愛の星 地球の誕生を願って・・・ -10ページ目

愛の星 地球の誕生を願って・・・

~スピリチュアルな事や霊的真理、そして日頃の想いを綴る~

以前も日記に書いたのですが霊的真理に乗っ取れば食肉は

良い事ではありません。

しかし、私自身はベジタリアンか?と言ったらそうではありません。

人と外食に行けばやはり肉を食べる機会もありますし、それを無理に

「私は肉は好みません」

と言って断る事は簡単かもしれませんが、その場の空気などを考えると

やはり一緒に食し最後にはちゃんと感謝の意を込めて残留思念を昇華させるようにしています。

この日本ではベジタリアンを貫き通すのはとても大変ですし、それを

実行するのはいろんなリスクを背負いますので私はとても尊敬しています。


ただ最近、私自身思うことがあり、時と場合によってはそれも有りではないかとも思うようになりました。

例えば、私が無人島で暮らすことになったと考えた時。

野菜や果物を食べ尽くして「さあ~どうしよう」と言った時、

私は食肉の為に動物を殺さないという保証がないです(..;)

まだ、生きる事が出来るのにそれを放棄すると言うことは自殺に

値すると考えています。



例えば・・・

ある難病にかかっている人がいるとします。

その人が

「手術は不自然な事であるから例え手術して治るとしても私は断る」

という方がいるとしたらそれは生きる事を放棄した事だと思います。

手術しないで治るなら・・・しない事に越したことはありません。

実際に手術しないで奇跡的に助かるケースもありますから。

しかし、手術しか生き延びる手段が残されていないのなら、

手術するだけの費用がないならまだしも、それだけの資産があり、

生活にも余裕がある中でそれを拒絶するのは一つの執着であると思いますし、

それは単なる頑固になるでしょう。

残される家族が手術を望むのであれば手術をして延命する事は霊的真理で

見たとしてもきっと悪い事ではないと思います。



・・・ちょっと脱線してしまいましたので話を戻します。

さきほど食肉の為に動物を殺すかもしれないというのは生きる為の

手段がそれしか残されていないなら仕方ないと考えています。

問題なのは今のような飽食な時代で食べる物を自由に選択できる中で

わざわざ肉を選ぶのはどうかとは思っています。

なのでそろそろ人類もそのことに気づいても良い頃に入ったのでは

と思っています。


そこで一つ誤解があると思いますので書いておきます。

「生きる事が出来るのにそれを放棄するのは自殺」

と書きましたが霊界ではそれを自殺と見なさない事もあります。

それは人の為に投げ打った命です。

人を助ける為に投げ打った命は霊界では自殺とは見なされず、

逆に祝福の嵐らしいです。

人は基本的に愛を学ぶために生まれていますし、人の為に尽くす目的

もありますからそれはきっと輝かしい功績を残せた事になるのでしょう。

一番いけないのが我先に生き残るというその根性です。

「自分だけが生き残れば、他はどうでもいい」

という考えはとても利己的で亡くなった後にその魂はとても後悔の念にさらされます。

なので人の為にどうしようもなく投げ打った命はそれは生きる事を放棄した事ではありません。

〝命を繋いだ〟

という事です。

その人に命をバトンタッチしたのです。

ですので、その亡くなった命は救われた命の中で生きています。


そこでさきほども書いた食肉ですがこれも同じ事です。

〝命をいただいた〟という事なのです。

ですので食肉をする時は「私はその命を頂くだけの資格があるのか?」

と自分に問いかけ、貴重な命を感謝して頂く。

この手順は必要かと思われます。

命や食材に感謝せず、出されたから食べるというのは困りものですが、食肉の前にちゃんと

「この命、頂戴いたします。

私の中で血となり肉となり生かせていただきます。

ありがとうございます」


と人間の原点に立ち返り、命に感謝の念を抱いて食すなら私はまだ赦されると思っています。


で、ここで遅れましたが本題です。

この間、知り合いの人で家に侵入してきた虫をむやみに殺していました。

私は「出来るだけ殺さないで逃がしてあげなよ」と言うと、

その知り合いは

「この世は弱肉強食だから」

と言いました。

???です。

意味をはき違えてると思いました。

人間界ではちょっと間違った使い方をしていますが、本来は

野生の中の言葉で読んで字のごとく

「強い者が弱い者の肉を食す」

という意味です。

邪魔だから、目障りだからというだけで人は簡単に命を奪えるほど

偉い存在ではありません


武器を持ったせいで人間は動物の頂点に立ったと勘違いしているだけで、

格闘を心得ている人でない限り、人は素手ではライオンや熊にも勝てません。


・・・話が脱線しました

そんな訳で弱肉強食を大義名分にして殺すならちゃんと食す事です。

食さないなら殺さない事です。

殺すだけなら単なる〝殺虫〟になり、それは小さなカルマになります。

という訳で虫さんはなるべく逃がしてあげてくださいね(^_-)-☆


補足:今回はかなり難しい問題ですね。
霊的真理上では基本的にはどんな理由(食肉も)があろうと殺すことはいけない事ですし、それは罪になります。ただ私は良く考える事があります。
それは「自分の身に危険が迫った時は例外になるのかな?」と。
