教育学という学問分野に対する疑問 | しがない教師の雑感

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入試というものに、悉く失敗してきた者が、自分と同じ思いをする若人を少しでも減らせたらという思いから教師が綴る奮闘記的な何か。時々、内なる何かの発露のような感じで哲学や宗教学の話題も…

 私は教育学部出身でもなければ、教育学に格別の興味があるわけではない。教員免許取得のために必修である「教職に関する科目」で教育学の「さわり」を学んだに過ぎない。そんな門外漢が口出しするものおこがましいかもしれないが、教育学関連の書籍を読むと、知的発見よりもむしろ疑問を感じることの方が多く、困惑や、時には怒りさえ覚えることがある。大学4年間で受けたdisciplineと畑が異なるからだと最初は思ったが、考察してみるともっと根本的なところで、教育学という学問分野に疑問を感じているのではないかと思い至った。

 自分が初等教育から中等教育を受けている時から疑問に感じていたことであるが、教育システムを作り、整備し、運用しているのは「大人」であるのに、何故それを受けている子供が批判されるのであろうか。わかりやすいのは「ゆとり教育」と呼ばれる教育を受けた世代と、その世代に対する(そのシステムを作り出した)「大人」によるゆとり世代批判である。「ゆとり教育」を受けた世代は好きでゆとり教育を受けたのではない。社会がその教育を「ゆとり世代」に強要したために甘受せねばならなかっただけではないか。批判されるべきは教育を受けた世代ではなく、その教育を強要した体制や社会である。更に言えば、「ゆとり世代」を批判する「大人」が本来は自省するべきではなかろうか。
 蛇足であるが、私自身は「ゆとり教育」と呼ばれる教育が悪いものだと思わない。この教育に対する批判は、カリキュラムの減少、指導内容の削減であるが、本来的には減少や削減そのものが目的ではなく、それまで単純な暗記で処理していたものを、思考により理解させることが目的ではなかったのか。「円周率を3で計算して良い」は、それを提案した人の空間図形に対する理解の無さのなせる業であり、擁護しようがないが、例えば、「台形の面積を求める公式」を削除したのは、三角形や平行四辺形を求める公式を応用すれば台形の面積は求められるからではなかったのか。暗記に重点を置く「詰め込み教育」を批判して、思考重視の「(カリキュラム)ゆとり教育」は、やり方さえ間違わなければ、批判されるような教育制度ではない。「ゆとり世代」に問題があるとすれば、それは、ゆとり教育を十分に活用できなかった教育者の問題である。あるいは、思考重視の教育を受けてきた人間と、詰め込み教育を受けてきた人間でものの見方が多少なりとも異なるのは当然であり、「年功序列制度」の下で、「ゆとり世代」の論理を自分たち世代の論理で封殺しようとする「大人」の理解の無さが批判されるべきではないだろうか。
 
 いささか辛辣な書き方になったが、ゆとり世代批判を批判するのがここでの本来の目的ではない。私が本当に批判したいのは、「ゆとり教育」を進めてきた教育関係者が手のひらを返すように、ゆとり教育を批判し、それについて何も反省していないことである。更には、教育制度を変える中で、その教育を受ける対象であるはずの子供が置き去りにされている点である。ゆとり教育の是非を問うならば、それを受けた世代からのフィードバックがあって然るべきであるし、カリキュラム改変のさなかにあった、教育を受けている真っただ中の子供たちからのフィードバックもあって然るべきである。にも関わらず、教育学系の、あるいは教員養成用のテキストには、(私が読んだ範囲では)そうした資料もデータも無い。教育を受ける世代が置き去りになっているの由々しき事態ではないだろうか。
 心理学や社会学で、研究対象を無視した研究はありえるだろうか。研究対象のフィードバックのない論文は存在するのだろうか。臨床的であれば、対象のデータ無しには研究分野が成立しえない。私の教育学に対する疑問や怒りはそこにある。対象不在で教育を語って、問題の本質を議論できるのだろうか。それは研究者や体制側の欺瞞ではないだろうか。「対象不在の学問」ほど恐ろしく、空虚なものはないと思うのだが。