「備中松山城」(岡山県高梁市)中編は、いよいよ、建造物群が見える「二の丸」跡、そして「本丸」跡を目指します。
前編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12570638325.html#_=_
ここからは、「本丸」跡の中にある「天守」を取り巻く復元の櫓群と門が一体となって見える絶好のスポットとなっています。
天守曲輪が全景できるスポット(鉄門跡前から)
縄張り絵図
「鉄門」跡の左手には、「東屋(あずまや)」と「雪隠」2箇所の跡があり生活臭を感じることができましたが、「雪隠」跡の説明では抜け穴になっているのでは?とのことで戦闘臭も感じられる場所でもありました。
二の丸跡内の「東屋」跡
二の丸跡内の「雪隠」跡
「本丸」の特徴として、特に珍しい所で言えば「表門」の前に三角形で飛び出た「鎬(しのぎ)馬出」が設けられていることです。小規模ではありますが、他に北海道の「五稜郭」くらいしか見ることができない代物です。
「鎬(しのぎ)馬出」、後ろには復元「六の平櫓」
「鎬(しのぎ)馬出」(表門から見る)
本丸跡全景(天守前から見下ろす)
復元「表門」の両脇には復元「五の平櫓」「六の平櫓」が建ち、各々が管理棟と資料展示棟として使用されています。「六の平櫓」から西側に「多門櫓」「七の平櫓」が建っていた形跡が残ります。そこから、「八の平櫓」跡まで復元土塀が建ちます。
復元「五の平櫓「と「天守」(重文)
復元「五の平櫓」
復元「五の平櫓」(現在 管理棟)と復元「表門」
復元「六の平櫓」(現在 資料館)
復元「六の平櫓」内部
「六の平櫓」跡碑と復元「土塀」
「七の平櫓」跡
復元「土塀」
「天守」に入る為には、この「八の平櫓」に石段で上り、「多門櫓」跡の上を渡って「天守」に現存で併設している「接続廊下」から「天守」中へ導かれます。
「八の平櫓」跡から「多聞櫓」跡(「接続廊下」から見る)
「八の平櫓」跡
入る前に、「本丸」跡のど真ん中に立ち「天守」を眺めたいと思います。
「天守」(重文、二重二階)
重要文化財に指定され、下見板張りに二重二階の「天守」は、現存天守では最も低く、1階は「出窓」の上に「大唐破風」を乗せ、「懸魚」は黒漆の「兎毛通(うのげどおし)」を付けます。2階の「連格子窓」も白色で美しいです。
「天守」と「接続廊下」(左の附属建造物、一体で重文)
正面から見ると左右に出張りが見られますが、左側の出張りは前述した「接続廊下」、右側は「天守」の一部で内部に「長囲炉裏」がある部屋です。そして北側に見られる出張りは「装束の間」がある部屋になっています。
「天守」(右側の出張り部分が「長囲炉裏がある部屋」)
「天守」(手前側の出張り部分が「装束の間」)
それでは、「天守」の中に入城します!
「繋ぎ廊下」にも「狭間」があり、階段を上がると「天守」1階です。外のサイズからすれば、一見中が広く見えるのは、前述の出張りの部屋があるからでしょうか。
「繋ぎ廊下(接続廊下)」(右が天守)
「繋ぎ廊下(接続廊下)」内の狭間
「繋ぎ廊下(接続廊下)」からの石落し
まず東側に出張っていた「長囲炉裏」は籠城戦に備えた時に使用できるように床に切っています。残存天守では唯一の遺構です。
「天守内」の「長囲炉裏」
次に北側に出張っていた「装束の間」は、一段高くなっていて、城主が戦いで最期を迎えた時に、この部屋で白装束に改め自害の準備を行う為のモノだったのでしょうね。
「天守内」の「装束の間」
1階の真ん中は「身舎(もや)」で周囲に「武者走り」が取巻きます。天井を見れば、太い梁が横たわり、天井四隅には「燧梁(ひうちばり)」という、建物の隅に縦に二本の柱に横梁を咬ましています。「丸亀城」の天守にも導入されていました。
「天守1階」の「身舎(もや)」
「天守1階」の「身舎(もや)」
「天守1階」の「武者走り」
「天守1階」の梁
「天守」隅の「燧梁(ひうちばり)」
2階に上がる階段は一気に上がるのではなく踊り場を設けています。そして2階に上がるとその正面には、「御社壇」といって十の神様を神棚に祀っています。
「天守2階」へ階段あがって突き当りに「御社壇」
「天守2階」の「御社壇」
「姫路城」の大天守の最上階にも、「刑部(おさかべ)大神」が鎮座していますが、「天守」そのものを神格化する手法は、「織田信長」の「安土城」天守最上階を仏や神々が住まう宗教的エリアとしたのに通じるような気がしました。
「天守」古写真(昭和3年の解体修理前)
古写真(昭和3年の六の平櫓)
次のブログでは、「天守」裏側に建つ重文「二重櫓」や他の曲輪、山麓にある「御根小屋」跡を見ていきます。
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