すでに「速報」でお届けしていますように、8/2(火)~4(木)の二泊三日で、「夏好例のお城巡り一人旅」に出かけました。
6城目は「白河小峰城」(福島県白河市)です。当城へは、東北大震災の後に訪城しましたが、石垣の崩落が有った為「清水御門」から中は立入禁止で、堀周りからの訪城だけになっていたので、是非来訪したかったお城です。
今回も駅前の観光協会でレンタサイクルによる散策です。
それでは、いつものように「白河小峰城」の歴史と城主について触れておきたいと思います。
「白河」は、古来より「関所」が設けられるほど重要な拠点で、「結城親朝(ちかとも)」が「小峰城」を築城して、代々「白河結城家」が家督を相続します。しかし、「豊臣秀吉」による奥羽仕置によって、「白河結城家」は所領を没収され、42万石で会津に入封した「蒲生氏郷」が統治します。
江戸時代に入った1627年に、外様大名ながら「大阪夏の陣」の戦功があり築城上手な「丹羽長重」を徳川将軍家が重用して、北の「伊達政宗」に対する備えを意識した近世城郭に大修築させました。
当城は、幕府にとっては重要ポイントであったことから、築城が終わった「丹羽家」は二本松に移され、その後は「譜代大名」や「御家門」が次から次へと交替して入城しました。
「榊原忠次」→「本多家」→「奥平家」→「松平直矩等の越前松平家」→「久松松平家」→「阿部家」と変遷して、1866年に「阿部正静(まさきよ)」が「棚倉城」へ移封となった後は幕府領として「二本松藩の預かり地」となり、最後は新政府軍に攻められます。
「戊辰戦争」では、「小峰白河城」は奥州の玄関口に当たる重要拠点であったことから、新政府軍と幕府との長期間(約100日)に亘る攻防戦が繰り広げられました。当初は新政府軍が占拠しましたが、一時「奥羽越列藩同盟」軍が奪還します。しかしながら、再び新政府軍が奪還してからは「同盟」軍の7回に渡る攻撃を受けましたが、新政府軍が守り切り城郭建造物の大半が焼失してしまいました。
「白河小峰城」の「縄張り」ですが、阿武隈川上流に位置する盆地の丘陵に建てられた「平山城」で、「本丸」は北堀を背にして「帯曲輪」が北側から西側、南側にかけて、東側は「竹の丸」が取り囲みます。
「本丸」南側にはほぼ方形の「二の丸」を設け、南側から東側にかけては「三の丸」が取り囲みました。更には堀を隔てて南側から東側にかけて「外曲輪」を設けるという「梯郭式」の縄張りで構成されていました。
石垣は「本丸」から一二三段状に築かれた総石垣造りのお城で、周囲を取り巻く堀には水が潤い、その幅もかなりの広さを確保しています。
さて私は、JR東北本線を潜る地下通路「城郭風のふれあい通り」を抜けて、「藤門」跡の石垣前に到着です。この内側の「二の丸公園」入口から登城開始です。
櫓と門の位置絵図(左が北、城内で掲出)
「藤門」跡
「二の丸」跡の全景(東側から)
「小峰城跡」碑と復元「御三階櫓」
両脇が「水堀」になっている「土橋」を渡ると、現在は冠木門になっている「清水門」跡です。当時の「清水門」はかなり大きな「渡櫓門」で、現在復元に向けて寄付を募っています。
「清水門」跡前の「土橋」左側の「水堀」
現在の「清水門」跡には簡単な「冠木門」が建つ
「清水門」のCGが描かれた寄付を募るビラ
入って真正面に「本丸」跡石垣の南面が見られ、高さ10m、長さ50mにわたって続いていて、その中に「半同心円状落し積み」 (車軸積み)が見られます。これだけの大規模な「半同心円状落し積み」はなかなか見れない貴重な遺構だと思います。
「本丸」跡石垣の南面で見られる「半同心円状落し積み」 (車軸積み)
下部を拡大した「半同心円状落し積み」 (車軸積み)
右手に行くと「竹の丸」跡から「御三階櫓」へ向かいますが、先に左手の「本丸」跡南面沿いに西へ向けて延びる「帯曲輪」跡を見て行くことにしました。
「本丸」跡南面の門跡、横矢掛り、櫓台の高石垣が続きます
