日本舞踊家、西川祐子先生からのお言葉! | 色と祈りと歌うこと - Hidetake Yamakawa (山川英毅)

色と祈りと歌うこと - Hidetake Yamakawa (山川英毅)

自分自身の中に豊かにある深いものに触れて、元気や安らぎを得るのに「色と遊ぶこと」や「自分で歌う」ことが欠かせないない気がしています。
色・音の作品や「発声法」などについての気づきもシェアしていきます。

日本舞踊の西川祐子先生への私が先生の Web ページ上でお送りするかたちをとったお手紙(書簡)に、西川先生からの大変深いお返事の言葉 (同じページの下部に表示) を頂き感動しています!(

「伝統芸能に属する芸には、日常の生活様式を磨き上げた末に生じた型があります。型は誰でもが、体を用いて我々に身についた様々な共通概念を効率的に伝える方法、と考えます。~」

 

 

 

 

上記は「その踊り手の居住まい立ち姿、小さな所作だけでも、その技芸の伝統ある崇高な型が生まれた原初の衝動を直接伝え、さらにまた今、新たな地平を生み出していく。

 

西川祐子先生の舞台を拝見しながら私はそれを体験し続けています。」という私の書簡の言葉を踏まえた先生からのお返事の一部。。

先生の次のお言葉も本当に深く響いてきます!

 

「楽器の如くに、発声のために練り上げられた身体、これも型ですね。もともと持っている身体、しかしながら何かを表現するために自分自身の身体を観る目を養い訓練する長い年月、この積み重ねと苦心が表現者の心を鍛え楽器を奏でる意志となる…」

 

(私の楽器の写真はマニマニウムさんに撮っていただきました!@manimanium )

 

お手紙には字数の都合で書けなかったのだが、西川先生の型の中の所作、深みをより感じ取れるようになったのは、何と言っても原初舞踏の最上和子さんのワークショップや稽古を通じて開かれた身体体験によるところがこの特に一年間の圧倒的な背景にある。最上さんの稽古で、小さな盆踊りのような簡単な所作(簡易な「型」?!)を繰り返すことでとても深いところに入っていけたときがあった。

 

今回、西川先生からいただいた「型」をめぐる深いお言葉と合わせてさらに洞察を深めていきたいと思っています。

最上和子さんにも併せて深く感謝し続けています!

 

【 以下はそのやりとりの全文です 】 ↓↓↓

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西川祐子先生、

西川先生の実際の舞踊を初めて拝見させていただく念願がかなったのは南青山マンダラの「踊るバッハとケージ」だったでしょうか。先生がステージ奥からゆっくりと登場された際、「やっと拝見できる!」という私の中の立ち騒ぐ内面のおしゃべりは瞬時に鎮められ、私の身体の内在方向での何かが直接、「澄まされていく」というような感覚になりました。 

 

先生の指先からお身体の末端まで何かが有機的、生命的に通ったお立ち姿を拝見していたとき、私の中の身体的な大切な何かも同時に「立ち上がる」というような鮮烈な体験をしたのです。

 

私自身は音楽や声を通じた探求・創作を続けていますが、身体的には側弯などの問題もずっと抱えてきて、それを踏まえた上での改善を少しずつ試みておりました。殊にコロナ禍の状況は逆に身体に丁寧に向き合う良い機会となり、この歳になっても、生理的な発声という観点から初めて見えてくる身体内の深い連動の神秘を今でも日々感動しながら発見し続けています。

 

そのような私なりの遅々たる身体的変化も影響しているのでしょうか、その後も先生のご公演を拝見させていただく度に、以前は十分にまだ感じ取れていなかった先生の立ち居に新たな深みと奥行きを感得できる体験は続き、私の中の何かが凛として「澄まされていく」体験は劇的、鮮烈に続いていったのでした。

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その踊り手の居住まい立ち姿、小さな所作だけでも、その技芸の伝統ある崇高な型が生まれた原初の衝動を直接伝え、さらにまた今、新たな地平を生み出していく。

西川祐子先生の舞台を拝見しながら私はそれを体験し続けています。

 

直近で拝見した「清姫コンフィデンシャル」は、また不思議な体験でした。お寺という構えでありながら開演前には宗教性とか神秘性の奥行きをさほど個人的には感じなかった場所が、突如、清麗で深い真の意味で宗教的な牽引力のある空間として立ち上がってきました。西川先生が中央で扇を高くかざし見切られる白眉の瞬間に、私の内側は深い嗚咽の中にありました。

 

太古の始原から祭礼の中にも巫女などの踊りがあり、それは単なる形式や添え物としてではなく、現代の私たちの多くが想像つかないくらい実質的な力をもって人々の中に生き、人々を実体的にも支えていたのではないか。そして、そうした始原の衝動を高貴な「型」の中に落とし込みつつ継承・発展させていく歩みの途方もない尊さと重さにも思いを馳せました。

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西川先生、お伝えしたい想い、お話したいこと、感謝と讃嘆の言葉は本当につきません。是非また改めてまたご挨拶できる機会も楽しみにしております。

心からの感謝のうちに。

 

山川英毅 (ヴォイスパフォーマー・作曲家)

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【西川祐子先生よりのご返信 】 ↓↓↓

山川英毅 様

 

 風薫る季節となりました。お便り有難うございます。南青山マンダラの「踊るバッハとケージ」公演から私の舞台をご覧頂いているとのこと。嬉しく思う反面、しっかりと観て頂いていることにどれだけ応えられているかと冷汗三斗です。

 

山川様がご指摘なさったように、伝統芸能に属する芸には、日常の生活様式を磨き上げた末に生じた型があります。型は誰でもが、体を用いて我々に身についた様々な共通概念を効率的に伝える方法、と考えます。時に舞台では表現を明確にするためにオーバーアクション(傾くーかぶくー歌舞伎の語源)で誇張しますが。一方、踊り手が発声する場合はごく限られた間において極めて短いものになります。これは無論、テーマに基づく人の行為や感情、情景などが唄方・浄瑠璃方によって観客に伝えられるからで、踊り手はひたすら身体表現をもって視覚に訴えることになります。言葉によって前もって伝えられた概念を、踊りがただ‘なぞる’ばかりでは却って余分な後付の説明になりかねません。型はそれ自体が様式美であるほかに、表現したい内容を瞬時に伝える助けにもなっていると実感しています。お便りに「発声による身体内の深い連動…」とありますが、声を、言わば封じられた身にはどのような境地か大いに興味が湧いて来ました。

 

発声という言葉からはまた、師であった花柳茂香先生の呟きが浮かんできました。身体が音楽を奏でる楽器の様でありたいと。山川様の目指す身体は声を生み出すための、正に楽器となることではないのでしょうか? 楽器の如くに、発声のために練り上げられた身体、これも型ですね。もともと持っている身体、しかしながら何かを表現するために自分自身の身体を観る目を養い訓練する長い年月、この積み重ねと苦心が表現者の心を鍛え楽器を奏でる意志となる… お互いやりがいのあることに出会えたのは、感謝すべきことなのだと思います。

 

そのうち、山川様とお話しする機会、作品をライブで拝聴する機会が訪れることを願います。益々のご精進を期待しております。

 

西川祐子

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西川祐子先生、ありがとうございました!