今日は2月3日、節分である。
我が家では豆まきはしない。過去に豆まきをしてから苦難があったから。
我が家では恵方巻も食べない。鬼門の金神が・・・以下略
というのは宇祖で、自然にそうなったのである。
さて、節分ということで、何か書かねばと思ったら、過去の記事が目に入った。
節分の神示 2015-02-03
その中で、とある神示が目に留まった。
春の巻 第3帖(660)
掛巻も、畏き極み、九二つ千の、清(スガ)の中なる大清み、清みし中の、清らなる、清き真中の、よろこびの、其の真中なる、御光の、そが御力ぞ、綾によし、十九立(トコタチ)まし、大九二の十九立(オオクニのトコタチ)大神、十四九百ヌ(トヨクモヌ)、十四(トヨ)の大神、瀬織津の、ヒメの大神、速秋の、秋津ヒメ神、伊吹戸の、主の大神、速々の、佐須良ヒメ神、これやこの、太日月 (オオヒツキ)、皇神(スメカミ)の御前畏こみ、謹みて、うなね突貫き、白さまく、ことのマコト(真言)を。伊行く水、流れ流れて、月速み、いつの程にや、この年の、冬も呉竹、一と夜(ヨサ)の、梓(アズサ)の弓の、今とはや、明けなむ春の、立ちそめし、真玉新玉、よろこびの、神の稜威(ミイヅ)に、つらつらや、思ひ浮べば、天地(アメツチ)の、始めの時に、大御祖神(オオミオヤ)、九二十九立(クニトコタチ)の、大神伊、三千年、またも三千年の、もまた三千年、浮きに瀬に、忍び堪えまし、波風の、その荒々し、渡津海(ワタツミ)の、塩の八百路の、八汐路の、汐の八穂合ひ、洗はれし、孤島の中の、籠らひし、籠り玉ひて、畏くも、この世かまひし、大神の、時めぐり来て、一筋の、光の御代と、出でませし、めでたき日にぞ、今日の日は、御前畏こみ、御饌御酒(ミケミキ)を、ささげまつりて、海山野(ウミヤマヌ)、種々(クサグサ)珍(ウズ)の、みつぎもの、供へまつりて、かごぢもの、ひざ折り伏せて、大まつり、まつり仕へむ、まつらまく。生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯しけむ、罪やけがれの、あらむをば、祓戸にます、祓戸の、大神達と相共に、ことはかりまし、神直日、大直日にぞ、見伊直し、聞き直しまし、祓ひまし、清め玉ひて、清々(スガスガ)し、清(スガ)の御民(ミタミ)と、きこし召し、相(アイ)諾(ウズナ)ひて、玉へかし、玉はれかしと、多米津(タメツ)もの、百取(モモトリ)、さらに、百取の、机の代(シロ)に、足らはして、横山の如、波の如、伊盛、栄ゆる、大神の、神の御前に、まつらまく、こひのみまつる、畏こみて、まつらく白す、弥つぎつぎに。
新玉(アラタマ)の 玉の御年(ミトシ)の 明けそめて 罪もけがれも 今はあらじな
節分の祝詞であるぞ。太のりとせよ。いよいよの年立ちそめたぞ。うれしうれしの御代来るぞ。
(一月の三十日、日月神。)
今の私の気分が、この 節分の祝詞 にぴったりなのである。
まさに、時節到来せり、という感じなのである。
この神示の日付が 一月の三十日
前回の記事 ぶらタモリが足利と渡良瀬を繋げる渡世 2023-02-01 で書いた
30日午後3時半ごろ、栃木県の渡良瀬遊水地で「下草が燃えている」と通行人から通報があった。
火は、1km以上にわたって燃え広がったが、およそ9時間後に消し止められた。
住宅などへの延焼はなく、けが人もいなかった。
この渡良瀬遊水地の下草火事の日付と一致しているのは導きだったか。
ブラタモリに導かれた 節分の祝詞 と感じます。
この春の巻の 第1帖(658) では
新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ。
とあります。
辰年といえば、2024年で、まだ先ではないかと思うでしょうが
私自身は、2012年の辰年で、全てがグレンと引っ繰り返り、さばきの庭に立ったのです。
それ以来、私は日月の民、ウシトラの臣民として心勇む日々でした。
私の体験が型となり、10年後、12年後に実地として現れる、と感じています。
10年前の2013年は、宇宙の渦巻きが歯車のように噛み合うというビジョンの型
12年前の2011年は、大震災で改心して、日月の民、ウシトラの臣民として活動開始。
世間、世界の実相は、建て替え建て壊しの真っ最中で毎日事件が起こっています。
この大峠は2024年までは続くと感じています。
そんな中でもこの神示を肚に入れていれば、心安らかでいられます。
大きな波に洗われて、皮を剥かれて剥きだしの本性露わに鳴り成る年。