12/27(火)に「青春18切符」を使って名古屋方面へ「お城巡り」に出掛けました。目的地は、「松平城・松平郷」(愛知県豊田市)と「大給(おぎゅう)城」(愛知県豊田市)で、「徳川家」のルーツを訪ねました。

 

次の訪城地は「大給(おぎゅう)城」で、バス停「松平郷」から約5分弱で最寄りバス停「大内」に着きました。帰りのバス時間は2時間後の16時21分ですので丁度2時間あります。

 

「大給城」へは、バス停から少し坂を下った所から舗装された道が枝分かれしていてそこには「案内表示」があります。国道からは比高差100m位あるのでひたすら上り坂を上がります。約10~15分ぐらい上ると「登城口」があってそこから山道に入ります。車であれば、その少し手前に駐車場があります。

 

国道(バス道)からの案内表示

舗装された上り道、ひたすら上がります

「登城口」

 

「登城口」からの登城路は杖がいる程急でもなく、暫く進むと「大給城跡」方向と「松平乗元の墓」方向への三叉路に突き当たります。私は先に、「大給城」の始祖である「松平乗元の墓」を見る為に右折しましたがもうすぐ目の前でした。

 

「葵の紋」が付く「松平乗元の墓所」

 

かなり古そうなお墓でしたが、この墓所は江戸時代の「文政・天保」の頃造られたようです。

 

ここで、歴史と城主について触れておきますと、「松平乗元」とは、彼の祖父である「信光」の時にこの城を攻めて、父親である「親忠」から城を守るように命じられたことから在城し、近隣を平定して以降、子孫五代が居城したことから「大給松平家」と呼ばれるようになりました。

 

「大給松平家」は、江戸時代になって三河の「西尾城」、信州の「龍岡城」、豊後の「府内城」において城主(藩主)となった譜代大名の家柄として残ります。

 

「大給城」の縄張りは、東側から「曲輪2」「曲輪1東」「曲輪1西」と連郭で繋がり、その間には「堀切」「櫓台」を設けた「曲輪2」の「虎口」、「出桝形」となって東西に仕切石積みを設けた「曲輪1」の虎口等によって各曲輪は分断されています。

 

「大給城跡縄張図」(現地に掲出)

 

そして、その北側に細長い「腰曲輪」を設けて、最大の特徴である北側に向かって広大に拡がる「水の手曲輪」には、途中石積みの堤防を築いたような段差がある二段構造となって下っていきます。

 

平時の居住場所としては、お城の南西部に置いていました。

 

 

さて、話を元に戻して「松平乗元」の墓から先程の三叉路を通り越してほぼ真っすぐな道を進むと、南北に「堀切」がありそこを渡る「土橋」に着きます。右側は、かなり絶壁になっていましたが、左側には「松平氏遺跡 大給城」碑とともに、巨石が立ち並んでいました。そこに足を踏み入れると「二重堀切」になっています。

 

「堀切」を渡る「土橋」

「土橋」右側は絶壁

「土橋」左側の「堀切」と「松平氏遺跡 大給城」碑

「堀切」下から「土橋」方向

「堀切」下の巨岩

 

道は左へ折れて「切通し」の間を抜けると、右手には「曲輪2」跡の「虎口」に出ます。その両脇には高い「土塁」と「石積み」でできた「櫓台」が両脇を固めます。

 

「切通し」

「曲輪2」跡の「虎口」と両脇は「櫓台」

 

特に左の「櫓台」の「石積み」は、平べったい石を積上げた形状で、右側の「石積み」とは異なっていました。「曲輪2」跡は割と広く、両「櫓台」からは高さがある「土塁」が繋がっています。そして、東側を見ると「曲輪1東部」の曲輪がせりあがって見えてきますが「切岸」が施されているようです。

 

「櫓台」の「石積み」(左側)

「櫓台」の「石積み」(右側)

「曲輪2」跡全景

「曲輪2」跡の「櫓台」から続く「土塁」

左「櫓台」から続く「土塁」の先には「曲輪1東部」跡が見える

 

「曲輪1東部」跡の北側の坂道を上がって行くと突当りにも「石積み」が見られ、そこは左折れの桝形を形成しています。また、その「石積み」の隅石は、下段の「腰曲輪」まで続く高石垣のようになり、更に左折れしてからも「石積み」が続きます。最大の見せ場の箇所ではないでしょうか。

 

「曲輪1」跡へ上がる坂道

「坂道」突き当りの「石積み」

「石積み」の隅石は高石垣のようで下段の「腰曲輪」跡迄延びる

左折れしても「石積み」が続く

 

その左折れの「石積み」は、「曲輪1」を東西に仕切る役割があるようで、「曲輪1東部」は高くて「曲輪1西部」は見下ろすような位置関係となります。

 

「曲輪1東部」跡への「虎口」

「曲輪1東部」跡に上り切った所から見る「石積み」

 

「曲輪1東部」跡は、奥が狭まっていますが中央には平べったい岩の上に「明治天皇」碑が立ちます。そしてその奥に足を踏み入れて先程入ってきた「曲輪2」跡を見下ろすと、その高さが実感できました。

 

「曲輪1東部」跡に立つ「明治天皇」碑

「明治天皇」碑

「曲輪1東部」跡先端から見下ろした「曲輪2」跡(「切岸」が施されている)

「曲輪1」跡の東西仕切「石積み」(西方向)

 

「曲輪1東部」の南西隅には下るようにして「虎口」があり、その前には低い石垣を積んだ小さな段がありましたが、その右手には「曲輪1西部」の「虎口」があり、東西仕切っている最南端にはシッカリと「石積み」が残っています。

 

