昨日(4/30)、「龍野城」「龍野古城」「姫路城」を訪城してきました。

 

当初は城友と、4/29(土)~30(日)にかけての一泊二日の「西播磨山城4城巡り」を予定して、ホテルやレンタカーも予約済み、しかも私は、夏用山登り用のスラックスと新しいリュックも購入して備えていました。

 

しかし、なんと!事前の天気予報では二日間共に雨になるとのことで、急遽全てキャンセルして雨の影響が少なそうな4/30に「龍野城」「姫路城」にだけ行くことに予定変更をしました。

 

当日、私が家を出る時には小雨でしたが、姫路に着くころには雨も上がり以降は天候回復が予想されていましたので、まずまずの城巡り環境でしたが、大雨の後だけに「山城」には行けそうにもありません。

 

「三宮」までは阪急電車で移動し、「三ノ宮」からはJRの「新快速」に乗車し「姫路駅」には8時49分に到着しました。

 

「姫路駅」で城友と合流し、「城友」希望の「龍野城」に行くために「JR姫新線」で「本竜野駅」まで乗車しました。

 

「JR姫新線」の気動車

 

「龍野橋」からは、「鶏龍(けいろう)山城=龍野古城」がある標高218mの「龍野山」が見え、麓には白壁の「龍野城多門櫓」が見えています。城友は「龍野古城」に以前から行きたがっていたので恨めしそうな顔をして見ていました。

 

「鶏龍(けいろう)山城=龍野古城」がある「鶏龍山」(標高218m)

 

「龍野橋」を渡ると、古い商家が沢山並ぶ「重要伝統的建造物群エリア」に入ります。「大手道」を進んだ突き当りに裁判所がありますが、そこを右に折れた角には童謡「赤とんぼ」の作詞家である「三木露風」の生家があります。

 

城下町「龍野」の絵図

古い商家が並ぶ

古い商家が並ぶ

古い商家が並ぶ

 

そこを曲がると正面に見えてくるのが「龍野城」(兵庫県たつの市)の復興「埋門」です。

 

正面に見える復興「埋門」

 

龍野城」の歴史と城主ですが、1499年頃に「赤松村秀」が「鶏籠(けいろう)山」に中世城郭を築いたのが始まりでしたが、1577年の「羽柴秀吉」による中国攻めで、当時の城主「赤松広秀」がお城を開け渡します。

 

「秀吉」配下の「蜂須賀正勝」が1581年に入城後は、「福島正則」「木下勝俊」「小出吉政」が短期間で入替り入城しますが、1600年に播磨が「池田輝政」の領地となってここに城代を置きました。

 

1617年に「本多家」が、その後は「小笠原家」「岡部家」「京極家」が再び入替り立ち替わり入城しますが1658年に廃城して、建造物も取り壊しが行われ一時天領となりました。

 

しかし1672年に幕命によって「脇坂安政」が入城します。「脇坂家」は城主格ですが幕府に遠慮して「天守」等を築かず、幕末・維新まで統治し続けました。その間、幕閣へは「脇坂家」から2人の老中を輩出しています。

 

龍野城」の縄張りは、「鶏龍(けいろう)山」に石垣を伴って築かれた古城の「本丸」「二の丸」を崩して、山麓に居館を設けた「御城」としました。

 

南側に「大手門」を構え大手道の北に「冠木門」、東側に「東門」を設け、「御城」内への入口には櫓門の「埋門」を築いています。また西側は「錣坂下(しころさかした)門」を経て「裏門」から入城しました。櫓は、南東隅に「多門櫓」、北東隅に「太鼓櫓」が建つだけでした。

 

また藩主は、「御城」の西側に「上屋敷」を設けて居住屋敷としていました。

 

さて、櫓門形式の「埋門」は、1979年に城内の「御殿」や「隅櫓」と共に建築された門で、「続櫓」が前に出張る立派な門です。明治時代に描かれた絵図に近い形で、石垣は「算木積み」にして、門を入ると左手に曲がり石段で上へあがります。この「埋門」は、いざという時には、土で門内を埋めて敵が入り込めないようする為の仕掛けが施されています。

 

