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個人的な読後の感想を勝手気ままに書いてます。

大渡海という辞書を編纂する、辞書編集部の話。仕事との向き合いはこうありたいと思わされる。かもしれない作品。


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舟を編む
三浦しおん 著
光文社

出版社の辞書編集部を舞台に物語は進行する。
辞書というものはこうも大変な作業を通して作られているのか、とつくづく思わされた。

そういえば、かくいう自分も小学校の中学年から高学年にかけて、
国語辞典が一番好きな本だった。
テレビの前に寝転びながら、新聞を読む。
気になる文字や不可解な言葉などがあると、それを辞書で引く。
テレビの下の棚に、岩波の国語辞典がいつもあった。
そうやって言葉を手繰る時間が好きだった。
1時間や2時間はあっという間に経ってしまったものだ。

大人になってからだって広辞苑を買う時はわくわくした。
三省堂書店に予約までしたものです。
前日は少し興奮して寝付きが悪かったのを思い出す。
そして今でも辞書を捲っているとなぜかときめきに似たような鼓動を感じる。
しかし、最近ではネットで調べものの大半が済んでしまう。
便利な世の中である。
しかし、言葉を手繰るのは辞書が一番良い。
言葉というものに厚みや歴史があるということを体感できる。

大渡海。
それが作中で作られる辞書の名前だ。
良い名前だと思う。
言葉の大海原を渡る舟。
その舟を編む、それが辞書の編集作業だってことなんだな。
うんうん。

この作品、間もなく映画となって公開される。
松田龍平と宮﨑あおい。
良いキャスティングだと思うがどうだろう。
そして、読書中、愛して止まなかった西岡はオダギリジョー。
楽しみに待たせて頂くとしよう。
しかし、松田龍平というのは良い役者だよなぁ。
この話はまたどこかで語りたいと思う。

とにかく、三浦しおんらしい登場人物の飄々として
それでいて人情味のある感じがなんともたまらないのである。
魅力的な辞書編集部のみなさんに拍手!
麻雀好きの作者が、麻雀についてみんなに知ってもらっちゃおうかなぁ、って思って書いたのかな、って本。

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ガッツン!
伊集院 静 著
双葉社

山口から上京してきた三流大学の学生、ユウト。
ボロボロの下宿先で金欠生活をしているが、麻雀と酒が大好き。
あとは、ジャズ。トランペットを吹くのはジャズが体に流れれているんだろう。
とにかく、天衣無縫な若者。
そして、下宿先の街、神楽坂でひょんなことから出会うことになるふたりが、
気っ風の良い江戸っ子のマチコと、秀才タイプのカズマ。

装丁から見てわかるように、
物語は麻雀に寄り添って展開していく。
作者の麻雀への愛情が深~く伝わってくる。
私も麻雀が大好きだ。
麻雀を知らない、昔の馴染みとユウトの会話でこんなやりとりがある。
「お金は賭けてるんか?」
「金を賭けんと面白くもないよ」
「金が目的なんかのう」
「それもあるけど金がすべてじゃないように思う」
「そうか、それなら少し安心した」
「どうして安心したんじゃ」
「金のやりとりだけじゃ、何のために遊んどうのかわからんようになる」
「えっ、どういうことじゃ?」
「金というのは人間がこしらえたもんじゃ。人間かこしらえたもんに人間があくせくしてしもうたら。そりゃ悲しいことじゃ」
どうでも良い、こんなやりとりに麻雀の魅力が込められているように思う。
とにかく麻雀は深いのだ。
小説としては、どう言ったら良いやらですが、
麻雀の魅力は十二分に語ってくれている作品です。
トルーマン・カポーティの冷血のオマージュなのか。上巻は、犯人や被害者の心象風景を中心に展開し、下巻は関係者の調書聴取といったものを中心に構成されている。


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冷血 上・下
高村薫 著
毎日新聞社 

犯人の2人の心象風景が描かれる。
被害に遭う家族の心象風景が描かれる。
対照的に。
犯人の心にあるのは、逃げる事の出来ない日常という名の檻に対する不満や憤り。
被害者家族にあるのは少し鬱陶しいものの満ち足りた毎日の幸せ。

犯人たちは、短絡的にATM強盗やコンビニ強盗を繰り返す。
目の前に何かが有る。だからそれに対して行動を起こして行く。
最初から目的なんかない。
流れ流れて殺人まで犯して行く。
きっとエリートな頭では理解不能な行動なんだろうな、と思う。
何かをするとそれには必ず結果が伴う。
その結果に対する責任が果たせるかどうか、一歩踏み出す時に必要な判断材料。
でも、このふたりにはそんな考えは無い。
何となくむしゃくしゃしていたから。
今の世界から一歩踏み越えるために。
だから、何かをする。
何か。何でも良かった。スカッとする何か。
それは何だ?
ATMやるぞ。
相手がATMでもやるぞ、というからそれに乗っただけ。
そんな稚拙な方法でうまくいくのか? 疑問に思っても、それを質す事に意味なんてない。
相手が盗むと言ったからやっただけ。
だから、なんだと言うんだ。
そもそもこの社会に何も求めちゃいなんだから。
虫歯が痛むと相手が言う。
じゃぁ、知ってる歯医者があるぜ。
歯医者か、じゃぁ狙っちゃう?
そう、相手が言ったから狙っただけ。

下巻は一転して、調書聴取を読み解く合田刑事の目線で物語は進む。
それでも、犯人の異常な心象に戸惑う刑事たちがそこにいる。
犯人の心の中を知るために、取り調べが行なわれる。
証人も呼ばれて行く。
しかし人とはなんと狭いフレームで生きているのか。
呼ばれる人間たちの狭さ。
果たして仮に自分がそうなった時に、幼少期、少年期、青年期、中年期と、
どれだけ語ってくれる人が存在するのだろうか。
犯人には限りなく絞られた人間しかおらず、そんな中でもまた、
供述の中に違った人間性を見ては悩むのであった。
しかし、供述の人間性に違いがあるのが当たり前なのだと思ったりもする。
仕事の自分、家族の前の自分、友人の前の自分、行きつけの店での自分。
きっと少しずつカタチを変えて存在しているはずだ。
多面性があるからこそ人には深み厚みが出るではないか。

しかし、なんとなく行なった犯行に意味付けをする作文に一体何の意味があるのだろうか。
それでも世の中は意味を欲する。
新聞、週刊誌、報道番組等等。
世の中とは分かり易さを求めるものだ。
司法がそれに迎合する必要は全くないのだが。
しかし確かに、人を、一家4人を殺害するにただ、なんとなく、
では裁きようが無いのも事実なのだろう。

兎にも角にも、読後に希望は感じられない。
理解や共感といったものもおそらくは無い。
辛うじてあるものは理解不能なものに対する畏れのようなものなのかもしれない。