2022年を真中にしたこの3年は、奥義の要 | マコトの道はひふみ神示

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ひふみ神示(日月神示)と出会い、これこそ自分の生きてきた道そのものだと強く感じ、自らの体験を通してひふみ神示を実証していこうという下級臣民の日記

今年は「どうする」の右左岐年。

 

昨日の「どうする家康」第2話は「兎と狼」 。

この先はネタバレを含むのでご注意!

 

 

 

「兎と狼」と言えば、過去記事

 

オオカミとウサギの物語  2020-01-02  を思い出します。

 

私は戌年生まれで、オオカミの眷属。

うちのカミさんは、松島の思い出2 2016-03-12 の中で

 

 カミさんはウサギの干支を持っている。
 神のいけにえ
 試しの御役
 大国主を助けたのもウサギ
 東日本大震災も卯年、試練の時

 

このように、ウサギの因縁を持っている。

 

オオカミがウサギに出会ったら、「食べてしまいたい」という欲望に突き動かされたとしても否定はできない。

 

3千年前のお釈迦様の譬え話、大神にその身を捧げたウサギの話。

オオカミに自ら食べられたウサギ。

私はカミさんの言葉を記事(食い物)にしている。

 

因幡の白兎も、身削ぎながら主人を助ける話ともとれる。

 

こんなことを書いていましたね。

 

オオカミに自ら食べられたウサギ。

 

この話は、自ら木の根にぶつかった兎の歌、待ちぼうけを思い出します。

大国主が助けた兎も実は食べられて大神の命を繋いだとか妄想が。

自ら火の中に飛び込んだ兎は、木花咲耶姫

火のカグツチに焼かれて死んだイザナミ

怒ったイザナギが火のカグツチを斬る

日の神神楽で鬼を斬る

ああ、妄想が暴走してしまうのでこの辺で。

 

 

 

それで、今回の家康が言った言葉。

 

「わしは寅の年、寅の日、寅の刻に生まれた武神の生まれ変わりじゃ! 」

 

これに興味を惹かれて家康の生まれの干支を調べてみました。

 

Wikipediaによると

 

徳川家康 天文(1542年)11年12月26日、岡崎城主松平広忠(松平清康の子)の嫡男として岡崎城において生まれる。生母は緒川城主水野忠政の娘・大子(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。

生誕  天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)

 

 

この ユリウス暦1543年1月31日 を西暦としてみた時の干支は

 

癸卯の年、 甲寅の月、壬寅の日の生まれ

 

でした。やっぱり兎の生まれだったんかい!

 

しかも今年の干支癸卯と同じ

まさに480年前の癸卯(きぼう)の年に生まれた因縁の者。

 

 

まあ、その宣言で虎に覚醒した、という展開にするのかな。

 

この話では、信長がオオカミ、竹千代(家康)が兎としているわけだ。

 

 

 

今日の本題はこれから。

 

 

ネットの掲示板で観た興味深い記事を引用します。

 

横の数字を足せば567=コロナ
上下の数字を足せば666
2023年でコロナ茶番は終わるだからコロナが5類扱いになる


2021年 5
2022年 6 
2023年 
7
6  66

 

これは面白いですね。

 

2021年は令和3年です。

 

2021年から2023年までの3年間は特別な年です。

 

2022年を真中にしたこの3年は、奥義の要、砂時計のくびれ

 

さらに、今年は兎の年、信長は竹千代を「白兎」と言った。

 

白兎は、八、九、十

 

全部揃ってるやん!

 

君は567から、八、九、十 にジャンプ出来るかぴょんぴょん

 

 

 

西暦1桁は、 1,2, ひふみ

年号では、 3,4, みよいず

西暦では、 5,6, みろく

 

さらに縦読みで、3,5,7

 

日蓮は、3年、5年、7年と言った。

 

神示では

 

冬の巻  補帖

 病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。悪くなると云ふことないのぢゃ。迷ひが迷ひ生むぞ。もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。この道理よくわきまえよ。毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。神について行くことが祈りであるぞ。よろこびであるぞ。食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。口から出るもの、入るもの気つけよ。いくさ起るのぢゃ。人間の病や、いくさばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのぢゃぞ。  一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。腹八分の二分はささげよ。食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。

  ささげるからこそ頂けるのぢゃ。頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。あづけられてゐるのであるぞ。人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。心配無用。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。理屈悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。

 

  理屈すてよ。すててやって見なされ。みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。病もなくなってうれしうれしとなるぞ。

三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。六月九日、ひつくの神。 以上