復興「埋門」は櫓門形式

復興「埋門」の「続櫓」台隅石は「算木積み」

復興「埋門」、ここに土を入れると敵は入れない

 

「埋門」の石段を上り切ると真前には大きな「唐破風」が付く「玄関」がある「御殿」が横たわりますが、先に東側の敷地に建つ城郭風建築の「歴史文化資料館」の方へ足を進めると、南東隅には絵図に近い復興「多門櫓」が建っています。これが、先程駅から見えていたモノです。

 

復興「多門櫓」

「脇坂家家紋(違い輪)」が付く鬼瓦

 

復興「御殿」ですが、1979年に建築されたモノで、御殿建築ブームが起こる前に既に立派な「御殿」が建てられていました。

 

立派な「唐破風」の玄関を持つ「御殿」

立派な「唐破風」の玄関

 

ただ前述の絵図には描かれていないので、模擬に近いモノと思われますが、中は、床の間・違い棚・帳台構え・格子天井を備えた「上段の間」や、「大広間」、各部屋も再現されていて御殿建築のかなりの要素を採り入れている建物であると思います。

 

「御殿上段の間」の「床の間」「違い棚」

「御殿上段の間」の「床の間」「違い棚」「帳台構え」

「御殿上段の間」の「格子天井」

「龍の間」の「龍」が描かれた襖

「御殿」内の間

「網代天井」を持つ部屋

 

二つの建物が並列に並び、廊下によって結ばれていて枯山水風の「中庭」を囲んでいます。

 

「御殿廊下」

二つの建物に挟まれた枯山水風の「中庭」

「御殿」は二つの建物から構成

 

「御城」の南西隅には、二重の小ぶりな模擬「隅櫓」が建っています。望楼型で屋根の軒先が少し跳ね上がるような造りです。また、外側からは見栄えを良くする為に、屋根に「唐破風」を設け、「出窓」と「石落とし」も備えています。この「隅櫓」は絵図には載っておらず模擬櫓ですが、現在は当城のモニュメントになっています。

 

模擬「隅櫓」(望楼型で軒先が上へ跳ね上がる)

模擬「隅櫓」(「唐破風」「出窓」「石落とし」を備えています)

 

西側には、「龍野古城」へ上がる登城口の柵があり、次回のブログで紹介したいと思います。

 

西側の高麗門形式の「裏門」を出ると、「錣(しころ)坂」という坂に白壁の土塀が続き、その途中に当時「錣坂下門」が有りましたが、その辺りから先程の模擬「隅櫓」を見ると綺麗なアングルとなります。

 

復興「裏門」

「錣(しころ)坂」

「錣(しころ)坂下門」跡付近から見上げる模擬「隅櫓」

「錣(しころ)坂下門」跡付近から見上げる土塀

 

そこから西側が武家屋敷群とない、「旧脇坂屋敷」や「家老屋敷」等が並んでいるエリアです。このエリアから少し石段を上がつた所が「聚遠亭(しゅうえんてい)」の敷地になっています。

 

「旧脇坂屋敷」(手前左)や「家老屋敷」等が並んでいるエリア

藩政時代の石垣だろうか?

当時の石段だろうか?

「聚遠亭(しゅうえんてい)」の敷地

 

そこには、「脇坂家上屋敷御涼所」という「上屋敷別館」の建物が残っている他、数寄屋造りの「茶室」が池の上に建っていて非常に趣深い佇まいとなっています。

 

「脇坂家上屋敷御涼所」という「上屋敷別館」

「脇坂家上屋敷跡」碑

 

この「茶室」ですが、幕末に藩主「脇坂安宅」が「京都所司代」であった時に、「御所」が炎上したので再建に注力したことから「孝明天皇」より賜った「茶室」ということです。

 

現存「茶室」

現存「茶室」

 

小京都とも言われる「龍野城下」は、これ以外にも見所が沢山ありますが、時間の関係で割愛しました。

 

当初は、雨で足元が悪い「山城」登城を断念していましたが、天気も回復し足元にも心配が無くなってきたことと、「城友」の登りたそうな顔から、「鶏龍山城=龍野古城」への登城を決断しましたので、次回のブログではお届けしたいと思います。

 

 

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