原典に観る般若心経18(Ⅱー24) | 仮説・彼岸世界

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彼岸世界への神秘体験について書かれたブログ

サンスクリット原文には、「シャーリープトラよ」という呼びかけの言葉が入っているが、漢訳では、省略されている。

又、サンスクリット原文には、無無明(ナ・アヴィドゥヤー)の前に、無明(ナ  ヴィドゥヤー)、無無明尽(ナ・アヴィドゥヤー・クシャヨー)の前に、無明尽(ナ ヴィドゥヤー・クシャヨー)と漢訳されるべき語句が挿入されているが、これも何故か省略されている。


是故空中空中に相当するサンスクリット原文は、「シューンニャターヤーム」となっていて、長澤氏は「空性においては」と訳され、中村・紀野氏は「実体がないという立場においては」と訳されている。


私は、サンスクリットについては全くの素人だが、この場合の「シューンニャターヤーム」、漢訳では「空中」は、後続の文章に「無」が連続することから、「諸世界」に対する「(サーバーとしての)彼岸世界そのものには」、或いは「(バックグラウンドである)彼岸世界そのものには」の意味だと解釈すべきではないかと思う。


そこで、この部分についての私の原文解釈は、次のようになる。


《それゆえに、シャーリープトラよ、(バックグラウンドである)彼岸世界そのものには、色受想行識の五蘊全てが無い、眼耳鼻舌身意や色声香味触法も全て無く、眼界から意識界に至る十八界全てが無い。

明も無く、無明も無く、明が滅することも無く、無明が滅することも無い、老いることも無く死ぬことも無く、老いることや死ぬことが滅することも無い、十二因縁全てが無く、又、十二因縁全てが滅することも無い。

苦集滅道の四諦も無く、何かを知ることも無く、何かを得ることも無い。》


要するに、インターネット世界の「各サイト」に対する「サーバー」、宇宙の「恒星や惑星」に対する「宇宙空間」のように、「諸世界」のバックグラウンドである「彼岸世界そのもの」には、何も無いと言っているのである。

何も無いから滅することも無い。


前述したように、漢訳般若心経では、サンスクリット原文にある無明・無明尽と翻訳されるべき語句が、何故か省略されている。

何故省略されたのだろうか?


仏教の基本的な教えである十二因縁は、無明から始まって老死に終わる。

これらの諸因縁は、此岸世界における我々人類の一生を、誕生から死に至る各ステージごとに分類して著述したものに他ならない。


明(ヴィドゥヤー)は、無明(アヴィドゥヤー)に対する言葉で、悟った状態にあることを意味している、と私は解釈している。

此岸世界(=この世、娑婆世界)における人生では、人は、ほぼ悟ることなく老死を迎えてしまう。

だから、十二因縁には、明(ヴィドゥヤー)は入っていない。

明(ヴィドゥヤー)は、厳しい仏道修行の結果、獲得すべき目標であった。


しかし、一旦眼を彼岸世界に転じてみると、そこには、明(ヴィドゥヤー)を体得した人達(?)だけで構成される世界がある。

それが、西方極楽世界や東方浄瑠璃世界に代表される仏国土である。


サンスクリット原文では、(バックグラウンドである)彼岸世界そのものには、そういう仏国土に存在する明(ヴィドゥヤー)も無く、従って、明が滅することも無い(ナヴィドゥヤー・クシャヨー )、と言っている。