大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ終盤を迎え、ここにきて「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマで、「家康」の歴史を8期間に分けて「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓

 

第1期は「家康のルーツと今川時代での戦国期」ということで、1・2回目は「家康」のルーツ「松平郷」を紹介し、3回目は「家康(幼名:竹千代)」の出産のお城「岡崎城」をお届けしました。「岡崎城」は出産の地だけでなく約19年後には「岡崎城」に戻り、それから約10年間居城していたお城です。

 

そして前回4回目は、今川方の武将として初陣を果たした「寺部城」をお届けしました。そのブログ最後に、「初陣の2年後の1560年に、「元康」にとって一大転機となる合戦が起きます」と記載したお話から本日は始めます。

 

家康(元康)の出来事

一大転機となる合戦とは言うまでもなく「桶狭間の戦い」です。

 

「今川義元」は大軍を率いて尾張を目指していて順調に進軍していました。今川方の「鵜殿(うどの)長照」が入城していた「大高城」周辺では、織田・今川が争奪を繰り返してきた激戦地となっていて、織田方は「丸根砦」「鷲津砦」を抑えて、今川方の「鳴海城」と「大高城」の連絡を絶って動きを封じる作戦に出た為、「大高城」は兵糧が枯渇してしまいました。

 

この窮地を救う先手に「元康」が選ばれました。深夜に「丸根砦」「鷲津砦」の間を小荷駄隊で突破させて「大高城」の城兵を救うと共に、翌未明には「丸根砦」を攻め落とし、「朝比奈泰能(やすよし)」が「鷲津砦」を攻め落とし、今川軍優勢になりました。

 

「大高城」「鷲津砦」「丸根砦」の位置関係↓

 

大河ドラマ「どうする家康」の一番最初のシーンがここからではなかったでしょうか。

 

「家康(元康)」が「大高城」で活躍していた同日の午前中に、「義元」軍が「沓掛城」を出発して「桶狭間」に着くや、「織田信長」の急襲に会い討ち死となります。丁度その時に「大高城」に居た「元康」は、「義元」討ち死の知らせを受けます。

 

大高城跡と桶狭間古戦場の位置関係↓

 

兵糧運搬を成功させて救った「大高城」(愛知県名古屋市緑区

歴史と城主

1504~21年頃に「土岐家」の守護代であった「花井家」が居住し、その後1532~57年には「水野家」が居住していました。その後、「桶狭間の戦い」の直前には、「大高城」周辺は「織田方」と「今川方」との争奪が繰り広げられた激戦地となり、先程お話したような経緯をたどります。

 

「桶狭間の戦い」後は廃城となりますが、江戸時代に入った1616年には尾張藩家老の「志水忠宗」が城跡に居宅を設け、1870年まで居住しています。

 

縄張り

縄張りは、「本丸」が上段と下段に分かれていますが、その南から西側にかけて深い「横堀」で囲い、北側と東側は切岸によって険しい崖となっています。

 

「横堀」には「本丸」と「二の丸」を繋ぐ「土橋」を設け、「二の丸」の北西には前述した「志水氏」の居宅が建てられました。

 

縄張り図(赤字は私が記入したもの、地図は現地にて掲出分)↓

 

本丸

現在の「大高城」は、北側からの坂道を右側へ曲がり上がっていくと「本丸」跡へ上がっていきます。「本丸」は上段と下段に分かれていて「本丸下段」跡の東側は崖上となっています。下段からは「鷲津砦」跡の小山等を眺めることが出来ます。

 

「大高城」遠景(JR「大高駅」界隈から)↓

「大高城跡」碑↓

本丸下段跡(西方向)↓

本丸下段跡から「鷲津砦」跡を望む↓

 

「本丸下段」跡は南西に向けて長く右手には木々が覆った「本丸上段」跡になっています。「本丸上段」跡の西端には「鶴岡八幡宮」を勧進した「城山八幡宮」があり、1670年に「志水氏」が寄進した石灯籠が立ちます。

 

木々が繁る所が「本丸上段」(西方向)↓

「本丸上段」跡の土壇↓

「本丸上段」跡西端には「城山八幡宮」↓

 

「本丸上段」の西端は「切岸」となっていてその下は「帯曲輪」跡になっています。

「本丸上段」西端の「切岸」

 

急な「切岸」状況↓

 

