「信じる」という行為は、すべて自分との契約であって相手や対象は関係ない。
今度こそ、と思って挑んだ対象が、
やっぱりイメージしていたものと違っていた。
とか、
そもそも、
そこまで信頼するに値しない。
とか、
ちょっとした相手の言動で、
なんだアイツは、やっぱ嫌い。
なんてことを繰り返していたら、
本来誰もが持ち得る「信じる」メカニズムが構築されない。
一度、
心に抱いたイメージは、
必ず崩され壊されその真意を試される。
それはもう、
何かを達成する際にシステム化された、
お決まりのパターンだ。
自らの「決意」に「疑念」を抱いたところから、
すべて始まる。
だから、
対象は関係ない。
そして、
一過性では成り立たない。
どんなに信頼に値する対象だろうと、
疑うヤツは疑う。
自分を、ね。
人生をやり直したかったら、
そこからが勝負だ。
「疑念」を抱き続ける自分を赦し、
そのたびに、
新たに信じ続けることを自分と契約するんだ。
対象が、
仕事だろうと、
人間関係だろうと、
勉強だろうと、
遊びだろうと、
関係ない。
大事なのは、
自分自身との契約だ。
結果が保証されていないことに挑むから、
明日の自分を信じられるようになる。
おそらく、
信念とは動的なプロセスなのだろう。
少し、
スカした立ち居地を取れば、
すぐにエセオリジナリティを確立できる時代だ。
だから、
チャンスだぜ、愚直に生きる。