先日の暖かい11/14(火)に、総勢7人で「丹波篠山城」(兵庫県丹波篠山市)巡りに出かけました。

昼間は暖かかったのですが、家を出た午前7時過ぎは、自動車の窓にも霜が降りる程の寒さでしたので、着ていく服装も少し厚着して出かけました。

 

JR大阪駅で集合して8時31分発の「JR宝塚線」の普通で「川西池田駅」まで乗車、通勤時間帯には大阪発の快速gが出ていないので、「東西線」経由で来る快速に乗換えて「篠山口駅」へ向かいました。

 

電車は9時47分に到着して、今度は「神姫バス」に乗車して15分弱で「二階町」に着いて下車しました。

 

細い道ですが、道沿いにはこの地で採れた野菜や果物等を売っていて帰りには是非見たいと思いながら、「篠山城」へ向かいました。平日ながらも、結構な数の観光客が訪問しているようでした。

 

メイン道路沿いにある「観光協会」で2種類のパンフレットを貰い、いよいよ「篠山城」城内に入ります。

 

パンフレット↓

 

その前に「篠山城」の歴史と城主について触れておきます。

 

このお城は、「関ヶ原の戦い」後「徳川家康」が、「大坂城」の城主だった「豊臣秀頼」を牽制する為に天下普請で築城を命じたお城です。

 

築城に際しては、お城づくりの名手であった「藤堂高虎」を縄張奉行に命じて、「池田輝政」を普請総奉行に指名しました。そして1608年にほぼ出来上がったお城へは、近くの「八上城」城主で「徳川家康」の落胤説があった「松平(松井)重康」が入城しました。

 

1615年には「大坂夏の陣」によって「豊臣家」が滅びたことで決着が付き「天守」は未建築のままとなりました。

 

しかしその後も「大坂方大名」を監視する為に「松平(藤井)信吉」が入城、更に譜代大名である「松平(形原)家」、1748年からは「青山家」が入城して、幕末・維新まで統治しました。

 

篠山城」の縄張りですが、「本丸」と「二の丸」が並列に並び周囲をほぼスクエアな「内堀」が包囲します。更に「内堀」の周囲を「三の丸」が囲い、その周囲を幅広い「外堀」がスクエアに包囲みます。

 

最大の特徴は、北・東・南側に「堀」を伴う「角馬出」が造られて戦闘態勢を強化していました。

 

縄張り図(パンフレットより)↓

 

「外堀」の西側から南側にかけては武家屋敷群が、南東側には商家群となり、いずれも現在は「重要伝統的建造物群保存地区」になっています。

 

さて私達は、両脇を「外堀」で挟まれた「土橋」を越えて入城していきましたが、当時は「大手門」が建っていた場所は、現在道が左手に曲線を描くだけで他は何の遺構も残っていません。ただ、その手前には「大手馬出」の「土塁」の一部が残されていました。

 

「大手馬出」の遺構(盛り上がった「土塁」部分)↓

 

「内堀」手前には「篠山城跡」碑が立ち、そこから道が坂道になっています。当時は手前に「北廊下門」、坂上には屋根付きの「廊下橋」が架かり、「表門」には右折れの枡形の「櫓門」が建ち、「中門」を経て今度は左折れで「鉄門」に至り「大書院」の玄関に至りました。

 

「北廊下門」跡と坂上には屋根付きの「廊下橋」があった↓

「内堀」の北東隅↓

「表門」の櫓台↓

「中門」跡↓

 

現在では、「野面積み」の石垣が詰まれ隅石は「算木積み」が積まれていて、石には刻印が刻まれた「刻印石」があちらこちらで見られるのが、「天下普請」で造られたお城であることを物語っています。

 

「刻印石」がいっぱい↓

「刻印石」がいっぱい↓

 

現在「鉄門」跡には模擬の「冠木門」が構えていて、それを潜ると玄関が真ん前で迎えてくれます。「玄関」を入ると「篠山城」内が良く解る大きな模型があり、その奥では映像で「篠山城」の歴史等を解説してくれていました。全員が、そこで一服を兼ねて最初から最後まで通しで閲覧しました。

 

「鉄門」跡に建つ模擬「冠木門」↓

入口脇に大きな「井戸」↓

 

