本日(5/9)は、「二条城」(京都市中京区)に訪城しました。

 

「二条城」の入口である「東大手門」前に、私含めてお城好きのメンバー7人が集合しました。修学旅行生や団体客、外人客で一杯で入場制限があるのではないかとの危惧がありましたが、午前10時という早い時間でもあったのか、意外と空いていました。

 

集合場所の「二条城離宮」碑

 

【HIS】旅行プログラム

 

「東大手門」から入り、私が説明役となって順番に説明しつつ、私はいつもと同様に各場所で写真を撮って行きました。

 

重文「東南隅櫓」

重文「東大手門」と重文「東南隅櫓」

金箔装飾が施された「東大手門」の柱

金箔装飾が施された「東大手門」の柱の根元

 

本日は、朝から好天気に恵まれ青空の中で撮れる写真は、いつも以上に美しく映えます。

 

光り輝く「唐門」前と、「二の丸御殿」前で記念写真を撮った後は、御殿の中に入りました。いつもながら「御殿」内は撮影禁止ですので、ブログでは紹介できませんが、いつ来ても重装で厳かな内部です。

 

重文「唐門」と国宝「二の丸御殿車寄」

豪華絢爛「桃山調」の「唐門」彫刻

豪華絢爛の「唐門」彫刻

重文「唐門」(裏側から)

 

最も特徴的なのは、釘隠し。老中が控える「式台」の廊下の釘隠しは普通のデザインですが、「大広間」「黒書院」「白書院」と将軍が使用する間の廊下沿いの釘隠しは、金箔が張られた熨斗型釘隠しが目に付きます。

 

また襖絵は、各間共に復元されたレプリカが嵌められていますが、当時「狩野派」が総力を挙げて取り組んだ絵が各部屋の意味を表現しながら描かれているのは見事です。

 

「遠侍」はお客が待機する間であることから、「虎」「豹」等が目を光らせて威嚇していますし、「大広間」は各大名と対面する間である為、特に「上段の間」正面には「将軍」に権威を持たす為に将軍の真後ろから「松の木」が覆い被さるように描かれています。

 

「黒書院」は、譜代大名や親藩の大名とが内輪に対面できるように、「上段の間」には「松」が描かれているものの「桜」等の花もあしらわれていて少し和らいだ雰囲気を出しています。

 

そして「白書院」では、大名に対する威嚇という行為はしなくていいので、「将軍」の寝室にもなり寛げるように水墨山水画「雪中花鳥図」が描かれています。

 

今回「黒書院」の東側にある「牡丹の間」の本物の「牡丹の絵の襖」が初公開されるということで、ガラスに守られた襖がそれだと思っていましたが、本物は「御殿」外に建つ「展示収蔵館」で初公開されているということでした。(そこへは、7人が解散した後、一人で見に入りました。)

 

「二の丸御殿」を一周した後、「二の丸庭園」の中から「御殿」の外観を説明していきました。「蘇鉄の間」の謂れである「蘇鉄」の説明や「白書院」北側に併設された将軍用「厠」には皆さんの興味が注がれていました。

 

右から「遠侍」「式台」「大広間」の各建物

「大広間」

「黒書院」

将軍席から見える最も美しいと言われる風景

 

「二の丸」跡を出て「本丸櫓門」から「本丸」跡に入ります。

 

重文「本丸櫓門」

 

当時は、「本丸櫓門」と二の丸側にあった「溜蔵」との間に、現在ある橋の上に「廊下橋」が架かり、当時「黒書院」から「溜蔵」を抜けて「廊下橋」を渡り「本丸御殿」経由で「五重天守」に登った「後水尾天皇」の話をすると非常に盛り上がりました。今までの「天皇」の中で、武家の戦闘用であるお城の「天守」に上がったのは「後水尾天皇」だけで、しかも滞在中に2回も上がったとのエピソードは受けました。

 

きっと、「天守」から見下ろせる自らの居所である「御所」がどのように見られているのか気になって確認をしたかったのかもしれません。

 

それと、「廊下橋」と「溜蔵」は昭和5年まで現存していたようで、解体した部材は「二条城」の何処かに保管されているようですので、復元の可能性もあるかもしれません。

 

「本丸櫓門」の桝形を抜けて「天守台」へ上がって一休み。皆さんベンチに座ったところで、「天守」についてのお話をしました。

 

重文「本丸櫓門」(白壁の所に穴が開いていて、「廊下橋」が繋がっていた)

 

現在は「天守台」だけですが、1750年に落雷で五重五階の「天守」は焼失、その「天守」というのが「伏見城」から移築されたモノでした。

 

「天守台」

 

「後水尾天皇」の行幸が決まったことによって、それまでここに建てる予定の「天守」は、当初「本丸(現在の二の丸)」に「徳川家康」が建てた「望楼型天守」を横移動させる計画でしたが、行幸の話が出たことでここにより立派な「伏見城天守」を持ってきました。そして「家康」時代の「天守」は「淀城」へ移築されたということです。因みに、「家康」時代の「天守」は「大和郡山城」から移築してきたものだそうです。

 

「天守台」からの眺めは素晴らしく、「御所」の場所を皆で確認しましたが、そこからは現在工事中の「本丸常御殿」の陰に隠れて見えません。恐らくこの「天守台」の上に建っていた五重五階「天守」からは丸見えだったことでしょう。

 

「御所」方向(現在の「本丸御殿」で右端に工事中の「本丸常御殿」)

工事中の「本丸常御殿」

 

「天守台」の周囲には石でできた「銃眼」が備わっていて、攻撃力は抜群です。「天守台」から見える「西南隅櫓」「土蔵」そして「本丸西虎口」の「出桝形」、「本丸」周囲を取り囲む「雁木」等を紹介しました。

 

「天守台」に備わる珍しい「銃眼」

「本丸西虎口」跡の出桝形

「天守台」

 

「本丸西虎口」を出て、「徳川慶喜」が「大坂城」に落ちのびる際に出た「西門」について話をしましたが、石垣に囲われ立入禁止となっていたのが残念です。

 

「北中仕切門」のかわった二重屋根や、その脇で見られる「矢穴」等を見た後、綺麗に手入れがされた「清流園」が見えるベンチで暫し休憩を取りながら、茶室「和楽園」がある辺りに「家康」時代の「天守」が建っていた話をしました。

 

「清流園」の南側から望む「本丸櫓門」

重文「北中仕切門」

「清流園」内の「香雲亭」

 

「東大手門」よりやや小ぶりの「北大手門」が、「後水尾天皇」行幸が終わった後は、この北側に置かれた「京都所司代」の役人の行き来の門として使用されたので、門に付く金箔等の装飾が外された話などをしました。

 

重文「北大手門」

「北大手門」の南側に建つ重文「土蔵」

奥が重文「土蔵」、右は復元「土蔵」

 

「御清所・台所」では、「京都国際写真祭 高木由利子」の写真展示が開催されていて「御清所・台所」の中を見れる絶好のチャンスでしたが、皆さんの反応は特に入りたいという声がなかったので止めました。

 

「御清所・台所」の入口には「高木由利子」氏の大きな写真が掲出

「御清所・台所」の壁面

 

こうして、丁度12時で予定の時間となりましたので、ここで解散をしてその後は自由行動となりました。

 

他の方々は、「二条城」に来城しても「二の丸御殿」を見るだけで、今回の様に周囲を散策と見学をしたことがなかったので、凄くいい経験ができたと喜んでいただけました。

 

私はその後も、「二条城」に暫く残り、もう少し見学をしましたので、次回のブログで詳細をお届けします。

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村