4/3(月)に、5回目の「青春18切符」を使って、福井県の「小浜」まで「お城巡り」に出かけました。 

 

「後瀬山城」の居館跡を見学した後、「小浜城」(福井県小浜市)へ向かって歩きました。途中「重要伝統的建造物群保存地区」や「丹後街道」沿いの昔ながらの町並みを見ながら進みました。

 

「丹後街道」沿いの町並み

「丹後街道」沿いの町並み

 

また、嘗ては若狭湾で取れた「鯖」を、「京都」まで運ぶ街道の「鯖街道の起点」があった場所も通過しました。

 

「鯖街道の起点」

「鯖街道MUSEUM」

 

約20分くらい歩いて「南川」を渡った場所に「小浜城」跡があります。

 

小浜城」の歴史と城主については、「後瀬山城」で触れたように、この地が重要だったことから守護が置かれ、1366年に「一色氏」が着きますが「武田氏」が滅ぼして9代に亘って守護を務めます。やがて「武田氏」は「朝倉氏」に支配されますが、「朝倉義景」が「織田信長」に滅ぼされると「丹羽長秀」が「後瀬山城」に入城します。

 

その後「豊臣政権」下では「浅野氏」「木下氏」が入城しますが、関ヶ原の戦いで西軍に付いた「木下氏」に替わって「京極高次」が若狭領主となって統治しやすいお城として「小浜城」の築城を開始します。

 

しかし息子「京極忠高」は移封になって、1634年に「後瀬山城」に11万3千石で入城したのが三代将軍「徳川家光」に最も信頼を受けていた幕閣「酒井忠勝」でした。長年に亘って築城工事が進められて1642年にほぼ完成した「小浜城」に「忠勝」は入城しました。以降は、「酒井家」が幕末・維新まで統治します。

 

小浜城」の立地と縄張りは、「南川」と「北川」の間の三角州の上にあり、西側は「小浜湾」に接して、東側は湿地帯という天然の要害地でしたが、その為高度な築城技術を要する地であったので築城には約40年も要しました。

 

「本丸」を中心に「内堀」が掘られ、その周囲には「二の丸」「三の丸」「北の丸」「西の丸」が取り囲む「輪郭式縄張り」で構成しました。

 

「本丸」には三重三層の「天守」の他に7基の「櫓」が築かれ、「三の丸」には10基、「北の丸」には2基、「西の丸」には4基の計30基以上の櫓を巡らす大城郭でした。そして「二の丸」には「御殿」が置かれ、「三の丸」に「大手橋」が架かり「大手門」が築かれていました。

 

「縄張り図」(城内に掲出)

 

さて、「南川」を渡る現在の「大手橋」は工事中の為に自動車は通行止めになっていました。江戸時代の「大手橋」は現在の橋よりも南側に架かり、「三の丸」から入城するようになっていて渡った左手に「大手門」が有りましたが、現在の「三の丸」跡は、荒地となり工事現場となっています。

 

「三の丸」跡

 

現在の「大手橋」を渡った所が「二の丸」跡で住宅地となっていますが、そこに「御殿」が建っていたようです。

 

「二の丸」跡

 

「本丸」跡に建つ「小浜神社」の正面に通じる道は本来無かった道で、その辺りは「内堀」になっていた場所です。

 

「本丸」跡に建つ「小浜神社」

「本丸」跡地

 

「小浜神社」の鳥居が立つ両サイドには「櫓台」が見えますが、これらは「北虎口門」と「南虎口門」を構成する櫓台であることを今回初めて知りました。というのも、神社内に掲出されている「小浜城の解説と縄張り図」によると、「本丸」跡に建つ「小浜神社」の区画が明示されていて、前述の二つの櫓台を「本丸」の隅に建つ「毘沙門櫓」或いは「東櫓」と「姝手櫓」だと思っていましたが、それらは住宅内の敷地内であることを知りました。

 

「北虎口門」を構成していた「櫓台」

「南虎口門」を構成していた「櫓台」

 

私は、「北虎口門」跡の「櫓台」の方から、時計と反対方向に廻りました。その「櫓台」から少し延びる石垣の西側には「翳(かげり)櫓」台が確認できました。その北側は堤防があって「多田川」「北川」が流れているので、「北の丸」跡は川底になってしまっているようでした。

 

「翳(かげり)櫓」台

 

