アウグスティヌスの「三位一体論」-「包越」の体験 | 色と祈りと歌うこと - Hidetake Yamakawa (山川英毅)

色と祈りと歌うこと - Hidetake Yamakawa (山川英毅)

自分自身の中に豊かにある深いものに触れて、元気や安らぎを得るのに「色と遊ぶこと」や「自分で歌う」ことが欠かせないない気がしています。
色・音の作品や「発声法」などについての気づきもシェアしていきます。

とあるきかっけがあってアウグスティヌスの著作に再度対峙している。

 

アウグスティヌスやトマスの言説はゆっくり読み解く必要がある。学生時代にラテン語の習得と同時並行でトマスを読み始めたときは、最初は一日かけて数行しか読めなかった。文法的にとりあえず読む以上に深い思弁的な言説を自分の中に落とし込んで妥当な理解を自分の内側で統合するのにも時間がかかった。しかし、それだけ時間をかける価値のある気づきと理解が必ずあった。なにより、七百年、千五百年前の優れた魂のうごき、思考を自分の現在の中に再現、創造し、新たなインスピレーションに通わすことのできる体験は深い驚きだった。

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アウグスティヌスやトマスをそのようにゆっくり読み解く中で驚かされるのは、その精緻な議論の極点で、さらに一歩先の領域へと踏み込むインスピレーション、それを生み出す「信じる」力だ。この「信じる」は理解や現時点での認識力を超えるものへの問いを不問に付して立ち止まってしまうというのとは反対の、より高次な理解を導く契機となる積極的な知解の仕組みだ。「トマス・アクィナス理性と神秘」の著者の山本芳久氏は「信じることによる認識は、あくまでも間接的で不確実なものに留まらざるをえない。だが (中略)「信じる」という不完全な認識を持つことによってこの世界の真相に近づくことは、何の認識を持たないよりも遙かに優れたことなのだ。信じることが与えてくれる「完全性」がそこにはある」と「信じる」ことで拡張される認識・知解の仕組みを説明している。

 

 

特にアウグスティヌスは、若きに日々にはウェルギリウスの美しい詩文に心酔し、修辞学も深く学んだ弁舌の才をもつ優れた語感によって、知り得ないもののより深みに対して、その言説を行う一つ一つの時点において、あがきながら、祈りながら螺旋状に自分の内を直視 (intentio) し、垂直 (奥行き) の方向に言葉を掘り下げていく。

立ち向かっている問いに対して、より善き、高き理解と認識にむけて執拗なまでたたみかけ、もがき続ける彼のエネルギーと熱意、この魂は何に魅せられてここまで求め続けるのか?

 

 

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アウグスティヌスの「三位一体論」は 20年以上の時間をかけて執筆され、前半は神学的議論への論駁的な要請にも対応している部分もあるので、父と子と聖霊に関する実体論に関する言説も複雑だ。松岡正剛氏はこの著作とアウグスティヌスについて中沢訳の本の読後感に基づいて概説しているが、第8巻から「アウグスティヌスはついに「類比」という方法をもちだして、三位一体を問い求めることは「愛」を問い求めることに匹敵することなのだという独特の論法に入っていったのである。」と指摘し、そして、その後の議論を三位一体の類比を精神と知識と愛の三一性、記憶と知解と愛の三一性におきかえて神の存在証明にしてしまった (「デッチ上げ」「理性の虚像」)、というようなある意味素直な「批判的」な感想を書かれている。
https://1000ya.isis.ne.jp/0733.html

(中沢宣夫氏の訳本に基づいての感想のようだが、古典ラテンの訳文づくりは大変だと思う。「愛」と一律に訳される語にもラテン語でも、amor 、dilectio、そして「神は愛である」と聖書に言われているときに使われる caritas カリタスがある。私は訳書を読みながら精妙な議論の箇所でアウグスティヌスの言説で原語で「愛」についてどの言葉が使用され、どのような構造の言説なのかをやはりしばしば原文で確認したくなったりもした。また、トマスやアウグスティヌスの言説は、構造で読むときれいな日本語訳を構成できなくても明確にある種の理解を獲得できることが多い。ちょうど数学の数式を運用して美しい解が得られるような体験にも近いかもしれない。
日本語に訳す場合も、その構造のキモの部分やニュアンスを残すために生硬な表現にならざるを得ない。)

 

 

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ともあれ、私はアウグスティヌスの「三位一体」の追求が、「愛」や人間の「記憶」と「知解」と「愛」の三一性の類比に向かったことは深い必然として理解できる。美学者・中世哲学研究者の今道友信氏は、「超越ではなく包越が神の人間に対する在り方であることは、アウグスティヌスにおける神の特色である」と記している。アウグスティヌスに限定しなくとも人間の内の内在的な深みを通じて超越的な深い神的なものを直観する、それらに越え出ていく、ということは今日ではめずらしい言い方ではなくなっているかもしれないけれど、この超越の一つの在り方としての「包越」という言葉はさすがだと思った。

私自身が哲学科の学生として、トマスやアウグスティヌスの著作を読み解くことの中で体験したことがまさにこの「包越」体験だった。

私は自分のうちを通じて神的なものを含むすべての豊かさに開かれており、自分のいのちを通じて表現したり、歌うことはそれらの内在的な豊かさに越え出ていくことであり、必然なのだということにも気づかされたのだった。

 

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色々書きましたが、ちなみに上記の山本芳久氏の「トマス・アクィナス理性と神秘」は、実にすばらしい本で私が学生だったころに出会っていたらどんなに幸せだっただろうと驚喜する内容だった。(アウグスティヌスの「三位一体論」についてはトマスアクィナスなどが神学・哲学的な議論の中で多くの箇所でいろいろな部分を引用して議論と考察を深めている。山本芳久氏のこの本の中でも関連する箇所について概説も多かった)

 

先日、東大の西洋古典の教授の日向太郎さんにあって東大の西洋古典で出会われた先生や就学の過程などの話も伺えたが、日向さんや山本芳久さんのようなすぐれた研究者を輩出する東大の西洋古典(中世)学科はやっぱりすごい!と感じ入っている。