教育学という学問分野に対する疑問(2) | しがない教師の雑感

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入試というものに、悉く失敗してきた者が、自分と同じ思いをする若人を少しでも減らせたらという思いから教師が綴る奮闘記的な何か。時々、内なる何かの発露のような感じで哲学や宗教学の話題も…

 対象不在の学問という意味で、現在の教育学の「気味悪さ」を語ったが、対象云々以前にそもそも方法論による規定がひどく曖昧な学問であるように感じられる。学問は「対象によって規定されるもの」と「方法論によって規定されるもの」の2つに大別できる。教育学は「教育を学問する」という意味では対象によって規定される学問分野であるが、先述のように、教育を受ける側への考慮を欠いた学問であり、理論と実践が乖離してしまっている。これは私見ではなく、教育学の教鞭をとっておられる先生方が講義のなかで必ずと言って良いほど言及されることである。「講義はあくまで理論であり、実際に現場に立つと、ここで学んだことがそのまま使えない」という旨の発言は教育学の講義でしばしば耳にする。理論と実践を近づけるのは困難であるが、実学に近いはずの教育学で理論と実践が乖離してしまっては本末転倒ではないか。一体教育学とは何なのであろうか。教育を学問すると言った場合、教育とは何かと哲学的に議論するものなのであろうか。より良い学校教育とは何かを議論するものだろうか。生涯教育の実践について議論するものなのだろうか。もちろん、いずれも含まれるのであろうが、「教育」という漠然とした対象を扱っているところに混乱が生じているように思われる。
 また方法論に関しても曖昧である。教育学に特有の方法論というものは存在しない。隣接諸学問分野の方法を借用しつつ、教育の現場で諸分野の理論を応用的に実践しているが、そもそも前提の考察がひどく脆いのではないだろうか。例えば、「人がより良く生きるための教育」を考察するとして、哲学であれば、まず「より良く生きる」の部分を問う。そこが解明できなければ、そのための教育など考察しようがない。しかし、教育学では「教育」を対象としているためか、あたかも「より良く生きる」という前提は自明であるかのように議論が進んでいく。土台が整っていない上にいかに荘厳な理論を打ち立てようと、所詮は砂上の楼閣に過ぎない。隣接諸学問分野の方法論を使用する学際的気質は今日に諸学問分野が抱える「学の閉塞状況」を考えると称賛されるべきであるが、対象も曖昧、方法論も基礎が不安定では、教育現場の抱える諸問題の本質をつけるのだろうか。本質的な議論ができず、対処療法しか提唱できないのでは、学問としての存在意義を問わねばならない。
 決して「教育学不要論」を唱えたいのではない。教育は社会を維持し発展させるためには不可欠であり、それを考える教育学はやはり同様に不可欠の学問分野である。教育の種類は問わず、人間は教育により社会的存在となる面が大きい。それほどに大事な学問であるから、私がこれまで触れてきたような教育学は糾弾され、改善されなければならない。近代教育学の基礎付けを行ったという意味で教育学の大家と呼ばれるのは、エラスムス、コメニウス、ルソー、ペスタロッチ、フレーベル、ヘルバルトあたりであろうか。贔屓目になるが、彼らは多かれ少なかれ哲学出身である。彼らには本質を見据えるdisciplineがあったと思う。彼らの理論や実践に対して木に竹をつないでいるようでは進歩とは言えない。彼らの業績を評価しつつも批判し、昇華させるような議論ができてこそ学問として価値が生まれると思う。