オウム真理教の村井秀夫刺殺事件で、無罪判決が出た上峯憲司(後年恐喝事件で逮捕)。
懲役12年の刑が確定した徐裕行(旭川刑務所で服役)。
この二つの判決は、いずれも安広文夫裁判長が言い渡したものである。どうしてこんな結末を迎えてしまったのだろうか。

元最高検検事の土本武司・筑波大教授(刑法・刑事訴訟)はこう語る。
「純粋に法理論的にはあり得ること。しかし一般的には奇妙に映るでしょうね。私自身、司法に対する国民の信頼を失いかねないような問題のある事態だと思います」

土本教授によれば、同じ村井幹部殺害を扱っていても、この二つの裁判は、それぞれ独立している。
徐裕行の裁判では「犯行は上峯の指示」という検察官の主張を弁護側も争わなかった。
だから「上峯から殺害を指示され、上峯との共謀の上」という起訴状通り、犯罪事実を認定した。
一方、上峯被告の裁判では、弁護側が徹底的に共謀、指示の有無を争い、検察側も徐受刑者の供述以外に有力な証拠を提出できなかった。
しかも肝心の徐受刑者の供述には疑問点が残り、「疑わしきは被告人の利益に」との大原則から無罪を言い渡した。過去にも贈収賄事件で贈賄、収賄双方の一方は無罪に、一方は有罪になったケースもあるという。
「だが裁判長の立場は随分苦しかったと思いますよ」(土本教授)。
どちらも裁判も裁判長と陪席裁判官の合議。意見が分かれた場合は多数決で決め、この場合、裁判長といえども「一票」しかなく、孤立すれば陪席の意見に従わざるを得ない。
■指示の判断疑問残る
「上峯裁判では、徐裁判とは陪席二人が代わっているから、おそらく侃々諤々(かんかんがくがく)議論の末、二対一で裁判長が負けたのでしょう。」こんな推測をした土本教授だが、徐裁判で共謀の実態や背後関係について「罪責にさほどの影響は及ぼさない」とした点は疑問が残る、という。

「村井幹部はオウム真理教関連の全事件の解明のカギを握る人物。彼が殺された時、いくら囚人環視の中での明白な殺人だからといって、こんな処理でいいのか。実行犯より、後ろで糸を引く者の方が悪質な場合が多い。仮に地下鉄サリン事件の実行犯の裁判で、サリン散布(殺人)が明白だからといって、共謀関係(麻原の指示)については「罪責にさほどの影響はない」として、あいまいなままで実行犯の刑を決めたら国民は納得しないでしょう」
そして土本教授は、こうも言うのだ。
「これは捜査が不徹底だ、という裁判所の警告ともとれる。徐受刑者の供述はウソっぽい、事件の真相が明らかになっていないと、捜査関係に暗に注文を付けたようにも思えます。いずれにしろ事件の真相が闇(やみ)として残ってしまった判決です」
当の捜査機関のうち警視庁公安部の担当課長は「何もお話することはありません。針のムシロは、この辺で…」と触れられるのを避けた。
また別の捜査関係者は「裁判長は暴力団や右翼団体の特性を知らないため、こんな判決になった。そういう意味では世間知らずといえる」と怒っていた。
参考文献:東京新聞97年3月21日朝刊16面より
●徐裕行の懲役12年は妥当なのか

(豊田商事事件)
オウム真理教村井秀夫幹部を刺殺した徐裕行に対し、東京地裁は懲役12年の判決を言い渡した。
人を殺しても何年か我慢のお務めをすれば確実に娑婆に出て来られる。おかしな話である。
1995年当時、一人殺害だと検事の論告求刑は15年の場合も無期懲役の場合もあるが、大抵は12年が基準とされていた。求刑に対して裁判所の判決は、およそ七掛け程度と見積もられていた。求刑12年なら判決は8、9年となる。さらに懲役5年を経過した時点で仮釈放の資格が得られる。十分に反省したという態度で、刑務所内でもまじめに過ごせば、刑期は八掛けぐらいに減らせるのだ。
12年という判決に対し刑期はその八掛け。一人殺して10年にも満たない刑務所暮らし、あとは自由のみになれば、殺人ビジネスが成立する(ただし、徐は服役中問題行動を引き起こし、仮釈放はされてない)。
刑法第百九十九条に、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する」とあるように、かなり大雑把な想定しかない。そこで戦後50年、平和を過ごすうちに法曹界に暗黙の了解、つまり横並びの”相場”が形成されてきた。つまり一人殺は既に述べたように数字、二人殺は無期懲役、三人殺で死刑、という線でなんとなく落着したのである。
そういう惰性の、安定した相場ができると、今度はその相場を読んで犯行に及ぶ、という殺しのプロフェッショナルが登場することになる。
実際、テレビカメラの放列の前で豊田商事の永野一男会長が斬り殺されたという大事件の犯人は、徐裕行より更に軽い刑罰で済んでいる。
実行犯の飯田篤郎に下された判決は懲役10年、矢野正計は懲役8年である。
判決文には「悪徳商法に対する義憤が動機の素地になっており、計画性も認められない」
とあるが、永野が殺されたおかげで、胸を撫で下ろした悪人が大勢いたのではないだろうか。

(飯田篤郎・矢野正計)
飯田篤郎は豊中市で鉄工所を経営していたが、刺殺事件の前年に倒産、まだ負債が4億円も残っていた。当時のリポート、溝口敦「永野一男の正体と影の”男”」(「月刊現代」85年8月号)によれば、刺殺事件後、負債は六千万円に減額していたとも伝えられる。
飯田と矢野はとうとう背後関係を語らず、「悪徳商法に対する義憤」で通した。
村井事件も同じことがいえる。徐裕行は、羽根組の上峯憲司の指示でやったと自供したが、では誰が上峯に依頼したかはということは上峯が全面否認を貫き通したため、結局わからずじまいとなってしまった。
”量刑の相場”という惰性が横行した結果、オウム事件の全貌は徐裕行の手でかき消されてしまったのである。
参考文献:(「週刊文集」95年11月30日号・ニュースの考古学 猪瀬直樹 徐裕行被告「懲役12年」で問われる「量刑の相場」)