
(改装前の旭川刑務所。)
懲役12年。村井秀夫やその家族、村井に殺された犠牲者のために与えられた、償いの期間である。しかし、受刑者の徐には贖罪などどうでもよく、大した問題ではなかった。
徐裕行「だらだらと楽しく過ごしても12年。何かに打ち込んで過ごしても12年。同じ12年を過ごすなら、大学に入ったつもりで、一所懸命勉強してみよう」。
上記の回想からは贖罪の言葉はない。
それどころか刑務所と大学を履き違えた態度を見せており、罪の意識は皆無である。
また、徐は法廷で上峯に不都合な証言をしているため、再度出廷を拒んだ経緯があるが、報復に怯えた様子も無い。刑務所の中で、徐はのびのびと過ごしていたのだ。
徐裕行「外部から隔絶された世界である刑務所は、外の世界のように楽しみへの誘惑も存在しない環境にある。そうした環境の中では、内省し自分を高めていくことも比較的簡単にできるのではないか。そう考えると刑務所生活もまんざら悪いことばかりとはいえないかもしれないと思いました」
●徐裕行の読書生活
刑務所生活は単調だった。読書の習慣をつけていた徐は、刑務所に備え付けられていた「官本」を借りると、月20冊のベースで読み続けた。肉親が尋ねにくると、徐は読みたい本をリクエストし、毎月5冊差し入れしてもらった。
父母は3ヵ月ごとに交互で面会に訪れた。手紙も毎月1回は送ってくれた。
当時、旭川刑務所は運動日と入浴日が交互にあり、それぞれ1日おきに実施されていたという。
旭川は雪国ということもあり、1年の半分は体育館でバトミントンや卓球などをして遊んだ。冬場は「外役」がグラウンドに大きなスロープを造り、スキーやそりをするイベントもあった。夏場はソフトボールが行われた。
徐裕行「僕も子供みたいに、わいわい楽しんでましたよ」
刑務所生活で最も楽しめた日は大晦日の晩から1月3日までの間だった。ご馳走や甘いお菓子が受刑者に振る舞われ、徐にとっては一番の贅沢だった。
●「刑務所は社会の縮図であり、学ぶべきことも多い施設」
当時、短期受刑者と長期受刑者は刑務作業が分けられていた。
短期受刑者の場合は、刑務所の修繕などを行う「営繕」や、雪かきや草刈り、資材の運搬を行う「外役」、刑務所からは慣れた農業で作業を行った。

(木工場)

(印刷工場)
長期受刑者は一般工場で作業することが決められ、金属工場、木工場、印刷工場、靴工場などで働いた。しかし、徐が服役してから5年後からは制度が改められ、短期受刑者も一般工場で作業するようになった。また、受刑者達は暴力団員が多く、統率力があり、皆作業態度はまじめだった。

(徐が働いた金属工場)
徐が割り当てられたのは金属工場だった。そこで金属加工や溶接の仕事を学んだ。
ある時、教官が北欧製の巻きストーブを持ち込み、これを参考に巻きストーブを作ろうと提案してきた。徐と受刑者たちはストーブを細かく採寸すると、製図を引いて制作した。
作品は刑務所製品のコンクールに出品され、賞をとるほど好評だったという。

(旭川刑務所で制作されたストーブ)
刑務作業が終わると、徐は受刑者たちと舎房に戻り、他愛のない雑談をして過ごした。受刑者たちから村井刺殺についてきかれたり、過去の武勇伝について語り合った。短期受刑者は覚醒剤事犯や窃盗犯が多かった。覚醒剤常習犯同士が、シャブ談話を始めたときはまったく話に入ることができなかった。
徐が特に魅了されたのは、50代半ばの窃盗常習犯の話だったという。男は窃盗をしながら日本中を旅しており、全国の道に精通していたという。あまりに詳し過ぎるため、”人間ナビゲーター”のようだった、という。
徐裕行「聞いていて飽きない、興味深い話が多かった」。
●徐裕行の所持金額
作業所で働くと、受刑者達には僅かながら「作業賞与金」と呼ばれる賃金が与えられた。
最初の8ヵ月間は月600円から1,000円程度しか与えられず、7,000円しか貯められなかった。しかし、それを過ぎると「作業賞与金」は上がり、最終的には月1万2,000円ほど手にすることができた。徐はこの賃金の一部と領置金を使い、本や生活用品などを買って過ごした。ただ、監獄法改正前は本の購入は月3冊までしか許されなかった。
懲役で稼いだ金は社会復帰の際に役立てるのが建前だったが、2、3年の短期刑ではせいぜい5~6万円しか貯められなかった。誰かの協力なしでは社会復帰や更生は不可能である。
12年収監されていた徐も、2300万円の負債が残されている。このまま出所しても、裕福に生きるのは大変困難な筈である。
●徐の独房拘禁

旭川刑務所の刑務官は皆親切で人情味があった、と徐は回想している。
しかし、慰問で訪問した人物によると、旭川刑務官は、受刑者たちの前では非常に恐ろしい表情をしていたという。
ある時、徐は問題行動を引き起こし、自身の不徳から独居房に収監される羽目となった。この時徐がどんなトラブルを犯したかは定かではない。本人が詳細を語りたがらないあたり、相当苦痛に感じたようだ。刑務官の怒りを買った徐は独居拘禁されることとなる。
独居拘禁には、「夜間独居房」と「昼夜間独居房」の二種類ある。
夜間独居房とは、昼間は工場に出役して他の受刑者とともに働き、夜間は一人で舎房に過ごす、特別待遇のようなものである。
「昼夜間独居」とは「厳正独居」とも呼び、受刑生活の中で問題行動を起こした者が、昼夜、独居に収監される処罰である。収容されるものは概ね次の者をさす。
①一般受刑者と共同生活することが困難なもの
②受刑者の処遇上、独居生活が好ましいと思われるもの
③取り調べ、または懲罰中のもの
④入居時新入教育、または出所前教育中のもの
⑤病棟に収容しきれないときの代用病棟として
徐は昼夜間独居に2年間、収監されることとなった。
徐が収容された独居房は三畳ほどの個室で、トイレの便器と流し台がむき出しに設置されていた。懲罰中は1日8時間そこに座ったまま過ごさなければならなかった。
一応、本や新聞、ラジオの利用はできたが、他の受刑者との接触は禁止されているため、雑談相手がいない状態で過ごさねばならない。1日おきに30分程、運動する機会が与えられたが、一人でしなければならず、孤独な日々が続いた。
監獄法が改正されると、徐は他の受刑者と一緒に運動することが認められた。声を掛けると、相手は30年以上も独居拘禁生活を続けていた。その男は嬉しそうな様子で、次のように語ってきたという。
受刑者「最近、北朝鮮からミサイルが発射され日本海に落ちたでしょう。あれはね、私が撃ち落としたんですよ」
徐によれば、男はまともな会話ができなくなっていたという。
受刑者の支離滅裂な話を聞いて、徐は長年の独房生活が祟り、精神異常になったのだと解釈した。
2年間の拘禁生活で徐は失語症、拘禁病になった、後遺症が残ったと主張している。また、この経験を引き合いに、麻原の精神異常も詐病ではなく、拘禁生活によるのものだとしている。
(当ブログは犯罪者の主張に同調するものではない。よって徐の主張について詳しい言及は避ける。)
参考文献(徐裕行のブログ2012-01-09 )(刑務所のタブー 別冊宝島社2013-03-19)