昨日より、「家康」の歴史を8期間に分けて「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓


 このシリーズの名前は「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」で、第1期は「家康のルーツと今川時代での戦国期」です。

 

昨日は、「松平郷」の中心である「松平城」「松平親氏居館」でしたが、本日はそこから少し離れた所に築かれた「大給(おぎゅう)城」(愛知県豊田市大内町)をお届けします。当城は、「親氏」の孫であり「大給松平家」の始祖である「乗元」が築いたお城で、墓所も城内にあります。

 

「大給城」へは、バス道沿いに「案内表示」があり上り坂を約10~15分ぐらい上ると「登城口」があってそこから山道に入ります。

 

国道(バス道)からの案内表示↓

「登城口」↓

 

「登城口」からの登城路を暫く進むと「大給城跡」方向と「大給城」の始祖である「松平乗元の墓」方向への三叉路に突き当たります。墓所は江戸時代の「文政・天保」の頃造られたようで苔むしていて「墓所」の前面には「葵の紋」が付いています。

 

「葵の紋」が付く「松平乗元の墓所」↓

 

歴史と城主については、「信光」(「乗元」に父親)の時にこの城を攻めて、父親である「親氏」から城を守るように命じられたことから在城し、近隣を平定して以降、子孫五代が居城したことから「大給松平家」と呼ばれるようになりました。

 

この「大給松平家」は、江戸時代に譜代大名として徳川幕府を支え、「西尾城」(愛知県西尾市)、「岩村城」(岐阜県恵那市)、「龍岡城(陣屋)」(長野県佐久市)、「府内城」(大分県大分市)の各城主家にもなっています。

 

「大給城」の縄張りは、東側から「曲輪2」「曲輪1東」「曲輪1西」と連郭で繋がり、その間には「堀切」「櫓台」を設けた「曲輪2」の「虎口」、「出桝形」となって東西に仕切石積みを設けた「曲輪1」の虎口等によって各曲輪は分断されています。

 

「大給城跡縄張図」(現地に掲出)↓

 

そして、その北側には細長い「腰曲輪」を設け、最大の特徴である北側に向かって広大に拡がる「水の手曲輪」には、途中石積みの堤防を築いたような段差がある二段構造となって下っていきます。平時の居住場所としては、お城の南西部に置いていました。

 

「松平乗元」の墓から前述の三叉路を通り越してほぼ真っすぐな道を進むと、南北に「堀切」がありそこを渡る「土橋」に着きます。右側は、かなり絶壁になっていますが、左側に「松平氏遺跡 大給城」碑とともに、巨石が立ち並んでいて「堀切」になっています。

 

「堀切」を渡る「土橋」↓

「土橋」左側の「堀切」と「松平氏遺跡 大給城」碑↓

 

道は左へ折れて「切通し」の間を抜けると、右手には「曲輪2」跡の「虎口」に出ます。その両脇には高い「土塁」と「石積み」でできた「櫓台」があります。

 

「切通し」↓

「曲輪2」跡の「虎口」と「櫓台」↓

 

左側の「櫓台」の「石積み」は、平べったい石を積上げた形状です。「曲輪2」跡は割と広く、両「櫓台」からは高さがある「土塁」が繋がっています。

 

左側の「櫓台石積み」↓

右側の「櫓台石積み」↓

「曲輪2」跡全景↓

「曲輪2」跡の「櫓台」から続く「土塁」↓

左「櫓台」から続く「土塁」の先は「曲輪1東部」跡↓

 

「曲輪1東部」跡の北側の坂道を上がる突当りには「石積み」があり、左折れの桝形を形成しています。また、その「石積み」の隅石は、下段の「腰曲輪」まで続く高石垣となります。左折れしても「石積み」が続き「曲輪1」を分断します。

 

「曲輪1」跡へ上がる坂道↓

「坂道」突き当りの「石積み」↓

「石積み」の隅石は高石垣のように下段の「腰曲輪」跡迄延びる↓

左折れしても「石積み」が続く↓

 

その左折れの「石積み」は、「曲輪1」を東西に分断する役割があり、「曲輪1東部」は高くて「曲輪1西部」は見下ろすような位置関係となります。

 

