8/18(金)は、天気が曇天予想でそんなに暑くならないようでしたので、3回目の「青春18きっぷ」を使い、城巡りに出かけました。

 

3回目の「青春18きっぷ」↓

 

前々から訪れたかった「竹中氏陣屋」(岐阜県不破郡垂井町)と、もう25年以上も前に訪城した「清洲城」(愛知県清須市)、そして「天守」に少し引き気味なところもあってまだ訪城してなかった「墨俣城」(岐阜県大垣市)の3城巡りをしました。

 

当初予定していた時間よりも早く家を出たので(眠れず4時半に目覚めた)、JR「米原駅」までは「大阪駅」6時39分発の「快速」で向かいました。寝不足でもあって、車中ではいい気持でうたた寝を繰り返しました。

 

そして「米原駅」からは、JR東海の普通電車に乗換え「関ケ原駅」の次の駅「垂井駅」で下車しました。

 

「垂井町」は、「コミュニティバス」が充実していて、9時から毎時0分発の「ときめき号」によって、目的地の「竹中氏陣屋」(岐阜県不破郡垂井町)がある「岩手地区町づくりセンター」まで100円で乗車でき約15分強で到着しました。

 

「コミュニティバス ときめき号」↓

 

まずは当陣屋の歴史と城主について触れておきますと、元々この地を治めていた「岩手氏」の系統の中から「竹中氏」がとって代わって統治するようになったのが「竹中重氏」で、「重元」→「重治」と続きます。

 

この「重治」こそが、「羽柴秀吉」から三顧の礼で迎えられ「秀吉」の軍師として活躍した「竹中半兵衛」です。しかし「半兵衛」は、「三木の戦い」の陣中で亡くなりましたが、その息子「重門(しげかど)」が関ケ原の戦いで東軍に付いたことから、領地を安堵され6,000石の旗本となり幕末維新まで続きます。

 

縄張りは陣屋ですので「単郭」ですが、周囲は「堀」で囲われ、正門には「櫓門」が築かれその両脇は石垣で固められています。また北側から西側にかけては「土塁」が取り巻いていました。

 

陣屋内絵図↓

 

1607年に「重門」が陣屋を築くまでは、「重治(半兵衛)」の父親「重元」が改修して築いた「陣屋」後方にある「菩提山城」という山城を拠点としていました。

 

「菩提山城」縄張り図↓

 

さてまずは、バス停前にある「菁莪(せいが)記念館 」に記名して入館しました。「菁莪記念館」は、「竹中氏」に纏わる資料や武具類のレプリカ、陣屋模型等が展示された資料館ですが、現建物は陣屋敷地内に建つ「岩手小学校」を新築にした際(1979年)に、玄関を「菁莪義校」の時の様式を踏襲して建てられたので、非常にレトロ感があります。

 

「菁莪(せいが)記念館 」↓

 

その「菁莪義校」というのは、「竹中氏」が領内の人材育成の為に1842年に開校した道場です。

 

「陣屋模型」(「菁莪記念館」内に掲出)

 

その中で興味を引いたのが「一の谷形兜」。この兜は、元々は「竹中半兵衛」の遺品で、その後「福島正則」→「黒田長政」の手に渡り、その後「黒田家」では代替わりごとに新調して、現在は最後の「黒田家藩主」のモノが残っているとか。

 

「一の谷形兜」を被った「竹中半兵衛」(「菁莪記念館」内に掲出)

 

また、「竹中氏」最後の領主「竹中重固(しげかた)」は、幕府の陸軍奉行でありましたが、鳥羽伏見の戦いで敗走し、函館五稜郭まで幕府方として参戦した人でもあります。

 

「竹中氏」最後の領主「竹中重固(しげかた)」(「菁莪記念館」内に掲出)↓

 

これらを見た後、この「菁莪記念館」北側にある「陣屋堀」の一部、堀の西側に張り付く二段の「石垣」そして現存の「櫓門」をじっくりと眺め写真に納めました。「櫓門」の左手には「竹中半兵衛」像が凛々しく立っていました。