「本丸下段」跡の西端も木々で覆われていますが、一か所だけ向こう側が見通せる所が有ります。ここは、木々が林立する「横堀(空堀)」を渡る「土橋」となっている所で、「二の丸」跡に繋がっています。「土橋」の両脇は、木々で見難いですが、深い「横堀」になっているのが確認できます。

 

「横堀」を渡る「土橋」(向こう側は「二の丸」跡)↓

「土橋」脇の「横堀」↓

 

「土橋」を渡るとパッと拡がるのが「二の丸」跡で二段になっていて、奥は低い構造になっています。手前の「二の丸」跡の西南端には「土塁」が残ります。

 

「土橋」を渡った「二の丸」跡↓

 

二の丸・志水家在所屋敷

 

「二の丸」跡の北西に位置する広い敷地が、江戸時代に築かれた「志水家」の居宅跡になります。北側は「切岸」によって守備されています。

「志水家在所屋敷」跡(北方向、右の木々は「横堀」跡)↓

 

また、東側には元々あったと思われる「土塁」と「横堀」が構えていますが、木々が繁っているので中を見通すことが容易でないです。

 

「志水家在所屋敷」跡東側から横堀を見下ろす↓


「横堀」の底迄下りてみると、かなりの深さを実感でき、しかも「横堀」というものの「土橋」に向かって傾斜があることも分かりました。

 

「本丸上段切岸下」の「帯曲輪」跡と「志水家在所屋敷」跡 の間の「横堀」↓

「本丸上段切岸下」の「帯曲輪」跡と「志水家在所屋敷」跡 の間の「横堀」底

「本丸上段切岸下」の「帯曲輪」跡と「志水家在所屋敷」跡 の間の「横堀」底(「土橋」方向に傾斜)

「横堀」底から見上げる「本丸上段切岸下」の「帯曲輪」跡

 

「桶狭間の戦い」に関わる「城跡」が、こんな市内の一等地に残っていることが貴重な遺構だと思います。

 

 

「大高城」救援後に攻め落とした織田方の丸根砦」と「鷲津砦」(愛知県名古屋市緑区)』 

歴史と城主

「家康(元康)」は、「今川義元」の命を受けて深夜に「大高城」への兵糧運び込みを成功させた後、「織田方」であり当時「佐久間盛重」等が700人で守っていた「丸根砦」の「織田軍」を激戦の上殲滅して砦を落としました。

 

砦の特徴

「丸根砦」は、楕円形をしていて周囲は濠が有ったようですが現在は一部道になっています。標高は35mで、坂道を暫く上ると右手に入口と解説板があり、ここから少し上がると頂上部分です。

 

「丸根砦」の入り口(説明書きが立つ)↓

周囲はほぼ円形で「濠」跡↓

この階段を上がると頂上↓

 

頂上には「丸根砦戦殉難烈士之碑」が立っていますが、激戦地であったことを現わすように、ここで戦った烈士達の供養がされていました。従って、「丸根砦跡」碑は、少し下った山肌に立ちます。

 

「丸根砦戦殉難烈士之碑」↓

「史跡 丸根砦跡」碑↓

 

「丸根砦」から「大高城」までの直線距離は約800mで、「砦」の西側からは「大高城」は丸見えの状態です。またここから「鷲津砦」は約600m、「鷲津砦」と「大高城」の距離も約800mですので、各「砦」から「大高城」までは二等辺三角形の両辺に当たります。

 

「丸根砦」跡から「大高城」跡は丸見え↓

 

現在この「砦」の下には「新幹線」が通りますが、ひっきりなしに行き来する「新幹線」の通過する音が響き渡るこんな小さな砦に、700人もの敵兵がいたとは想像ができないくらいです。

 

「鷲津砦」は、今川方の「朝比奈泰能(やすよし)」が攻め落としました。このように、「今川方」が「織田方」に対して優勢に戦いが進められました。

 

鷲津砦」(愛知県名古屋市緑区)は、現在JR「大高駅」の東側に位置していて、「鷲津砦公園」になっています。公園内の山林を上っていくと、「土塁」や「竪堀」が残り、頂上付近には「鷲津砦跡」碑が立っています。

 

「鷲津砦公園」↓

「鷲津砦」跡の「土塁」↓

「鷲津砦」跡の「竪堀」↓

「鷲津砦跡」碑↓

 

<第1期>の年表↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー