ミート・ローフがお亡くなりになりました。享年74歳

 

1977年のアルバム『地獄のロック・ライダー(Bat Out Of Hell)』はジム・スタインマンが作詞・作曲、トッド・ラングレンがプロデュースを手がけ全世界で4300万枚の売上。2007年『地獄のロック・ライダー(30周年記念盤)』を僕が担当した時に、日本の初代ディレクターだった、村上太一さんに寄稿していただいた文章がありましたので、ここに掲載してみます。

 

太一さんには公私ともに本当にお世話になり、ソニー洋楽ディレクターの大先輩としてもいろいろ教えていただきました。スプリングスティーンでもこんな想い出も。残念ながらお亡くなりになられて、だいぶ月日が経ちますが、。。。その太一さんの初のディレクター担当がミート・ローフだったんです。そして、僕が30周年記念盤を出すことになって、その時に書いていただいたのが下記の文章です。

 

今となっては貴重な記録と思いますので、もしよろしければ!

 

●『地獄のロック・ライダー(30周年記念Special Edition)』ライナーノーツより

 

今や世界一のロングセラー・アルバムともいわれるミート・ローフのデビュー・アルバムからまもなく30年が過ぎようとしている。そしてここに復刻版が企画され、それを皆さんが手にしているわけだけだが、そこにこうして駄文を寄稿できたというのも個人的には非常に感慨深い。何故なら、このアルバムは僕のキャリアにとっても一つのエポックになった記念のアルバムだから。以下、非常に私的なできごとを書き連ねることをお許し戴きたい。

 

1978年1月、僕はCBSソニー(当時)の営業部名古屋営業所に勤務していた。職種はセールス、レコード店を廻って自社の商品を売るという仕事。ところが定例の人事異動で突然東京の企画制作1部勤務を命ぜられる。この部署は洋楽の企画制作セクションで、僕の新しい職種は洋楽ディレクターということになった。無論ディレクターの何たるかも全くわからないド素人であった。そんな時東京の洋楽セクションから最初の指令が届く。曰く「自分が担当したいアーティストを5組と担当したくないアーティストを5組選んでリポートせよ」というもの。

 

当時の名古屋営業所にはディレクター経験もある大先輩の0さんがいて、0さんもその異動でディレクター復帰が決まっていたので、どうしたものか相談したところ「新人ディレクターなんだから、新人アーティストを担当した方が面白いぞ。ただ、一つぐらいは本当にやりたいものを言っといた方がいいけど」といわれ、その5組の中に本当にやりたかった大好きなジェフ・ベックの名前と、ミート・ローフの名前を書き込んだ。

 

何故ミート・ローフを選んだかといえば、ちょうどその時アメリカでデビューしたばかりで、ビルボード誌にド派手な1ページのカラー広告が載っており、その独特のジャケットに魅せられていたからだ。その時わかっていたのはトッド・ラングレンがプロデュースということと、やたら巨漢なアーティストだということぐらい。まぁ、新人のディレクターのトレイニーとしてはいいだろうということだったのか、あっさりと僕の希望が通り、ミート・ローフの担当に任命された。

 

●「地獄のロック・ライダー /Bat Out of Hell」

 

そして担当になってまだまもない頃に発売を決定する会議が開かれる。そこで諸先輩を前にはじめてのプレゼン。と、そこにニューヨークから一本の国際電話。海外派遣されている大先輩からでミート・ローフがどれほど素晴らしい才能の持ち主か、アメリカ中がいかに期待しているか、超ド級の新人であるかの報告がもたらされた。右も左もわからない僕はプレッシャーなど感じる余裕もなく、たまたま担当になったアーティストが有望新人であることがわかってかえって嬉しかったぐらいだ。ところがその会議が終わって役員用のトイレで用を足していた時、隣に当時の部長であるKさんが来て「有望な新人アーティストを君のような素人が担当して、潰してしまったらどう責任をとるんだ」といわれ、ようやくことの重大さに気付く。この“脅し”は僕の直属の上司であったTさんも同様に受けており、この日から僕にとっての“虎の穴”が始まった。

 

ゆっくりいろいろ覚えて、といった悠長なことを言っていられなくなり、ディレクターとしての基礎知識やノウハウの詰め込み教育が始まったわけ。「まずはおまえがミート・ローフのここが好きと思うところを100コぐらい考えて、それをいろいろな人に伝える方法を探れ」ということで、自分なりにポイントを考えるのだが、いくらなんでも100はない。それを絞り出している最中にも出稿の締め切りは迫ってくるわけで、今度は邦題付けをしなければということになる。

 

