前回のブログで紹介しました堀家の「椎谷(しいや)陣屋」は、藩主(城主)が定府大名でしたが、「椎谷」の地に藩邸を建てました。

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12476984455.html

 

その「椎谷藩」の采地(さいち)陣屋として、長野県に「六川陣屋」(長野県上高井郡小布施)を置きました。この経緯は、1786年に「椎谷」で農民一揆が勃発して幕府の裁定が入った結果、1万石の半分5,000石分の所領が半地替えの処分が下されて、「椎谷」の知行地半分を飛地である「六川」に交換させられました。

 

采地陣屋とは、知行地から上がってくる米等の収入を管理する「陣屋」ですが、収入管理の他には、その地の行政や警察、裁判等も担っていたようです。幕府の天領でいえば、「代官所」のような役割を担っていたようです。

 

1万石クラスの譜代大名は、村単位でいくつかの村を寄せ集めた知行地や、飛地をひっくるめて知行地にすることが多かったようです。譜代大名が幕府の要職を務めてそこそこの業績を挙げたご褒美(加増)として、幕府が持つ所領の一部を切り取って知行地として与えることが多かったので、小大名の領地構成はパッチワークのようになっていたと思われます。

 

「六川陣屋」跡に掲出されていた「陣屋図」を見ますと、西側には「表御殿」「奥御殿」の地割と表示されています。これから建築する地割のことなのか既に建っていたのかは不明ですが、東側には、塀に囲われた中に、広間、居間、御用所、勝手、物置、女中部屋等が区画されている建物に白州を伴った区画があることから、この場所で取調べが行われていたことがわかります。塀沿いには、御蔵や長屋が貼りついていました。

陣屋図

 

現在、「陣屋」跡が住宅地、畑地になっていますが、その空き地に「高札場」が立ちます。これは、寛政年間の築だったモノが近年まで井戸の上屋に使用されていたので、昭和59年に「高札」に復元が行われました。

 

復元高札場

椎谷藩六川陣屋跡碑

陣屋跡付近

陣屋敷地全景

 

その他の遺構は、藩政時代に使用していた用水路の一部や石垣の一部が残っていたり、「陣屋内稲荷社」が現存しています。また、当時、「陣屋」の管理に携わっていたと思われる「寺島家の大庄屋宅」が、「六川陣屋」前の大きな敷地内に建っています。

 

陣屋石垣と用水堰

陣屋内稲荷社

六川大庄屋宅地(寺島家)

 

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