前回ブログの丸亀からJRで移動し、岡山駅でレンタカーに乗換え、「備中松山城」(岡山県高梁市)に到着しました。

 

事前にHPを調べていて、平日はレンタカーでそのまま「ふいご峠」まで行けてラッキーでした。しかも、その間の道路は狭く、各々の駐車場前で管理人の方が車が通行する間は一方通行にしてくれます。因みに、土日祝日は、「潮見櫓公園」の駐車場で車を置き、そこから「ふいご峠」までシャトルバスによるピストン運転とのことでした。

 

「ふいご峠」に到着したのは12時15分、前日に買っていた菓子パンを車内で食べて腹ごしらえをしてから「天守曲輪」に向けて登城しました。

 

杖が用意されていましたが、以前の記憶ではそんなに急坂でもなかったし、最近それ以上の、登山に近い山城巡りも体験しているので、杖なしで挑戦しました。

 

しかし当城は、「登城」の言葉に相応しく、標高430mの山頂に構える現存で重要文化財の「天守」を持つ「山城」です。

 

手前から大手門櫓台、三の丸石垣、厩曲輪の復元・現存土塀、右側は岩盤 

 

まずは、お城の歴史と城主に付いて触れておきます。

 

戦国時代以前には、「高橋家」が築城して「秋庭家」や「上野家」等が入城しましたが、戦国時代に入り、「毛利家」の傘下で「三村家」が整備を行いました。しかし、「三村元親」は「織田信長」方に寝返えりましたが、「小早川隆景」によって攻められ自害しました。

 

関ケ原の戦いの後は、幕府直轄地となり「小堀家」が城代として入り、麓に「御根小屋」が建てられました。1617年には「池田長幸」が入城したのを皮切りに、「水谷勝隆」が「天守」を建てて大修築が行われます。

 

しかし、「水谷家」は3代続くも嗣子なく廃絶となり、「赤穂城」の「浅野長矩」が城の受取りを行い家老であった「大石良雄」が城番となって滞在しました。

 

続いて、1695年から譜代大名の「安藤家」「石川家」を経て1744年に「板倉勝澄」が5万石で入封して、「板倉家」は幕末・維新まで統治を続けます。

 

戊辰戦争では、備中松山は朝敵と見られていましたが、藩執政で陽明学者「山田方谷(ほうこく)」の意見により無血開城を果たしました。この「山田方谷」は、家塾を1838年から開講していたそうで、その跡碑が麓に立っていました。

 

山田方谷の家塾跡地

 

「ふいご峠」からの上り道沿いには岩盤があちらこちらで見かけられ、途中で「中太鼓櫓」台跡があります。そこからは高梁川に沿った城下が良く見下ろせます。「ふいご峠」と藩政を執り行う御殿が建ち並んでいた麓の「御根小屋」の間には「下太鼓櫓」跡台もあるそうですが今回は時間的にパスしました。

 

中太鼓櫓台

中太鼓櫓台からのぞむ高梁市街

 

「中太鼓櫓」台から息を切らせて上がると、そそり立った岩盤が目の前に覆いかぶさるように迫ってくる「大手門」跡に辿り着きます。

 

大手門櫓台、三の丸石垣、岩盤

 

「大手門」跡付近から右手を見上げた所には、折り重なるように「三の丸跡石垣」「厩曲輪石垣」「二の丸跡石垣」が目に入ってきます。特に、最上段にある「二の丸石垣」の上には、現存で重要文化財の「土塀」と復元の「土塀」が共存して何の違和感もありません。

 

三の丸跡石垣、厩曲輪石垣と土塀、二の丸跡石垣

岩盤の上に見える厩郭の土塀(左が復元、右が現存)

 

この見上げるシーンこそが、4年前のNHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像として使用されていたアングルです。

 

NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像のアングル

 

「大手門」跡の両脇には櫓門だった時の櫓台があり、その正面が「番所」跡になっています。

 

大手門櫓台と番所跡

大手門枡形と番所跡

 

左手に折れると「二の平櫓」跡がありますが、「備中松山城」には、「天守」とその後背にある「二重櫓」だけが二重で、その後の全ての櫓が平櫓で「十の平櫓」まであったようです。

 

二の平櫓跡

 

「二の平櫓」跡から、緩やかな石段が右斜めに延びていきますが、石段の歩幅や高さが違います。また、その階段左側沿いには、白壁の「土塀」が「三の丸」跡まで続きます。現存で重要文化時の「土塀」が前後の復元「土塀」にサンドイッチされて繋がっていますが全く違和感なく建っています。

 

復元-現存(重文)-復元の上り土塀

復元-現存(重文)-復元の下り土塀

 

ここから右手に「三の丸」跡、一段上の石垣には「厩曲輪」跡が配置されています。「三の丸」跡の入口前にあったのが「三の平櫓」と「路地口門」で、その跡が見られます。

 

三の平櫓跡

 

「三の丸」跡には、「足軽番所」と「上番所」が置かれた曲輪で、現在は礎石らしき石が並んでいます。

 

路地口門跡から三の丸跡をのぞむ

三の丸跡内の足軽番所跡

三の丸跡内の上番所跡

 

「厩曲輪」跡は、「二の丸」跡の石垣が上段から迫ってくる曲輪で細長く形成されていますが、その北端で岩盤の上にも奥側に現存で重要文化財の「土塀」と手前に復元の「土塀」が建ちます。「厩曲輪」跡から見下ろす眺めは、下から見上げた時の雄大さとは逆に、少々身を引くような怖い感じを受けました。

 

厩郭内の土塀(奥が重文、手前が復元)

厩郭跡から大手門跡を見下ろす

厩郭跡から二の丸跡石垣を見る

 

「厩門」跡を出た所すぐに「黒門」跡と並んで「四の平櫓」跡があります。鏡石が正面に嵌め込まれた「黒門」跡からは、左にトイレが置かれている「御膳棚」跡を見ながら真っすぐ石段を上り切った所に「鉄門」跡があります。

 

四の平櫓跡

黒門跡

黒門内の鏡石

御膳棚跡

 

「鉄門」は、「二の丸」跡の正面入り口で、「櫓門」であったのか左側には大きな櫓台が、そして門の礎石も残っています。ここからは、「本丸」跡の中にある「天守」を取り巻く復元の櫓群と門が一体となって見える絶好のスポットとなっています。

 

鉄門跡石段(この上が二の丸跡)

鉄門跡の礎石と鏡石

鉄門跡

 

「鉄門」を抜けると「本丸」跡に建つ城郭建造物群が良く見える「二の丸」跡となりますが、次回のブログに続でご紹介します。

 

 

 

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