8/18(金)に「青春18きっぷ」を使い、岐阜・愛知3城巡りに出かけました。

 

1城目の「竹中氏陣屋」から2城目の「清州城」(愛知県清須市)へ向かいました。JR「清洲駅」で下車すると、所々に「清州城」への道案内が出ていたので分かりやすく約15分位で「清洲古城跡公園」へ着きました。

 

「清州城」への道案内↓

 

「古城跡」内には「信長」を祀った「信長社」がありましたが「古城址」碑を見落としてしまい、そのまま「五条川」を渡る「大手橋」手前に到着しました。

 

「古城跡」内に「信長」を祀った「信長社」↓

 

「大手橋」から見る模擬「天守」は、朱色の「欄干」と黒っぽい「天守」のコントラストが衝撃的で非常に綺麗で印象的ですので、紹介写真には必ず見られるポジションです。

 

「大手橋」から見る模擬「天守」↓

「大手橋」から見る模擬「天守」↓

「大手橋」から見る模擬「天守」↓

 

まずは、「大手橋」手前の「清洲ふるさとやかた館」の北側に復元「清須城石垣」が展示されているのを見ました。これは、「清須越え」前の「本丸」南側の石垣らしく、「清洲公園」前の「五条川」右岸から発掘されたものをこの場所へ移し積み直し復元したもので、「梯子胴木」が用いられたことが分かるように敷き木を置いています。

 

「清須城本丸南側石垣」の移設復元↓

「清須城本丸南側石垣」の「梯子胴木」の復元↓

 

清洲(清須)の表記について→「清須越え」以前の表記は「清須城」とし、それ以降から「清須市」制となった最近までに建造されたモノを「清洲城」と表記しているそうです。

 

さて「清須城」の歴史と城主について触れますと、1405年に「尾張国」の守護職「斯波義重」が守護所「下津城」の別郭として建てられたのが「清須城」です。その後の戦乱で守護所が焼失した後の1478年に守護所を「清須」に移して、尾張の中心地として繁栄します。

 

その後「織田家」が台頭して「織田信長」が「那古屋城」から入城しますが、当時のお城は「守護所」の館と同様だったようです。1560年に「桶狭間」への出兵も当城からでした。

 

「信長」が本能寺の変で倒れた後、「清須城」では「織田家」の跡目を決める「清須会議」が開かれ、城主となった「信長」の次男「織田信雄」が城主となり、「天守」を備えた近世城郭に大改修します。

 

「清須会議」のメンバー(館内に掲出写真)↓

 

「信雄」の後には「豊臣秀次」「福島正則」が城主となり、関ケ原の戦い後は「徳川家康」四男の「松平忠吉」、「家康」九男の「徳川義直」が城主となり「天下の名城」とも言われるようになりました。

 

しかし、1610年に「家康」によって「清須城」を廃城し、「名古屋城」の築城後そこへ移転する「清須越え」が行われ、「清須城」の資材は悉く「名古屋城」の築城の為に使用されました。

 

清須城」の縄張りですが、「五条川」の右岸(西側)に北から三つの曲輪と「本丸」を配置、更に南側に「馬出」を設けて、周囲を「内堀」に囲われていたようで、「内堀」を取り囲むように「二の丸」が配置されていたようです。

 

「信雄」が大改修した後も基本的にはこのような縄張りでしたが、城地はもう少し拡大したようで、「本丸」南側に「町家」が拡がり、北西には「樹木屋敷」「御園屋敷」が置かれました。

 

「信雄」によって大改修後の縄張り(館内に掲出)↓

 

さて私は、前述の「本丸」跡らしき「清洲公園」内に立つ「織田信長」像と後からできた「お濃(帰蝶)」像を見るためにそこへ向かいました。「信長」像は以前からある像で、私が25年以上前に訪れた時から立っていて鋭い眼光を放つ「信長」の姿は、脳裏に焼き付いています。

 

「織田信長」像↓

「織田信長」像↓

 

一方今回初めて見る、優しさに溢れるが聡明さもある「お濃(帰蝶)」像も印象に残りました。

 

「お濃(帰蝶)」像↓

「お濃(帰蝶)」像↓

 

「清洲公園」から「五条川」を越して見る模擬「天守」は、模擬の「大手門」や「黒木書院」をイメージした「芸能文化館」の建物等が並び、一体化した城郭を感じることができます。

 

「五条川」を越して見る模擬「天守」「大手門」等↓

 

「大手橋」を渡り、「高麗門」形式の模擬「大手門」を潜ると正面には枯山水様式の日本庭園が見事です。先に、模擬「搦手門」を潜り「天守」の裏側(北側)に廻り込んで裏面からの「天守」を色々な角度から堪能しました。

