9/4(月)~6(水)にかけて、「青春18きっぷ」を使っての恒例「夏のお城巡り二泊三日の旅」に出かけました。今回は、富山県と石川県にある山城(中世城郭)と近世城郭巡りです。

※「松倉城」「富山城」「増山城」「高岡城」「金沢城」「福井城」(雨やトラブルの影響で「末森城」「大聖寺城」は断念、「高岡城」「福井城」は計画外で訪城しました。

 

14時28分に「金沢駅」を乗車しました。

 

当初計画では、加賀市の「大聖寺駅」で下車して「大聖寺城」と「大聖寺陣屋」に行くことにしていましたので、「金沢駅」を2時間前の12時28分に乗車する予定でした。しかし、前日の天気予報で翌日の加賀市の天候は雨となっていたので山城登城は無理だと判断し、急遽「金沢」に長く滞在することにしたのでした。

 

しかしこれが正解でして、「金沢」はまだまだ見たらないくらい時間を要したからでした。

 

電車は「福井駅」に16時2分に到着しました。次の「敦賀行」は16時47分発ですので乗継時間は45分あります。

 

「福井城」は何度も訪城していて駅から近いということも経験済みでしたので、45分ボケっと駅で待っている時間が勿体ないし、「山里口御門」が新築されたのに未だ見てなかったので、「福井城」へ向かうことにしました。

 

ということで「福井城」(福井県福井市)の歴史と城主についてお話をしておきます。

 

「福井城」は、「徳川家康」の次男である「結城秀康」が「北ノ庄」に入り、天下普請で築城されました。

 

「北ノ庄」と言えば、「柴田勝家」の居所であった「北ノ庄城」を思い浮かびますが、それと「福井城」は別のお城です。ただ、「北ノ庄城」は当時「天守」が9重もあったと言われる程で非常に大きな城郭であったので、「北ノ庄城」の「三の丸」跡が「福井城」の「本丸」辺りだということで重複する箇所があります。

 

「結城秀康」は「家康」にあまり好かれていなかったこともあり、「豊臣秀吉」との同盟関係を築く為に養子として出されました。しかしその後「秀吉」には、後の「秀頼」が誕生したことで、更に「豊臣家」から「結城家」へ養子に出されるという不遇な場面に遭遇しました。

 

しかし「秀康」は、関ケ原の戦い前の「上杉景勝」に対する押さえとして関東に残り、関ケ原の戦いへ「家康」を向かわせることに貢献ができました。

 

そのようなこともあって関ケ原の戦い後、「北ノ庄」へ67万石の恩賞をもって入城し、以降の北陸方面における「大坂方(豊臣方)」への抑え(具体的には、「豊臣秀吉」とは盟友関係にありその息子である「前田長政」が居城している)として「家康」の縄張りで「天下普請」で築城されたのが「福井城」です。

 

その後「前田家」を北側から監視するために幕命によって天下普請で築かれたのが「高田城」(新潟県上越市)で、1614年に築城されて、「徳川家康」の六男である「松平忠輝」が63万石で入城しました。これで、「福井城」の「結城秀康」67万石と「高田城」の「松平忠輝」63万石の合計130万石によって「前田家」120万石を封じ込める形が出来上がりました。

 

さて「秀康」についてですが、1604年には、「結城性」から「松平性」を使用することが許され、晴れて「徳川家」の「家門」として復活しました。

 

以降は、「秀康系」の子孫(越前松平家)が、代々「福井城」の藩主となり統治します。ただ、「秀康」の嫡男「忠直」は「大坂の陣」の論功行賞に不満を持ち、反幕府的な態度を取ったことから1623年にその乱行を理由に豊後大分に流されます。(「忠直卿日記」で有名)

 

そして「忠直」の弟「忠昌」が50万石で入城しますが、その後支藩への分封や藩主の発狂による強制隠居処分などで石高を大幅に減らし、32万石で幕末・維新まで続きます。

 

非常に長くなりましたが、次に「福井城」の縄張りについては、福井平野の南東部を流れる「足羽(あすわ)川」の沖積地に築かれ、方形の「本丸」を中心に、その周囲に「二の丸」、更に「三の丸」が取り巻く「内曲輪」を形成し、その外側には二重の「外曲輪」を配備した「輪郭式」の縄張りとなっています。

 

「足羽(あすわ)川」と「荒川」が外堀の役目を果たし南側からの守りを鉄壁にするとともに、「内曲輪」内では「内堀」を複雑に巡らせています。

 

「本丸」内の配置↓

「福井城」跡周辺の地図↓

 

さて私は、急ぎ足で「福井城」を目指しました。6~7分で「本丸」跡である「県庁、議事堂、警察本部」が集まる敷地に架かる「御本城橋」まで辿り着きました。

 

「御本城橋」(中に見えるのは右が県庁、左が警察本部)↓

「御本城橋」(西側から)↓

 

「御本城橋」は当時は木橋で「二の丸」から繋がる橋でした。そこから「本丸」跡の両隅の櫓台が見えます。右側は「巽櫓」台が、左側が「坤櫓」台で、ここには二重櫓が建っていました。しかしながら、1669年の大火で「天守」と共に焼失した後は、「天守」が再建されなかったので、二重櫓に替えて三重櫓を建てて「天守代用」として明治初期まで存在していました。

 