「大書院」の周囲は「広縁」で囲われその下には「落縁」が取巻いています。玄関正面の部屋が「虎の間」といって最も広い大広間で現在は有名どころの各大名の鎧・兜が展示されていますが、それらは精巧に紙で作られたもののようです。

 

「虎の間」に飾られた有名どころの武将の鎧・兜(紙製作)↓

周囲は「広縁」と一段下がる「落縁」の廊下↓

 

この「大書院」は「二条城」を模して造られたようで、「広縁」の内側には八部屋あります。各部屋の襖絵には「狩野派」絵師による絵が描かれていたようですが、現在はその絵を復元して描かれています。「大書院」は明治時代の廃城令後も残された建物でしたが、1944年の失火によって焼失しました。幸いにも古写真が残り、その古写真や発掘調査などにより2000年に木造復元が行われました。

 

「大書院」の部屋構成(パンフレットに掲載)↓

 

「上段の間」は城主(藩主)が坐する部屋で、正面には広い「床の間」があり、右手には「違い棚」「帳台構え」を備え、左手に「小書院」が付随する「書院造り」ではありますが、「違い棚」が正面の「床の間」横にないのが特徴的です。また天井は、格式を持たす為に「折上げ格天井」になっています。

 

「上段の間」(「床の間」が広く、「違い棚」は「帳台構え」側にある)↓

天井は「折上げ格天井」↓

 

「大書院」南側の雨戸の隙間から、広い敷地面積を持つ「二の丸御殿」跡と「本丸」跡が見渡せました。「二の丸御殿」跡には何処に何の部屋があったのかが分かる平面表示がされています。

 

「平面表示」が施されている「二の丸御殿」跡↓

 

「大書院」をグルっと一周した後、外へ出て「二の丸御殿」跡へ向かいました。「二の丸御殿」跡から見る「大書院」の屋根は非常に大きく立派な建物です。

 

復元「大書院」(南側から)↓

復元「大書院」↓

 

「二の丸」周囲は幅のある敷地が真直ぐにのびている所が「多門櫓」跡です。「藤堂高虎」好みの「土塀」の替りに「多門櫓」を多用する手法は守りの堅固さをアップさせます。更には、「二の丸」の各隅には「二重隅櫓」を建て、西側の「多門櫓」の中間的な所には前述したように「天守」未建築の替りに天守代用の「三重櫓」を建てることによって、万が一「大坂方大名」に攻められても十分対応ができるような造りになっていました。

 

これは「本丸」側の「多門櫓」跡↓

 

「二の丸御殿」跡を横切り南端にある「埋門」跡へ向かいます。「二の丸」跡から石段を下りるところにも立派な「櫓門」が築かれていました。門柱には、「三左之内」と刻まれた刻印があります。これは、普請総奉行だった「池田三左之内輝政」のことです。

 

「埋門」跡↓

「埋門」跡脇の石に刻まれた「三左之内」↓

 

「本丸」の三隅にも「隅櫓」が置かれ南東隅には「天守台」を設けています。「天守台」からは、「明智光秀」に攻められて落城した「波多野秀治」のお城「八上城」がある標高459mの「高城山」が良く見えます。

 

「本丸」跡内には、藩主「青山家」を祀る「青山神社」が建つ↓

「本丸」跡内の南東隅にある「天守台」↓

「八上城」がある「高城山」↓

 

また、「内堀」越しには児童や幼児の声が聞こえてくる「小学校」「幼稚園」の校舎が「三の丸」跡に建ちます。こんな城内にある校舎で勉強ができる児童たちは羨ましいです。

 

主郭部分の見学を終えると丁度ランチタイムとなりましたので、お城の北側にある「大正ロマン館」内のレストランで昼食を取りました。私はカレーをオーダーしていい値段がしましたが、中には丹波牛でしょうかコロコロの肉が結構入っていたし野菜も豊富で良かったです。

 

私がオーダーした「カレー」↓

 

ランチタイムを終えて今度は西側へ進み幅がある「西外堀」を見ながら、「御徒士町武家屋敷群」の「伝統的建造物群保存地区」を散策しました。

 

「西外堀」↓

「御徒士町武家屋敷群」の入口↓

 