石垣の北東隅は「乾櫓」台だと思いますが、そこから石垣は南に向かって延びています。草むらとなっている「内堀」跡を横断して「本丸」跡石垣に近づき「石垣」を鑑賞しました。

 

北東隅の「乾櫓」台、奥に見えるのが「翳(かげり)櫓」台

手前「内堀」跡の向こうには「本丸」跡の横矢が掛る西石垣

 

「石垣」は「野面積み」で、先程の「乾櫓」台の隅石は、大きい石を交互に積上げていました。また、石垣の西側面には「横矢を掛ける」仕掛けもありますし、その間には「埋門」跡の切れ込みの入口があって「礎石」も見ることができました。

 

「乾櫓」台の隅石は大きい石を交互に積上げ

「本丸」跡の西面石垣の「横矢掛り」

「埋門」跡

「埋門」跡の「礎石」

 

「埋門」跡の「内堀」側からは南方向で「天守台」をみることができます。

 

「天守台」(南方向)

 

「埋門」跡の左手は「西櫓」台があり、それに続いて石垣が「乾櫓」台まで延びています。丁度その下には、多数の瓦が積み重ねられていて、その中の割れた瓦の中には、城主「酒井家」の家紋「丸二剣片喰(かたばみ)」が目に付き、それらが旧櫓や門等に葺かれていた瓦ではないかと興奮しました。

 

「西櫓」台

城主「酒井家」の家紋「丸二剣片喰(かたばみ)」らしき瓦

 

「埋門」跡の右手に続く石垣は「小天守台」の表示がされていて、「小天守」が連結していたことを物語っています。

 

「小天守台」

 

「天守」は三重三階の層塔型で下見板張りであったようです。その「天守」の登城口は、「本丸」跡から坂道で上がり左に折れて石段を上がり段になっているところから、今度は右折れして「天守台」へ入るといった複雑な入城路となっています。「天守」の前にも「付櫓」があったような感じがしました。

 

「本丸」跡内から見た「天守台」

「天守」への登城口

「天守」への登城口(段上から見おろす)

「天守」への入口

 

「天守台」上は、礎石が沢山並んでいて、周囲を俯瞰できますが、西から南にかけては住宅家屋の屋根ばかりが見える光景でした。

 

「天守台」上

「天守台」上の「礎石」

 

城域が、両サイドの川に切り取られ、住宅街が広がっていて、当時櫓が30基も林立していたとは、とても思えない光景が残念でした。

 

「本丸」跡南石垣に迫る住宅地(「天守台」から)

「小天守台」と「内堀」跡(「天守台」から)

 

「小浜城」は2度目の訪城ですが、以前に来た時と殆ど変化がないのは、周囲が住宅地で固定化されている為なんだろうなと思いました。

 

住宅街から見る「天守台」(南東方向から)

 

「三の丸」跡は橋の工事現場として荒地となっていますが、ここは発掘調査等が進めば新たな展開も期待できるのではないかと思いました。

 

左足の踝(くるぶし)の痛みが酷くなってきたので、「小浜駅」へ直行し1本早い電車に乗って帰ることにしました

 

「小浜駅」前に立つ、浅井家三姉妹「淀」「初」「江」

 

「小浜駅」を15時29分に乗車して、帰りは「敦賀駅」経由で「湖西線」に乗り「山科駅」で大阪方面へ行く「新快速」に乗換えるルートで帰ることにしました。

 

「湖西線経由 近江今津行 普通」

 

「敦賀駅」で驚いたのは、「北陸新幹線」の駅舎が既に出来上がり、来春(2024年)春が開通予定になっていることでした。駅舎内では、開通に因んだ広報が至る所で見られ、しかも駅の前には、広場と新しい商業施設ができあがっていて、開通を待ちわびているようでした。

 

新幹線「敦賀駅」が既に出来上がっています

「北陸新幹線」敦賀延伸による駅名表示

「北陸新幹線」

「敦賀駅」前の開通告知看板

「敦賀駅」前の広場と新商業施設

 

鉄道ファンとしては非常に楽しみな出来事ですが、一方で「青春18切符」愛好者としては、その使用範囲が狭められることを非常に危惧している1人でもあります。

 

春の「青春18切符」は、最後の使用(5回目)で今春の活動は終了となりましたが、今回はそれで数多くのお城巡りが出来たことに非常に満足しつつ、次回の夏の「青春18切符」では何処のお城に行こうかと、今からまた計画を組立てたいと思っています。

 

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村