「巽櫓」台↓

「坤櫓」台↓

天守代用となった「巽櫓」(パンフレットに掲載)↓

 

「御本城橋」を渡り切った所には「御門」と「瓦御門」が「枡形」を形成して右折れになっていましたが、現在は真正面の「県庁」の建物を見上げることになります。しかし両脇には門の遺構である「笏谷石(しゃくだにいし)」の石垣を目にすることができます。またそれに続いている石垣の上に上がれるように「雁木」が設けられています。

 

「御門」跡の石垣↓

「雁木」↓

「刻印石」も見られます↓

 

馬に跨る初代藩主の「結城秀康」像が雄姿を見せていますが、少し様相と姿がアンバランスな感じを受けました。

 

初代藩主の「結城秀康」像↓

初代藩主の「結城秀康」像↓

 

「警察本部」と「県庁」の建物は「本丸御殿」跡に建っています。この間を南に抜けたところに「天守台・小天守台」が階段を上がった少し高い位置にあります。

 

この階段上に「大天守台・小天守台」が並ぶ↓

 

当時「天守」は、「本丸」の北西隅に築かれ、四重五階の望楼型、1階平面は12間×10間と大規模な天守でした。腰屋根を持っているので実質は五重「天守」相当でした。

 

絵図によると外観は、最上階の外壁に古式な「真壁造り」と「高欄・廻縁」を導入しましたが、他の各階外壁には「白漆喰総塗籠め」を採用しています。

 

丁度、次に見学した「山里口御門」内に「ありし日の福井城が今、蘇る。」というタイトルのチラシが置いてありVRで再現した「天守」の姿が載っていますので、ここに掲載しておきます。

 

VRによる「天守」の姿↓

 

階段を上がると、左側と右側に別れた壇となっていて、左側の石段を上がりますと広々とした「大天守台」上に出ます。1948年6月に発生した「福井大震災」の影響でしょうか、平面が少し歪んだように見えます。しかし、沢山の「礎石」が並んでいるのは壮観です。

 

「大天守台」の上(南方向)↓

「大天守台」の上(北方向)↓

 

「大天守台」は、「本丸」跡隅に建っているわけではなく、隅から少し引いた「帯曲輪」の内側に築かれています。

 

「天守台」下は細い「帯曲輪」跡↓

「天守台」下は細い「帯曲輪」跡↓

 

一方の「右側」に置かれた「小天守台」は、あきらかに震災の影響を受けて石垣が傾いた状態のままになっています。

 

「小天守台」↓

「小天守台」(上はガタガタの状態)↓

 

そして「小天守台」南側には、復元された屋形を被った「井戸」=「福の井」があります。「福井」の地名の元となった井戸だそうです。

 

「井戸」=「福の井」↓

 

「天守」の壇を下りて右手に構えるのが、2018年に復元した「山里口御門」です。前回来たときは、まだ工事中でしたのでこの完成の姿はお目にかかっていません。枡形になっていて「内堀」を渡る「廊下橋」に繋がります。「廊下橋」は既に復元されていました。

 

復元「山里口御門」(「本丸」跡側から)↓

復元「山里口御門」の内部↓

復元「山里口御門」の内部↓

復元「山里口御門」の二階から「廊下橋」を見下ろす↓

「二の門(櫓門)」↓

「一の門」↓

「一の門」を出て「渡廊下」(手前)向かう↓

「渡廊下」入口(本丸側)↓

 

城主は、この「廊下橋」を渡って「山里口御門」を潜り、「本丸御殿」に入っていたそうです。

 

「廊下橋」の中(「二の丸」跡方向)↓

復元「山里口御門」の外観↓

復元「廊下橋」と復元「山里口御門」↓

復元「廊下橋」と復元「山里口御門」↓

復元「廊下橋」↓

 

時間の関係で、そこから北エリアにある復元「舎人(とねり)門」、「艮(うしとら)櫓」「北不明御門」の各石垣を見ることができませんでしたが、「内堀」沿いに「本丸」跡の「打込接・布積み」の石垣を見ながら「御城本橋」の袂から「福井駅」へ戻りました。

 

「本丸」跡の「打込接・布積み」の石垣↓

 

時間的にはあと約30分あれば1周グルっと廻って観察できたと思いますが、少しの時間でもお城と接することができて良かったです。

 

「福井駅」を16時47分に乗り「敦賀駅」には17時38分に到着、すでに17時49分発の4両編成の「播州赤穂行新快速」(途中「米原駅」で8両が増結)が停車していたので乗換えをしました。

 

車内は、2両のお客さんが4両に乗り換えますので、空席が目立ちます。私は混んでくる前に、「福井駅」のコンビニで買ったカツサンドとコーヒー缶で夕食を済ませて置きました。

 

案の定、「米原駅」過ぎた頃から通勤時間帯もあって混み出し、私の横と前には親子3人が座り結構賑やかでしたが、私は疲れていたのでその賑やかな声をこもり歌にウトウトして大阪駅まで帰りました。大阪駅着は20時13分でした。

 

今回は、3日間の内、約1.5日は雨でしたので、予定変更や、思わぬミスやトラブルに遭遇するエピソード多いお城巡りとなりましたが、北陸最大級の山城2城を登城できたことと、金沢の街をかなり詳細に見ることができて金沢の良さを凄く知ることができて、また訪城したいお城と訪問したい街としてピックアップしたいと思いました。

 

 

 

 

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