「曲輪1東部」跡への「虎口」↓

「曲輪1東部」跡に上り切った所から見る「石積み」↓

 

「曲輪1東部」跡は、奥が狭まっていますが中央には平べったい岩の上に「明治天皇」碑が立ちます。その奥から「曲輪2」跡を見下ろすと、この曲輪の高さが実感できまます。

 

「曲輪1東部」跡に立つ「明治天皇」碑↓

「曲輪1」跡を分断する東西仕切り「石積み」(西方向)↓

 

「曲輪1東部」の南西隅は下るようにして「虎口」があり、その前には低い石垣を積んだ小さな段があります。右手には「曲輪1西部」の「虎口」があり、東西仕切っている最南端はシッカリと「石積み」が残っています。

 

「曲輪1東部」の南西隅を下るようにして「虎口」が↓

「曲輪1」を東西仕切っている最南端にはシッカリと「石積み」が残る↓


「曲輪1西部」は西に向かって細長い形状をしていて、奥の方の至る所に巨岩が見えます。その中の一つの巨岩上に「大給城跡」碑が立っています。

 

「曲輪1西部」跡の全景(西方向)↓

「曲輪1」跡の東西仕切「石積み」(「曲輪1西部」側は「土塁」が目立つ)↓

「巨岩」の一つの上に「大給城跡」碑が立つ↓

「大給城跡」碑↓

 

乱立する巨岩の間を抜けると、その下に凄く「物見岩」が横たわっています。まさに、物見をする為に置かれたような岩で、そこからは豊田市街を一望できるビューポイントです。

 

凄く大きな「物見岩」↓

「物見岩」から一望できるビューポイント↓

 

次に、「曲輪1・2」跡を北側から取巻く細長い「腰曲輪」跡を下りて行くと、広大な「水の手曲輪」跡がかなり下まで続いているのが目にできます。

 

「水の手曲輪」跡方向↓

 

ここの曲輪の代々の特徴は、「水の手曲輪(D)」跡の北端には中央を凹ませて下に水が落ちるようにしたダムの仕様になっている状態です。当時の人の手による造作で、ダムに見える下側から見上げると苔生した荒々しい石が積まれていることに気が付きます。

 

「水の手曲輪(D)」跡の北端は中央を凹ませてダムのような仕様↓

堤防のような石積み(下から見上げた状態)↓

東側の「虎口」?から「水の手曲輪(E)」跡へ↓

東側の「水の手曲輪(E)」跡へ下りる所にも「石積み」↓

 

「水の手曲輪(E)」跡を下りると更に段があり「井戸」跡が見られます。一番北端の低い所まで下りて、振り返り「水の手曲輪」跡を見上げると、遥か向こうの高い位置に「曲輪1」跡の上部(空)の光が見えるぐらいの位置にいることが実感でき、この「水の手曲輪」の雄大さに触れることができます。これだけの水の確保が可能であれば、かなりの人数の武士達を養うことができたでしょう。

 

「水の手曲輪(E)」跡内にある「井戸」跡↓

「水の手曲輪(E)」跡内の最下段窪み底から見上げる↓

 

今度は「曲輪2」跡南側の「腰曲輪」跡沿いを西側にむと左手下に、手前が2段となった「曲輪3(居館)」跡の大きな広場が見えてきます。その入口部にも「石積み」が見られます。

 

手前二段となっている「曲輪3(居館)」跡↓

「曲輪3(居館)」跡の入口脇にも「石積み」↓

「曲輪1」跡を見上げると「石積み」が見える↓

 

「曲輪3(居館)」跡からお城の南端一番下の「腰曲輪」跡を東側に進んだ所にある南側斜面には、「畝状竪堀」は数本見られます。

 

「畝状竪堀」↓

「畝状竪堀」(上から見おろす)↓

「大給城跡」がある城山↓

 

以上で、「家康」のルーツである「松平郷」についてのお話を終えますが、明日からはいよいよ「家康」誕生した「岡崎城」を見ていきたいと思います。

 

<第1期>の年表↓

 

 

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