その通りは、「西外堀」から二本目の南北に通じる道沿いにあり、かなりの数の「武家屋敷」が並んでいますが、この辺りは下級武士が住んでいたエリアのようでした。藁葺屋根が残っている家や門が建ち並び、既に空き家のお宅も多いようでした。

 

建ち並ぶ「武家屋敷」群↓

建ち並ぶ「武家屋敷」群↓

建ち並ぶ「武家屋敷」群の通り(北方向)↓

 

その通りを南まで行き、今度は東に向かって少し進んだところに、「篠山城」の最大特徴である「南馬出し」がほぼ当時のままの状態で見ることができます。スクエアな周囲を人間の約2.5倍位の高さのある「土塁」が囲っていてその周囲は「堀」が取巻きます。

 

非常に大きい「南馬出し」(西側から)↓

非常に大きい「南馬出し」(東側から)↓

「南馬出し」を囲う「堀」↓

 

その後方には「土橋」があり、「外堀」を渡り「三の丸」跡に繋がっています。「三の丸」跡の入口は「南門」跡でこちらも背の高い「土塁」が「三の丸」周囲を取り囲んでいます。

 

「南門」跡の両脇は「土塁」↓

 

「三の丸」跡からは、「二の丸」「本丸」各跡の立派な「石垣」が目に入ります。いずれも「野面積み」ですが、隅石は「藤堂高虎」が得意とする「直線的高石垣」が見られます。また、その石垣と「内堀」の間には「犬走り」という武者達が自由に行き来できる敷地があり、これも「高虎」が築城したお城(「今治城」「津城」)でも見られる手法です。

 

「三の丸」跡と主郭部分の石垣(「南門」跡から)↓

「直線的高石垣」と「犬走り」↓

「直線的高石垣」と「犬走り」、「横矢も掛かる」↓

 

「東馬出し」は中が公園化して整備されているので、周囲の「土塁」は低いし、周囲の「堀」沿いの石垣も「落とし積み=谷積み」となっているので、改修が施されたようですが、「北馬出し」に比べると形が良く解ります。

 

「東馬出し」(南東から)↓

「東馬出し」(北から南方向)↓

「東馬出し」の周囲の「腰巻石垣」は「落とし積み」↓

 

帰りのバスまでまだ時間がありましたので、お城の東側から南東にある「河原町妻入商家群」の「伝統的建造物群保存地区」まで足を延ばしました。

 

この地区に入ると、電信柱は全て地下に埋められていて建物の白壁や海鼠壁を始め、虫篭窓、格子窓、うだつ、赤格子、犬矢来などの江戸時代の街並みが道沿いに展開されているのでタイムスリップした感覚を得ることができました。ここまで足を延ばす観光客はすくないのでしょうか意外と空いていました。

 

「河原町妻入商家群」↓

「河原町妻入商家群」↓

「河原町妻入商家群」の蔵屋敷↓

「河原町妻入商家群」の「海鼠壁」↓

「河原町妻入商家群」のべんがら色↓

「河原町妻入商家群」の「犬矢来」↓

「河原町妻入商家群」の「うだつ」↓

 

黒豆の有名店である「小田垣商店」に寄りますと、お土産を購入する人で一杯でしたが、享保年間に販売が始められたとのことで改装しているもののその建物の骨格を見るとその古さを実感することができました。

 

黒豆専門店である「小田垣商店」↓

「小田垣商店」の建物内部↓

 

かなり歩きましたので、「大正ロマン館」に戻った時は、全員がソファに座りぐったりとしてバスの時間まで休憩をとりました。

 

バスは「二階町」から乗車しましたが、ほぼこの停留所でバスは満員になりましたが座れたことで、JR「篠山口駅」までウトウトしながら乗車しました。

 

バスの乗客が一杯だったので、「篠山口」からの電車が座れるか心配でしたが、始発電車でしたので全員が固まって座ることができ、男性軍と女性軍とに分かれて座りお城談義やよもやま話をして約1時間の楽しい時間を過ごすことができました。

 

「篠山城」は4~5回目の訪城ですが、今回は「徳川家康」ゆかりのお城ということで訪城しましたので、そういう視点で見ることで、違った見方ができて良かったと思います。同じお城を訪問しても、テーマを替えて見ることで、新たな発見や見方ができることを体験できました。

 

 

 

 

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