大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ終盤を迎え、ここにきて「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマで、「家康」の歴史を8期間に分けて「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓

 

第1期は「家康のルーツと今川時代での戦国期」で、昨日と一昨日は、「どうする家康」でも描かれていなかった「家康」のルーツの「松平郷」をお届けしました。

 

昨日触れましたように、「親氏居館(松平家氏館)」跡(現 松平東照宮)の脇に葵の紋が付く「井戸」があり、その水を「家康(竹千代)」の産湯に運ばれてという話も残っています。

 

今日は、「家康(竹千代)」が産まれた「岡崎城」(愛知県岡崎市康生町)をお届けします。

 

「岡崎城」の場所↓

 

「家康(竹千代)」が出生したのが1542年で、その時の産湯として使用されたのが「岡崎城」内(城西側の「坂谷曲輪」跡)の「産湯の井戸」、前述の「親氏居館(松平家氏館)」内の「井戸」からも運ばれたとのことですが、所説色々あり本当の所は「岡崎城」の井戸の水なんでしょうけど、「親氏居館(松平家氏館)」跡の「井戸」の水も本家の和子(わこ)の為に運ばれたことでしょうね~

 

「岡崎城」内(城西側の「坂谷曲輪」跡)の「産湯の井戸」↓

 

また、「於大の方」と「家康(竹千代)」が結ばれていた「へその緒(胎盤)」を埋めたといわれる「えな塚」も「本丸」跡の西側にある「坂谷(さかたに)曲輪」跡内にあります。

 

「へその緒(胎盤)」を埋めたといわれる「えな塚」↓

 

出生後は両親とともに過ごしますが、6歳で「織田信秀」に送られ、8歳で「今川義元」の人質となります。この辺の詳細は今から「岡崎城」を見て行きますので、詳しくお話をします。

 

「家康(竹千代)」が出生した頃の「岡崎城」の様子は、「石垣」部分や「天守」を除けば中世城郭の特徴が良く残っているそうですが、詳細は「縄張り」の所で触れます。

 

岡崎城」の歴史と城主(藩主)についてですが、古くは三河守護「仁木氏」の守護代「西郷家」が築いた中世城館でした。しかしその後、始祖「親氏」の子供「松平信光」の攻撃によって「松平家」のお城となります。

 

「徳川家康」の祖父である「松平清康」が1531年に「明大寺(めいだいじ)城」から入城した後は、「松平家」の居城となりますが「清康」は家臣に殺害されて「松平家」の力が衰えます。その後息子の「広忠」(「家康」の父)が継ぎますが1549年に病死(或い暗殺とも謂われている)で、幼い「竹千代」は6歳で「織田信長」の父「信秀」に送られ、更には8歳で「今川義元」の人質となります。

 

「徳川家康」はこちらで産まれましたので、それ以降も「徳川家」のお城となり、「家康」自身も思い入れのあるお城でしたので、「桶狭間の戦い」後「岡崎城」に戻って以降「浜松城」へ移る迄の10年間は「岡崎城」に居城(拠点)しています。

 

その後、長男の「信康」が入城し、更に「家康」の重臣「石川数正」「本多忠次」等が城代を務めました。

しかし、「豊臣秀吉」によって、「家康」は関八州へ移され、「秀吉」の臣下であった「田中吉政」が入り、「近世城郭」に改修します。

 

関ケ原の戦いの時には「田中吉政」は東軍に加わったので、戦功によって「柳川城」へ替わりますが、その後は再び「家康」の支配下のお城となり「本多康重」が入城し、以降も譜代大名の「水野家」「松井松平家」そして「本多家」(最初の「本多家」とは違う系統)と替わって幕末・維新迄続きます。

 

「家康」誕生のお城ということで、お城自身は「三重天守」を始め、「二重櫓」が19基、多聞櫓と櫓門が42基もある大城郭であったそうですが、城主(藩主)の石高は5万石前後であったので、お城の維持管理は大変だったと思われます。

 

岡崎城」の縄張りは、南側に「菅生(すごう)川」を天然の要害として、その北側に「本丸」を置くごく低い崖に築かれた「平山城」です。「本丸」を中心に複雑且つ多くの小さく曲線的な曲輪を設けて拡がっていて、中世的な曲輪が並んでいます。この中世的曲輪が「家康」が居た頃の曲輪ではないかと思います。

 

丘陵の南西部に「本丸」を置き、狭くて不整形な「本丸」南には、「風呂谷曲輪」を介して「内堀」を掘っています。

 

「本丸」西には「空堀」を挟んで細長くて低い「坂谷(さかたに)曲輪」があります。「本丸」北には狭くて深い「空堀」を設けて小さな「持仏堂曲輪」を置き、更にその北側には正方形の「二の丸」とその東側には「東曲輪」が続きます。

