を設けて、城内には8基もの櫓が建っていました。(太鼓櫓は三の丸口門へ移築されたので、それも含めて「9基の櫓」と、「鉄櫓」内の資料では紹介されていました)

「九つの櫓で構成」の資料(「鉄櫓」内に掲出分)↓

 

現在、「本丸御殿」が建っていた「本丸」跡は、芝生となり公園化しています。「本丸」跡へのメイン入口である「本丸南御多門」は石垣が残り、他の「辰巳櫓」「入道櫓」や「裏門」の石垣も確認できます。

 

「本丸御殿」跡↓

 

特に「本丸南御多門」の西側に建っていた「千貫櫓」の石垣は、修築によって二段構えとなって見応えがあります。またその手前には「本丸堀」の跡が残っています。

 

本丸「南御多門」跡 (渡櫓門)↓

「辰巳櫓」跡↓

「御裏門」跡石垣↓

「入道櫓」跡↓

「千貫櫓」跡下石垣 (石垣の積み足しが見られる、2021年5月の大雨による崩落後に中から埋められた石垣が見つかる)↓

「千貫櫓」跡下石垣前の「堀」跡↓

 

天守代用だった三重の復興「鉄櫓」は望楼型で、本丸跡側からも、豊川側からも見栄えの良い櫓です。

内部公開は常時されているかは分かりませんが、様々な資料や写真を見ることや撮影もでき、更には豊川と腰曲輪を上から眺めることができます。

 

復興「鉄(くろがね)櫓」(城内最大の櫓で古絵図では天守と記載、1954年に模擬隅櫓として鉄櫓台上に再建) ↓

復興「鉄(くろがね)櫓」↓

復興「鉄(くろがね)櫓」(「武具所」跡から)↓

「吉田大橋」からのぞむ復興「鉄櫓」↓

 

 

本丸下=腰曲輪

「本丸」下は、川に沿って細長い「腰曲輪」が造られ、川からの攻撃に備えて「川手櫓」「川手櫓脇多聞櫓」と「北多門櫓」「本丸北御多門」が各々セットになって構えていました。

 

復興「鉄(くろがね)櫓」最上階からのぞむ「豊川」と「腰曲輪」跡↓

 

更に「二の丸」の川沿いには「雷櫓」が構え、「三の丸」の川沿いには「豊川」から出入りができるように「水門」も置かれ川をうまく活用していたようです。

 

古写真(豊川越しに右から「川手櫓」、「川手櫓脇多門」、その上が「本丸北多聞(武具所?)」、「本丸北御多門」、左脇かすかに「入道櫓」↓

「本丸」と「腰曲輪」の模型(鉄櫓内に展示)↓

「川手櫓」台跡↓

「水門」跡↓

 

現在、「腰曲輪」から見上げた風景は、各櫓や門の石垣と石段が、身に迫ってくるようで圧巻です。「鉄櫓」の石垣は、「池田輝政」時代のモノのようで城内最古の「野面積み」石垣です。

 

「武具所」跡 (「腰曲輪」から見上げる) ↓

本丸「北御多門」跡 (腰曲輪から見上げる) ↓

復興「鉄櫓」の「切妻出窓」で「石落とし」、櫓台の石垣は「池田輝政」時代のモノ↓

 

二の丸・三の丸

現在の「吉田城」は、「豊橋公園」の一部になっていますが、「本丸」「二の丸」中心に沢山の遺構をみることができます。「二の丸」「三の丸」跡の西側は「豊城中学校」の敷地となり、「三の丸」跡の西側は「豊橋市役所」となっています。

 

公園入口は、「三の丸口門」があった場所ですが、両脇には石垣が残っています。ここは、後に「太鼓櫓」が据えられた場所です。この前の道路は「堀」跡で、東側に沿って横矢を掛けた「土塁」が屈折して続きます。

 

「三の丸口門」跡(後年の「太鼓櫓」跡)↓

「三の丸土塁」跡と道路は「堀」跡↓

「三の丸土塁」跡(城内側から)

 

「三の丸口門」表示脇の道を少し左手に歩くと、こんもりした土の盛土が「着到櫓」跡です。そして右手の松が多く植わっているエリアが「二の丸御殿」が並んでいた所です。

 

「着到櫓」跡(城内に集まった兵士を観察・点検する為の櫓) ↓

「二の丸御殿」跡↓

 

「二の丸御殿」跡の東側には「土塁」が並びますが、現在「三の丸」跡に建つ「三の丸会館」や「美術博物館」に繋がる道の確保の為に、「土塁」が一部切られています。

 

大手口には「大手門」が侍町で埋め尽くされた「総構」の最も南側に構えられました。「大手門」の古写真が残っていて凄く立派な「櫓門」であったことが分かります。「二の門」である「高麗門」は幕末には無かったようです。元々建ってはいたそうですが、現在は静岡県湖西市にある「本興寺」山門に1640年代に移築されたようです。

 

古写真「大手門」(「鉄櫓」内に掲出写真)↓

現在の「大手門」跡(何の遺構もない)↓

 

以上が「吉田城」ですが、「家康」時代のお城の姿は「金柑丸」辺りに少し残っているだけです。

 

現在の姿は、「豊臣政権」下に移封となった「池田輝政」が近世城郭化を行い、その後入城した譜代大名達によって変貌を遂げて行ったと思われます。

 

「吉田城」は、当時の姿は殆ど残っていませんので現在のお城の姿でしたが、歴史と「家康」のできごとの中でのそのお城の位置付けがご理解いただけたと思います。

 

次回からは、「家康」が「戦国大名として駆け上がっていく期間」を捉えて、その中で出てくるお城(田原城、引間城、掛川城、浜松城など)を予定しています。

 

<第1期>の年表↓

 

 

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