 

「陣屋堀」の一部↓

「櫓門」の左手には「竹中半兵衛」像↓

 

現存「櫓門」は正門で、「菁莪義校」の校門も兼ねていたようです。屋根は「切妻屋根」、瓦は「桟瓦葺」、櫓部分は「白漆喰」で、中央に「竪格子窓」が付きます。

 

現存「櫓門」(「切妻屋根」、南東方向から)↓

現存「櫓門」(門の奥に見えるのが。後述する「目隠し石垣」、東方向から)↓

現存「櫓門」(北東方向から)↓

現存「櫓門」の「格子窓」↓

現存「櫓門」の「門扉」↓

「礎石」上に乗る「櫓門」の門柱↓

 

そして最も特徴的なのは、門の正面には「目隠し石垣」を施して内部が見えない工夫をしています。

 

現存「櫓門」(手前の石垣は「目隠し石垣」、西方向から)↓

「目隠し石垣」↓

「竹中稲荷神社」(「櫓門」内)↓

 

また、「櫓門」周囲を固める石垣ですが、何度から修築された痕跡なのか、「野面積み」「打込接」「切込接」「落とし積み」の多彩な積み方が見られます。また、「横矢を掛けている」箇所も見られます。

 

「野面積み」で「横矢が掛る」(「櫓門」の北側)↓

「櫓門」左脇は「打込接」↓

一部見られる「切込接」↓

「落とし積み」も見られる↓

 

「櫓門」脇の石段を上がると、櫓と同じ幅で南側に折れ曲がって延びますが、ここに「多門櫓」が建っていたような感じでもありましたが模型を見ると「土塀」が建っていたようです。そこからは、陣屋跡だった「岩手小学校」グランドが見えます。

 

「櫓門」から「多門櫓」が建っていたかのような幅が続くが「土塀」が建っていたようです↓

「陣屋」跡に建つ「岩手小学校」↓

 

北側沿いには「土塁」があるはずですが、民家の敷地内ですので確認ができませんでした。しかし、少し高い位置に木々が生い茂っていたので「土塁」であろうと想像ができました。

 

その後、バスの時間まで20分位ありましたので、「竹中氏」の菩提寺である「禅幢寺」まで少し足を延ばしました。JR東海道本線の下り線を潜るとすぐにあります。

 

「禅幢寺」入口付近↓

 

「八幡神社」側から入ると、ちょうどそこには「菩提山城」の登城口になっていました。「菁莪記念館」の横に建つ「岩手地区町づくりセンター」の職員の方が、城跡までは往復で3時間くらいかかるとか言ってましたので、結構ハードな山城なのでしょう。

 

「菩提山城」の登城口↓

 

立派な「禅幢寺本堂」の右奥に「竹中氏廟所」があり、左奥に二棟の屋形が並んでいて、その中に墓があるのでしょうか、「竹中重治(半兵衛)」と父親の「竹中重元」のモノでした。

 

「禅幢寺本堂」↓

「竹中家墓所図」↓

「竹中家墓所」↓

左は「竹中半兵衛-重治」、右は父「重元」の墓

 

「三木の戦い」で陣死した「半兵衛」のお墓は確か「三木」にあったと記憶していましたが、父親の「家元」が領地内にもお墓を設けたと記載していました。

 

1時間の滞在で、見るべきところを見た後、また「ときめき号」に乗ってJR「垂井駅」へ向かいました。駅前には、「一の谷形兜」を被った「竹中半兵衛」像が見られました。

 

JR「垂井駅」前の「一の谷形兜」を被った「竹中半兵衛」像↓

 

「垂井駅」を10時56分に乗車して、「大垣駅」「尾張一宮駅」で二度乗り換えて「清洲駅」へ向かいました。

 

次回のブログでは「清州城」をお届けします。

 

 

 

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