 

「本丸」東側には水堀を隔てて半円形の「隠居曲輪」があります。また、「坂谷曲輪」や「備前曲輪」に設置された「丸馬出し」は、「武田家軍学」から学んだ成果が反映されています。

 

「岡崎城図」後本多家・江戸時代後期(岡崎城跡石垣巡りパンフ、岡崎市教育委員会)↓

 

<天守

それでは「天守」についてお話をしていきましょう。

 

「天守」の古写真が残っていて、写真では「複合式望楼型」の三重三階、地下一階で、東側には「渡り櫓」で繋がる二重二階の「井戸櫓」が建ちました。壁は「下見板張り」を採用しています。また、南側には、二重の「付櫓」、更に一重の「付櫓」、もう一段下にも「付櫓」が段々に建ちました。

 

「持仏堂曲輪」から見上げた復興「天守」と復興「井戸櫓」↓

 

現在は、「天守」「渡櫓」「井戸櫓」が再築されていますが、南側には二重の「付櫓」ではなくて一重の「付櫓」のみが復興されています。

 

復興「天守」に付随する一重の「付櫓」↓

 

「天守」への入城は、地下一階の穴藏から入りますが、地階の入口は通常の倍くらいあります。一重目には妻側(南北)が「入母屋破風」、桁側(東西)は壁いっぱいの大きな「千鳥破風」が付いています。

 

「龍城(たつき)神社」前から見る復興天守 (「入母屋破風」、東西は「千鳥破風」で壁いっぱいの大きな破風)↓

「穴蔵」への大きな入口(「天守」南面下から)↓

 

現在は、最上階に本来無かった「高覧廻縁」を付けて観光用に対処しています。

 

復興天守(北面、高欄廻縁を付けた)↓

「隠居曲輪」から天守を見る(東面)↓

復興天守(二の丸跡から)↓

「天守」最上階の中↓

復興「天守」から復興「井戸櫓」を見下ろす↓

 

本丸

「本丸」の守備は固く、「天守」に繋がる「井戸櫓」の西側には、「多門櫓」が続き「本丸御門と入口多門」「辰巳櫓」「本丸二階門」「平櫓」「月見櫓」「埋門」等の建造物と土塀で囲われていました。

 

「本丸」への出入口の「本丸表門」跡(積み方は「切込接・乱積み」、「持仏堂曲輪」から)

「本丸月見櫓」跡↓

「本丸埋門」跡 (本丸4つの虎口の一つ、本丸側より)↓

「本丸埋門」跡(「坂谷曲輪」から)↓

 

現在は、前述の「天守」群の他に「辰巳櫓」跡に「巽閣」が建ち、その脇にはトイレ等を城郭建造物とした建物が続きます。更に「龍城(たつき)神社」が大きな敷地を占めます。

 

「辰巳櫓」跡に建つ「巽閣」(有料施設)↓

 

<本丸周辺の曲輪群>

「本丸」の南側を取り巻く一段下の細長い敷地は「風呂谷(ふろたに)曲輪」になり、枡形となっている「本丸埋門」や「本丸二階門」から降りるようになっています。

 

「帯曲輪」状の「風呂谷曲輪」(手前)と「神橋」↓

 

「風呂谷曲輪」の南側にある「内堀」越しには、東側にある「菅生(すごう)曲輪」と西側にある「白山曲輪」を結ぶ「菅生川」沿いとなり、江戸時代には「船着場」として利用されていました。また、川からの攻撃に備えて、「横矢」を掛けられるように石垣を屈折させて築かれています。

 

「菅生川」沿いの船着場跡↓ 

「菅生川」端の石垣(「横矢掛り」がかかる石垣、「屏風折れ」を導入) ↓

 

「菅生曲輪」は、「東曲輪」から下段となった所で、城域中枢部と城外とを隔てる役割を担っていました。現在は広っぱになっていて、復興された「東隅櫓」が遠くに見えます。「白山曲輪」は現在は住宅街となっています。

 

「菅生曲輪」の広場と奥に東曲輪と復興「東隅櫓」↓ 

 

「本丸」西側の深い空堀越しには、南北に細長い「坂谷曲輪」を設け、「内堀」越えに「丸馬出」が構えていたようです。現在は先程見た「東照公産湯の井戸」や「東照公えな(へそのお)塚」があります。

 

「本丸」東側には深く切れ込んだ「清海(せいかい)堀」が「内堀」から続きます。現在、「本丸」の南東隅の「辰巳櫓」跡には「巽閣」が建ちますが、「辰巳櫓」のニ段構えの櫓台の石垣を見ることができます。

 