これは人の為に投げうる命とは違うと思います。
ですので抵抗しなければ殺されるという状況の場合は私は仕方ないと思っています。
正当防衛による攻撃は本人からしたら不本意な事ですし、
生きる為にいかしかたなかったという事もありますし、
そうでもしなければ殺されていたかもしれない場合の正当防衛は霊界に帰っても情状酌量の余地があるのではないか?と私自身は考えています。
無抵抗で殺されるという手もありますが、私はこれは生きる事を放棄してると捉えています。
ま~潔いっちゃ潔いんですがね
きっと無抵抗で殺された後、霊界に帰っても「良く耐えましたね」って褒められる事でしょうしね(^_^;
とは言って私も普通の人間ですので無抵抗で殺されるのはやはり癪ですよねσ(^◇^;)
ん~だけどとても難しい問題ですね。
これに関してはこれからも勉強していこうと思っています。
また自分なりに思う事や気づく事があったらまた書きたいと思っています。




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前回は陰と陽のお話をしました。

今回も同じように陰と陽のお話です。

前回書いたように人の心には必ずと言って良いほど

陰の部分と陽の部分があります。

つまり光と影です。

今風に分かりやすく言うなら長所と短所が良いでしょう。

誰でもみんな長所と短所は持っていますね。

長所だけの人、短所だけの人はま~ほぼいないでしょう(笑)

自分には長所なんてない、自分には短所が見当たらない

という方、自分が気付いてないだけであってちゃんともれなくありますよ(笑)

で、何が言いたいのかといいますとそれら長所も短所も含めて自分自身という事

なんです。

だから自分の短所が嫌いだからと言って自分自身を責める事は決してしないで

欲しいのです。

それは一つの個性だからそんな自分自身を認めてあげて欲しいのです。

そして自分を受け入れてください。

そうする事で自分自身を真に愛する事が出来るでしょう。

ありのままの自分自身を愛してあげてください。

貴方は今の貴方で十分魅力的な事に気がついてください。


もしどうしても自分の短所が好きになれないのなら、

その短所を変える努力はしてますか?

努力なくして自分自身を責めてはいけません。

短所は努力して変えられるほど簡単ではないかもしれません。

しかし、努力することに意味があるのです。

そして結果、短所が変えられなかったとしてもその努力した

自分を褒め称えてあげましょう。

そしてそんな努力をした自分を愛してあげてください。


自分のことが嫌いな貴方。

もう今日から卒業しましょうね。

自分の事が大好き人間になってください。


なぜなら人は一人残らず愛されて当然な存在だからです。

そう皆様は一人残らずもれなく神様から愛された存在です。


「そうは言っても私なんか誰からも愛されてなんかないわ」という

方もいらっしゃるでしょう。

だとしたら尚更、自分自身を愛してあげてください。

もし(そんな事はないですが  )誰からも愛されていないと

したら自分くらい自分を愛してあげても良いじゃない。

自分くらいは自分を愛してあげましょうね


最後に・・・

自分を愛し、そして自分を解放してあげましょう




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この世の中は陰と陽の絶妙なバランスの中で成り立っています。

それと同様に人々の心には陰と陽、光と影の両面が存在します。

つまり結論を言うと、

完全な善人というのは存在しなくそれと同様に

完全な悪人も存在しないという事になります。

つまり犯罪を犯してしまう人の心にも大小はありますが、必ず光の部分

も兼ね備えているんです。

それと反対に善人と呼ばれる人の中にもやはり闇の部分が存在します。

だから普段はあんな良い人だったのに突発的に犯罪を犯してしまう

ケースもあります。

犯罪を犯して初めて自分が何をやったのか気付きぞっとします。

なぜこんな事をしてしまったのか自分でもわからないと思われる方も

いると思います。(この場合、未浄化な霊に憑依されたケースもあります)

ですからどんな悪人であろうと善人になる可能性があり、

どんな善人であろうと悪人になる可能性があるのです。

ですので私が言いたいのはそういう人を裁かないという事です。

例え悪行を働いてしまった人でもきっと魔がさしたのでしょう。

誰でもどんな人でも可能性はゼロではありません。

だからどんな凶悪犯罪を犯した悪人さえも裁いてはなりません。

本来、人は人を裁くことはできません。

であるからして死刑などは本来もっての他なのです。

どんな人でも赦す愛。

これがこれからの世の中に求められる心です。

寛容になりましょう。

寛大になりましょう。

心から赦せる人になりましょう。


ですがこれは強制ではありません。

まずは内観し貴方の中の正義とは何か?悪とは何か?

を自問自答してみてください。

そして自分自身が納得されたならその自分が信じる道を歩んでいってください。


ちょっと難しい事を書いてしまいましたが結局はそこに

“愛”があるのか?

ただそれだけに基準を置いてみると分かりやすいと思います。





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