当時営業関係の窓口的役割だったKさん(この人は人生そのものがロックな感じで、様々なアドバイスをもらったが残念ながら今は亡い)に邦題のアイディアをぶつけていく。何度も何度もダメ出しを食らう。曰く「バカヤロー!邦題ってのはただ日本語にすればいいってもんじゃねぇんだ。タイトルそのものがキャッチコピーになってなきゃなんないし、アルバム全体のイメージが膨れるもんじゃないとだめなのよ」・・・で、やっとつけた邦題が『地獄のロック・ライダー』だったわけ。

 

●「ユー・トゥック・ザ・ワーズ /You Took the Words Right Out of My Mouth (Hot Summer Night)」

 

日本盤の制作も終わると、今度はプロモーション活動ということになるが、マーケティングもへったくれもなく、ただただ夢中でいろいろな人にやっと絞り出した100のポイントを説明して歩くわけだが、100まで伝えられたことは一度もない。いいとこ10ぐらいで時間切れか、愛想を尽かされる。

 

そこで5つぐらいに絞ってやり始める。トッドのプロデュースであること、スプリングスティーンのバックを固めるEストリート・バンドが参加、ロッキー・ホラー・ショーなどで実績のある実力派がじっくりと見せてくれるパフォーマンスが凄いこと、共演しているエレン・フォーリー(ビデオではカーラ・デ・ヴィートという女性だった)が、今で言うところのエロかっこいいこと、そしてミート・ローフ自身がロック界一の巨漢であること。

 

ところがミュージック・ライフ誌では“可愛くない”と一蹴。専門各誌も“興味なし”“自誌に合わない”など、取り上げてくれない。FM誌に至っては「FMでかかるの?」といわれ、「知りません」と答えるとあきれられる始末。そこで矛先を変えてまずラジオでかけてもらおうと、同期入社でラジオ・プロモ担当だったM君に相談すると、「10分もある曲がラジオでかかると思ってんの?」と、これまた一蹴。何枚かのサンプル盤を手に一人でFM東京に出かけても、ジャケットを見ただけで“FM向きじゃないんじゃない”と丁重に断られる。

 

●「ロックンロール・パラダイス / Paradise by the Dashboard Light」

 

実は当時20分に及ぶパフォーマンスの映像があり、これがミート・ローフの魅力を如実に伝える武器だったのだが、78年はまだMTV時代前で、ビデオの使い道がわからない。文字通り途方に暮れる毎日で、始めてとれたパブリシティは、東スポだったか東京中日スポだったか忘れたが、「世界一のデブ・ロック登場、その名もミート・ローフ、重量300キロ」という、音楽とは全く関係ないお笑いネタだった。

 

始めてテレビ電波に乗ったのは、深夜番組のBGMだったし、なかなか思うように良さが伝えられないなぁと思っている内に、アメリカでシングル盤「66%の誘惑(Two Out Of Three Ain't Bad)」がチャートをグイグイ上昇し始める。折よくその頃はCBSソニー楽曲でビルボード・チャートHOT 100に入っているものを集めて業界向けのコンピレーションを毎月作っていて、それも新人ディレクターである僕の役目だったので、ミート・ローフの紹介コメントを熱く書くことで相手にされないウサを晴らしていたが、チャートもTOP40に突入した辺りから、徐々に問い合わせも入り始める。プロモの結果ではなく自然にオンエアされるケースも出始めて、遂にはNHKの千葉放送局や信越放送の番組に出演してミート・ローフについてしゃべる機会を与えられるようにもなってくる。

 

●「66%の誘惑 /Two Out of Three Ain't Bad」

 

 

しかし、そんなことでレコードが売れるほど甘いもんじゃなく、僕のディレクター・デビュー作は苦い経験と悔しい想い出を残して終わりを告げた。海の向こうではロングセラー化が始まっていたので、あきらめずにずっと押し続ければ、という思いもあったが、CBSソニーから分離独立するかたちでエピック・ソニーが誕生、エピック・レーベルだったミート・ローフは当然エピック・ソニーの所属になり、僕はといえばCBSソニーに残ったから担当から外れ、僕とミートローフの短いつきあいにも幕が下りたのだった。

 

あれから四半世紀、時々引っ張り出してはこのアルバムを聴くが、今でも甘酸っぱい想い出が甦ってくるし、僕の未熟のせいで日本の多くのロック・ファンがミート・ローフの魅力を知らないまま70年代末を過ごしたかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。幸い、僕の行動とは全く関係ないところでいいものは認められるということなんだろう、エピックに移ってから再発されたヴァージョンやCDになってから再発されたものなど、今までの累計は10万を越えているという。ちょうど『地獄のロックライダー』もパート3を迎える新作もリリースされた2007年、ミート・ローフが再評価されることになればいくらか僕の“罪”も軽減されるかも、と都合よく考えている。失礼。

(村上太一)

 

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史上最も売れたアルバムのひとつとして知られる名盤『Bat Out of Hell(地獄のロック・ライダー)』(1977年)のストリーミング・リンクはこちら https://SonyMusicJapan.lnk.to/BatOutOfHellTW