「隠居曲輪」と本丸(右)の間に喰い込む「清海堀 (せいかいぼり)」 ↓

「清海堀」を見下ろす「巽閣」↓

「本丸辰巳櫓」下の櫓台石垣↓

「本丸辰巳櫓」下の石垣 (右)と「風呂谷曲輪」の石垣↓

 

「本丸」の北側は、深い「清海堀」の「空堀」によって分断された「持仏堂曲輪」があります。「持仏堂曲輪」側の壁面はかなりの量の石垣を積み上げていて非常に強固で壮観です。

 

「清海堀」の「空堀」と「持仏堂曲輪」跡 ↓

「持仏堂曲輪」跡の石垣(左)と「本丸」跡の間に「清海堀(空堀)」↓

「持仏堂曲輪」跡の石垣(左)と「本丸」跡(右)の間の「清海堀(空堀)」↓

「持仏堂曲輪」にある「転用石」(箱型の石)↓

 

また、「持仏堂曲輪」の西側には「本丸」の「天守」裏へ渡ることができた「廊下橋」が架かっていたそうで、現在は橋だけが架けられていますが通行はできません。またこの横には、幼い頃の家康「竹千代」と成人の「徳川家康」像が並んで置かれています。今から紹介する「二の丸」跡にも、「徳川家康像」が見られます。

 

「持仏堂曲輪」から「本丸」に繋がる「廊下橋」跡↓

 

「持仏堂曲輪」跡 にある「家康」像と「竹千代」像↓

 

「持仏堂曲輪」の土手は、堀底部分が石垣積みで上部が土塁となった「腰巻石垣」を採用しています。

 

「持仏堂腰巻石垣」(「二の丸能楽堂」脇から下りた「坂谷曲輪」から見る)↓

 

 更に「持仏堂曲輪」の北側には「二の丸」が横たわっていて、「二の丸御殿」や「庭園」「能舞台」等が建ち並んでいました。

 

「二の丸」跡と「持仏堂曲輪」の間の「空堀」↓ 

 

二の丸>

現在は、「岡崎公園」の中心的な敷地となっていて、売店の脇には「御殿」に併設していたと思われる「二の丸井戸」跡が見られます。

 

「二の丸井戸」↓

 

最も大きな面積を占めるのが「三河武士のやかた家康館」で、「松平家」の発祥から「徳川家康」の活躍に至るまでの諸資料が納められています。現在は「どうする家康 岡崎大河ドラマ館」になっていて、連日盛況のようです。

 

また、「徳川四天王」(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)の一人「本多忠勝像」が得意の槍を携えて近くに立ちます。

 

「三河武士のやかた家康館」(現在は「どうする家康 岡崎大河ドラマ館」)↓

 

その他公園内には、先程も触れた「家康」の像が「松平元康」時代のモノを踏むめてあります。

一つは「家康」が分かりし時代の「松平元康像」、二つ目が「家康しかみ像」で、これは「三方ヶ原の戦いで武田の大軍に対して無理な戦をしかけ負け戦となって多くの家臣を失った「家康」が自戒の念を忘れることの内容に描かせたと言われている画像(名古屋の「徳川美術館」が所有)の像です。

 

「松平元康」像↓

「徳川家康」の「しかみ像」↓

 

もう一つは晩年の姿を捉えた「徳川家康公銅像」です。これは貫禄があります。

 

「徳川家康」銅像↓

この勇壮な銅像も「徳川家康」像でしょうか?  ↓

 

東曲輪

「岡崎公園」の入口として建てられた復興「大手門」がモニュメントとして建ちますが、本来の場所ではありません。「櫓門」の櫓台は、地元産の御影石を使用して「切込接(はぎ)」で積まれ、脇には「土塀」も造られています。

 

模擬「大手門」↓

 

模擬「大手門」の東側が「東曲輪」ですが、現在は駐車場となっています。その東隅には、2010年に木造で建てられた望楼型の「東隅櫓」があります。「松山城」(愛媛県松山市)の「野原櫓」を参考にして再築したそうです。

 

木造復興「東隅櫓」↓

木造復興「東隅櫓」↓


木造復興「東隅櫓」1階内部↓

 

更に「二の丸」の北側から北東方向には「北曲輪」や「三の丸」「浄瑠璃曲輪」「備前曲輪」等が置かれていて、「備前曲輪」には「馬出」が設けられていたそうです。

 

「家康」時代の中世的縄張りがそのまま利用されて大きくなったようで、「江戸時代」には北側から東側にかけて城下が拡がる「総構」となり、「家康出生城」に相応しい大城郭であったようです。

 

「家康」は「岡崎城」で約10年間過ごした後、「浜松城」へ移りますが、それはまだ先のことで、次回のブログでは、「出生」から「6歳」まで過ごした後の動向を見ていきたいと思います。

 

<第1期>の年表↓

 

 

 

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