少し進むと、右手には「本丸」跡に上がる「桜之門」跡が構えます。ここは「本丸御殿」南入口の前だったので、藩主の通用門であったらしいです。また門形式は「渡櫓門」で入って右に折れて石段を上がっていきます。
「桜之門」跡(ここは「切込接・布積み」)
「桜之門」跡(正面で右折れ、櫓門が建っていた)
その脇には、櫓台と思うような出張の石垣がありますが、「横矢掛り」の石垣の様です。そしてその前には「帯曲輪」の出入口になっている「帯曲輪御門」跡の石垣が行き手を塞ぐような形で立ちはだかります。間口13mで「杮葺き切妻屋根」の「渡櫓門」だったようです。
「本丸」跡の「横矢掛り」
「帯曲輪御門」跡(「杮葺き切妻屋根」の「渡櫓門」が建っていた)
その脇には「月見櫓」跡の櫓台が有り、お城の南側の監視と「帯曲輪御門」の管理を担っていたようです。
「月見櫓」台(「帯曲輪」跡内から見る)
「月見櫓」台(「二の丸」跡内から見上げる)
「帯曲輪」跡を入ると西側に広い敷地が確保されていて、「本丸」南西隅に建つ「富士見櫓台」と北東隅に建つ「雪見櫓台」が良く目につきます。この両櫓は「二重櫓」だったようです。月見や富士見や雪見といった風流な名前を付けた櫓が固まっています。
「帯曲輪」跡の南側(石垣は「本丸」跡の石垣)
「帯曲輪」跡の西側
「富士見櫓台」(「帯曲輪」跡西側から)
「雪見櫓台」(「帯曲輪」跡西側から)
「帯曲輪」跡を後にして「清水門」跡前まで戻り「竹の丸」跡へ向かいます。「竹の丸」も「本丸」を東側下で取り囲む「帯曲輪」であって名称が「竹の丸」と付けられています。
「竹の丸」跡(左の土塁斜面は、当時竹林になっていたようです)
「竹の丸」跡の周囲は石垣に囲われ、中には「御湯殿御殿」が建っていたらしく、隅には二重の「竹の丸二重櫓」と平櫓の「竹の丸角櫓」が建っていました。
「竹の丸二重櫓台」
「竹の丸」跡から石段を上がると、いよいよ「本丸」跡に入る「前御門」が迎えてくれます。この「前御門」は「御三階櫓」の南側に一段下がって建てられ、1991年に木造復元した「渡櫓門」形式で「下見板張り」の門です。
復元「前御門」と復元「御三階櫓」
復元「前御門」
復元「前御門」(梁の繋ぎ)
「前御門」を潜ると目の前に拡がる広場が「本丸御殿」跡です。「前御門」から南東隅を経て「清水御門」の上くらいまで「多門櫓」が延びていたようで、その「多門櫓」跡が残ります。
「本丸御殿」跡
「本丸」跡の南東部分を防備した「多門櫓台」
「本丸御殿」跡の中心から見る「御三階櫓・前御門」は非常に美しい姿を放出しています。ここで何枚もの写真を撮りましたが、「御三階櫓」登城後、天気が晴空になってから再度撮影すると、一層の美光が放たれていました。
曇天時でも美しい復元「御三階櫓」の姿(「本丸御殿」跡内から)
晴れると一層美しさが目立つ復元「御三階櫓」(「本丸御殿」跡内から)
復元「御三階櫓」と復元「前御門」(「本丸御殿」跡内から)
先程「帯曲輪」跡から見上げた「桜之門」跡の出入口の石段が「本丸」跡内に見られます。
「桜之門」跡(「本丸御殿」跡側から、ここから藩主は出入したとか)
「本丸御殿」跡の西端の土塁状段上となっている所が「弓場」跡で、「富士見櫓台」と「雪見櫓台」の石段が南北隅に見られ、そこには表示も有りました。
「弓場」跡
「雪見櫓跡」の表示
「雪見櫓台」(「弓場」跡から)
さて「御三階櫓」下に戻って館内に登城すべく石段を上がった所には、お城の石垣崩落続きで藩主が藩士の娘「おとめ」を人柱にした悲しい話が残る「おとめの桜碑」が目に入り手を合わせました。
復元「御三階櫓」を見上げる
「おとめの桜碑」
「白河小峰城(前編)」はここまでとします。
「後編」では、「御三階櫓」の内部、お城の外周、そして城下探索をお届けしますので引続きご覧ください。
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