原典に観る般若心経19(Ⅱー25) | 仮説・彼岸世界

仮説・彼岸世界

彼岸世界への神秘体験について書かれたブログ

サンスクリット原文の読み(梵文和訳ノートから引用)

タスマードゥ アプラープティトゥヴァードゥ ボーディサットゥヴァーナーム プラジュニャー・パーラミターム アーシュリトゥヤ ヴィハラティ アチッタ・ヴァラナハ チッタ・ヴァラナ・ナースティトゥヴァードゥ アトゥラストー ヴィパルヤーサーティ・クラーントー ニシュタ・ニルヴァーナハ


玄奘三蔵訳

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃


鳩摩羅什訳

以無所得故菩薩依般若波羅蜜故心無罣礙無罣礙故無有恐怖

離一切顛倒夢想苦悩。究竟涅槃。


中村・紀野訳

それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平和に入っているのである


長澤訳

このように、得ることもないことからして、諸菩薩の般若波羅蜜多に依って(心の覆いを)取り去り、心の覆いのないもの(無罣礙)となる。心の覆いがないこと(無罣礙)からして、恐怖のないものとなり、逆さまの考え(顛倒)を超越したものとなり、寂静の境地(涅槃)に導かれたものとなるのである


この文章では、菩提薩埵 依般若波羅蜜多故をどう訳すかがポイントになる。

玄奘訳では、上記のように菩提薩埵依般若波羅蜜多故が離れて書かれているために、両現代語訳では、主語と述語の関係のように訳されているが、ここは、鳩摩羅什訳のように、くっつけて(菩薩依般若波羅蜜故)同格の関係にある言葉として解釈した方が、意味がより鮮明になる。


この部分に対する私の原文解釈は、次のようになる。


《このように、(彼岸世界そのものからは)何かを得る(=何かに影響される)ということが無いことから、瞑想による到彼岸行を成就(達成)した菩薩は、心に何の迷いも無くクリヤーになり、迷いが無いことから、恐怖も無くなり、一切の迷妄の闇が滅し尽くされて、寂静の境地(涅槃)に導かれる。》