すごいぜっ!為朝さん!その一 | ひげブログ

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源為朝(みなもとのためとも)


いよいよ国頭編に突入する沖縄紀行ですが、暫し連載を休みまして、琉球を

語る時に必ず名前の出る源為朝について少し語りたいと思います。


源為朝はその名の通り、源氏の武将で、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、日本の

エース級ヒーロー、源義経叔父さんに当たる人物です。

彼は二人の甥っ子と比べれば、日本史に大きな影響を与えるようなことは

何一つやっていません。当然教科書にも本文中にその名を目にすることは

ありません。

なのに源為朝と言う名は意外なほど知名度があります。

特に近代医学が発達する明治時代あたりまでは、おそらく知らぬ者はいな

かったと言っても過言ではないくらいに広く知られていたはずです。


一体何がそこまで彼の名を、歴史の大筋とは関連なく世に知らしめたのか?

それは、皇位継承をめぐって起こった天皇家のお家騒動、「保元の乱」

於いて、彼がモンスター級の凄まじい戦いぶりを見せたことに尽きます。

そして乱を中心とした彼の前後の人生がこれまた半端じゃない、まさに

「すごいぜっ!」

と、感嘆せずにはいられないものであったことが、後世の人々に彼の名を

忘れさせなかったのでしょう。


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源為朝は六条判官源為義の八男として生まれました。

生来どはずれな乱暴者で、処々で狼藉の限りを尽くすあまり、13歳の

時に父為義から勘当され、九州に追い出されてしまいます。

しかし彼は反省するどころか「鎮西総追捕使」と自称して、九州各地で

暴れ回り、豪族たちと合戦を繰り返し、なんと三年のうちに九州を平定

してしまうのです。

まるで孫悟空のようですな!


朝廷は驚いて彼に対し召還命令を出しますが、聞く耳を持ちません。

そこで朝廷は父為義に責任を負わせ、為義の職を解いてしまいます。

これを聞いてようやく為朝は京に帰参しました。

意外と親孝行です。

この時彼は九州の強者28騎を従えて京に入り、それが京の人々の

評判を呼び、"鎮西八郎"と呼ばれるようになるんです。


そして程なく、保元の乱が勃発します。

崇徳上皇方に勧誘された父為義に従って為朝は九州の強者達を引き連れ、

崇徳上皇の元にはせ参じます。

一方、長兄の源義朝(即ち頼朝、義経のお父さん)は東国武士を引き連れ

て、後白河天皇方に味方しました。

源氏の親子、兄弟が敵味方に分かれてしまったというわけです。


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作戦会議の場で為朝は夜襲を提案します。

九州でさんざん戦をしてきたが、夜襲に勝る戦法は無いと。

しかしこの策は乱暴だと言って退けられてしまいます。

彼は兄義朝は必ず夜襲を仕掛けてくるに違いないと悔しがりました。

果たしてその頃、天皇方の兄、源義朝は夜襲を献策し、それが認可されて

いたのです。


やがて崇徳上皇方の籠もる白川北殿に天皇方の軍勢が夜襲を仕掛けてきま

した。

是非もありません。為朝は三尺五寸の太刀を下げ、五人張りの強弓を持って

西門の防御に向かいました。

そこに攻めかかって来たのは平清盛の軍勢でした。


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源為朝の最大の得意は、その強弓でした。

弓の強度は五人張り(つまり弓に弦を張るのに五人がかりで曲げないと張れ

ない強さ)、矢の長さは十五束(一束は握りこぶし一つ分、通常は十二束)。

この弓で攻めかかる平家の武者どもをバッタバッタと射抜いていきます。


清盛の郎党、伊藤忠清、忠直兄弟が名乗りを上げて近づいてきた途端、

為朝の強弓は唸りを挙げて忠直の体を串刺しにし、後ろにいた忠清の鎧の

袖に突き刺さった
と言います。

それを聞いた平清盛は、すっかりビビッて西門を攻めるのをやめて北門へ

移動してしまいました。

清盛の嫡男、平重盛は悔しがって、再度いどみかかろうとしましたが、

清盛があわてて止めました。

「アイツはキ××イだから関わるんじゃない!」


清盛の軍勢が退却した後、西門に攻めかかってきたのは、なんと、長兄の

源義朝でした。


…おっと、ちょうどぉ時間とぉ~なりましたぁ~♪

次回は保元の乱、兄弟対決編とその後についてお話します。


あ、そうそう、ちなみにこの保元の乱の時の為朝の年齢ですが、

18歳です。



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18歳です。


ぢゃっ、そーゆーことでっ!(`・ω・´)ゞ