 

模擬「大手門」脇の「信長塀」↓

枯山水風日本庭園越しに見る模擬「天守」↓

「黒木書院」をイメージした「芸能文化館」↓

模擬「搦手門」↓

模擬「天守」(裏側、東側から)↓

模擬「天守」(裏側、東側から)↓

 

近くから見ると、東西一重目に付く「入母屋破風屋根」を持った「出窓」(下には石落とし)が非常に大きいのが分かります。また、南北一重目には長い庇が覆った「連子窓」があるのが確認できます。

 

「入母屋破風屋根」を持った「出窓」(下には石落とし)↓

長い庇が覆った「連子窓」↓

 

表に戻り「天守台」の間に切られた入口から入館しました。25年以上ぶりの訪城ですので、全く当時の面影は記憶に蘇ってきません。

 

「天守」は、三重四階地下一階、「望楼型」、「黒木書院」に渡る「渡櫓」が付く「複合式」です。壁は「下見板張り」で、最上階の壁には装飾用の「華頭窓」と「廻縁・高欄」が付きます。

 

内部はコンクリート造りの割には、館内はウッディな感じで、装飾にかなり木々を使用していることが分かり、温かみがあってホッとします。階段も柱も天井も窓の引き戸もあらゆる箇所に木が多用されているので、コンクリート壁が剥き出しになっている所は殆ど見受けられませんでした。多分、リニューアルが施されてこのような姿になったのでしょう。

 

天守内の階段↓

展示スペース↓

「引き戸窓」↓

下階の天井部分↓

石落とし↓

 

「信長」時代の「清須城」、「信雄」時代の「清須城」が絵図等で説明されていたので、凄く理解が進みました。

 

「信長」時代の「清須城」は中世城館↓

「信雄」時代の「清須城」は近世城郭↓

 

最上階では、「金鯱」や「金瓦」の展示があり、「廻縁・高欄」に出ると今や「名古屋」の中心地である「名駅」の高層ビル群が良く見えます。

 

最上階↓

最上階に置かれた「金鯱」↓

「名駅」の高層ビル群が良く見える↓

高麗門形式の模擬「大手門」(「天守」より見下ろす)↓

模擬「大手門」と「大手橋」(「天守」より見下ろす)↓

 

壁には「犬山城」と同様に装飾だけの「華頭窓」が貼り付けられ、朱塗りの「廻縁・高欄」の先が跳ね上がっていて格式を持たせる工夫をしています。

 

装飾だけの「華頭窓」と朱塗りの「廻縁・高欄」↓

 

「天守」を地階から最上階まで見終わり、この後周辺に「清須城」の遺構がないかと事前に調べていた「御園神明社」に向けて「五条川」沿いに歩きました。「清洲橋」を渡って大きな交差点の高架橋を渡った所に神社がありました。

 

「清洲橋」から望む「清州城」の模擬「天守」は正面から見るのと違う姿を眺めることができました。

 

「清洲橋」から望む「清州城」の模擬「天守」↓

 

「御園神明社」は「御園御殿」があった場所で、中は木々が繁り鬱蒼としていました。南側の入口付近に溝があったのが「堀」跡ということを帰宅してから知り、写真を撮ってなかったことが悔やまれます。

 

鳥居の左に溝がありそれが「堀」跡でした↓

「御園神明社」の中は鬱蒼とした森↓

 

「清須城」は「名古屋城」築城の為の資材提供の為に悉く廃城とされたようですので、遺構は殆ど残っていない中で、「清洲城天守」内で見た「総見寺」(愛知県名古屋市中区大須)内に残る狩野派が描いた「清須城の障壁画」(写真で掲出)や、大昔に訪れたことがある「良福寺」(愛知県尾張旭市)の山門に移築されたという「清須城城門」は、非常に貴重な遺構だと思います。

 

「総見寺」内に残る狩野派が描いた「清須城の障壁画」(「清洲城天守内に掲出の写真)↓

「良福寺山門」(愛知県尾張旭市)に移築されたという「清須城城門」(1996年に訪問)↓

 

「御園神社」からJR「清洲駅」まで戻らないといけないのですが、マップと睨めっこして方向を確認し、駅に向かって進みました。乗車予定電車時間まで15分あるかないかでしたが、辛うじて間に合い、次は「墨俣城」に向けてJR「岐阜駅」まで乗車しました。

 

次回のブログでは3城目「墨俣(すのまた)城」をお届けします。

 

 

 

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