「曲輪1東部」の南西隅には下るようにして「虎口」

「曲輪1」を東西仕切っている最南端にはシッカリと「石積み」が残る

「曲輪1」を東西仕切っている最南端にはシッカリと「石積み」が残る(曲輪1西部から見る)


「曲輪1西部」は西に向かって細長く奥の方の至る所に巨岩が見えます。その中の一つの巨岩の上には「大給城跡」碑が立っていました。

 

「曲輪1西部」跡の全景(西方向)

「曲輪1」跡の東西仕切「石積み」(「曲輪1西部」側は「土塁」が目立つ)

「巨岩」が林立する

「巨岩」の一つの上に「大給城跡」碑が立つ

「大給城跡」碑

 

乱立する巨岩の間を抜けると、その下には凄く大きな岩「物見岩」が横たわっています。まさに、物見をする為に置かれたような岩で、そこからは豊田市街を一望できるビューポイントとなっていました。

 

凄く大きな「物見岩」

「物見岩」から一望できるビューポイント

 

「曲輪1」跡から「曲輪2」跡へ戻り、「水の手曲輪」跡への分岐となっていた所から下っていきます。「曲輪1・2」跡を北側から取巻く細長い「腰曲輪」跡を下りて行くと、広大な「水の手曲輪」跡がかなり下まで続いているのが目にできます。

 

「曲輪1」跡北側下段の「腰曲輪」跡

「水の手曲輪」跡方向

 

特に驚いたのは、「水の手曲輪(D)」跡の北端には中央を凹ませて下に水が落ちるようにしたまるでダムのような仕様になっている状態です。後世の人の作だと思いきや当時の人の手による造作だそうです。そのダムに見える下側から見上げると苔生した荒々しい石垣が積まれていることで納得がいきました。

 

「水の手曲輪(D)」跡の北端は中央を凹ませてまるでダムのような仕様

堤防のような石垣(下から見上げた状態)

 

私は、東側の「虎口」のような所から「水の手曲輪(E)」跡へ下りて行きました。その「虎口」周囲にもい「石積み」が見られました。

 

東側の「虎口」のような所から「水の手曲輪(E)」跡へ

東側の「虎口」のような所から「水の手曲輪(E)」跡へ下りる所にも「石積み」

 

どんどん「水の手曲輪(E)」跡を下りると更に段があり「井戸」跡が見られました。一番北端の低い所まで下りて、振り返り「水の手曲輪」跡を見上げると、遥か向こうの高い位置に「曲輪1」跡の上部(空)の光が見えるぐらいの位置にいることが実感でき、この「水の手曲輪」の雄大さに触れることができました。これだけの水の確保が可能であれば、かなりの人数の武士達を養うことができたでしょう。

 

「水の手曲輪(E)」跡内にある「井戸」跡

「水の手曲輪(E)」跡内の最下段から上段を見上げる

「水の手曲輪(E)」跡内の窪み底から見上げる

ダムの様相の「水の手曲輪(E)」跡を見上げる

 

興奮が冷めやらない中で「曲輪2」跡に戻り、今度は「曲輪2」跡南側の「腰曲輪」跡沿いを西側にどんどん進むと左手下には、手前が2段となった「曲輪3(居館)」跡の大きな広場が見えてきます。その入口部にも「石積み」が見られました。

 

手前二段となっている「曲輪3(居館)」跡

「曲輪3(居館)」跡の入口脇にも「石積み」

「曲輪3(居館)」跡

「曲輪1」跡を見上げると「石積み」が見える

 

「曲輪3(居館)」跡からお城の南端一番下の「腰曲輪」跡を東側に進んだ所にある南側斜面には、「畝状竪堀」は数本見られました。事前にこの辺りにあるとの情報を得ていたので斜面に這いつくばって探しました。これまた大興奮でした。

 

「畝状竪堀」

「畝状竪堀」

「畝状竪堀」(上から見おろす)

 

ここから「堀切」のある所まで、大きな岩の間を抜けながら戻りました。

 

巨岩が一杯転がる

 

下山途中に気が付きましたが、「大給城跡」矢印下に「日本最強の城スペシャル 大給城跡」のポスターが掲出されていました。

 

「日本最強の城スペシャル 大給城跡」のポスター

「大給城跡」がある城山

 

「登城口」を出て帰りは坂道を下るだけでしたので非常に楽な帰り道でした。「大内」バス停に辿り着いたのは15時50分でしたのでバスの時間(16時21分)まで、太陽の光も陰ってきた中で少し寒いでしたが、スマホで「お城紀行(速報)」の準備をしていました。

 

「豊田市駅」からは、来た時とおんなじルートで名鉄で「金山駅」まで乗り、そこからJR東海道線で「米原駅」行快速に乗りました。時間は17時54分で通勤ラッシュ時間帯でしたが「名古屋駅」からは座ることが出来て「お城紀行(速報)」の作成続きをしました。

 

「豊田市駅」で購入していた夕食替りの「サンドイッチ」は、乗客が極端に少なくなった「関ケ原駅」以降で食べて「米原駅」からは「新快速」で「大阪駅」へ向かいました。

 

積雪状況を危惧していましたが、天気も良く積雪も無く、しかも大河ドラマ「どうする家康」放映前に「徳川のルーツ」を尋ねる「お城巡り」で3城を無事登城して徳川(松平)の系図等の知識を得ることが出来て凄く勉強になりました。今まで、「松平家と徳川家」との関係が曖昧でしたが、現地で色々な情報に触れてかなりマスターできて良い1日となりました。

 

そして、年始の「日本最強の城スペシャル」で「大給城」がどう紹介されるのか楽しみです。

 

 

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