徐裕行が所属していた羽根組は、山口組と深い関係にある暴力団である。
そして、山口組構成員の中にもオウム真理教の幹部が存在した。

ーー「オウムには、穏健派も武闘派もありません。すべて一様です。わたしなどは、いってみれば、全宇宙オウム連合麻原一家のただの若い衆です」オウム真理教建設省・中田清秀ーー
中田清秀は1947年11月3日、名古屋市北区で生まれた。
「日刊スポーツ」(95年6月29日朝刊)、「サンデー毎日」(95年5月14日)より
中学2年のときに父親が銭湯の事業に失敗し、各地を転々としながら貧しい生活を送った。
北海道のアパートで一人暮らしをはじめた中田は、そこで暮らしていた暴力団組員の影響を受け、暴力団事務所に出入りするようになった。
最初に飛び込んだのは在日系暴力団柳川組。
初代組長は梁元錫(通名:柳川次郎)、2代目は康東華(通名:谷川康太郎)である。この暴力団は終戦直後在日愚連隊として闇市でトラブルを繰り返し”殺しの軍団”と呼ばれた。
この実力を認めた山口組三代目組長・田岡一雄は、柳川組を傘下組織に入れ、日本全国へ勢力拡大をはかっている。田岡一雄が闇市で暴れる在日朝鮮人を取り締ったという美談を未だに信じる者も多いが、実際は虚像に過ぎず脚色である。
在日闇社会に入った中田は、そこで高利金融や土建業をシノギとしながら修行を積んだ。柳川組解散後には、小車誠会清田会の会長代行となり、秀政一家を率いるまでになった。
「いつもは『ヒデ』と呼ばれ、人付き合いもいいんだけど『俺はいつ死んだっていいんだ』と言うのが口癖で、一度思い込むと何をやるかわからんところもあった」(中田を幼少から知る暴力団関係者)
「10メートル先の一斗缶に5連発で5発とも命中させた」
けんか強さと短銃の腕には定評があったが、1984年に銃刀法違反で逮捕され1987年まで広島刑務所に服役した。
●中田のオウム入信

出所後の1988年、中田は神奈川県丹沢の集中セミナーに参加し、オウムへ入信。
「マハーヤーナ」(1988 NO.10)によれば、中田の妻は熱心な阿含宗信者であり当初入信に反対したとされるが、「日刊スポーツ」(95年6月29日)では先に入信した妻が差し入れた麻原の著作を読み、教団に入信したという。
中田と親しかった元信者「四人の子供のうち、下の二人が目が悪かったことに本人が悩んでて、新興宗教に関心のあった妻にオウムの話を聞いて、興味を持ったそうです」「サンデー毎日」(95年5月14日)
繁華街で布教のビラをまくなど、中田の熱心な布教活動を見て暴力団は煙たがるようになったという。そして組幹部は中田に「組をとるか、オウムをとるか」と迫った。中田は迷わずオウムを選び組を破門された。この時までに中田は前科9犯を犯していた。
90年3月30日に出家。ホーリーネームは「ジョーティス・パタトヴァチャ・ウパスータカ」。名古屋の実家の借地権や北海道・小樽の所有地を寄贈。時価4000万円の横山大観の絵を3000万円で売り払って、その金も教団に布施した。
中田は早川紀代秀の下、建設省の幹部として熊本県波野村や山梨県上九一色村の土地購入に尽力し、波野村から和解金9億2000万円の和解金取得の立役者となった。波野村に凱旋右翼が殴り込むと、中田は「殺すぞ!」と大声で怒鳴り返したという。
出家してしばらくは音信が途絶えてたが、一年半程してから、ときどき名古屋の知人たちのところに顔を出すようになった。93年頃に新宿でばったり中田に会った暴力団関係者は、中田のおごりでクラブを2軒はしごした。
「彼は『オウムの特攻隊長をやっている』と話していた。『シノギはどうしているんだ』と聞くと、『教団から月100万くらいもらっている。あんたも入らないか』と誘われた」(暴力団関係者)
●オウム真理教、白川郷へ進出
1994年秋。
早川紀代秀と中田清秀は飛騨高山の村を訪れた。白川郷の合掌造りが点在するこの村で、2人は教団用の土地取得を目論んだ。岐阜県飛騨高山の30万平方メートルに及ぶ山林に、オウム帝国が出来上がる計画である。その広さは上九一色村の所有地の7倍にあたる。
「彼らは真言宗の宗教法人と名乗り、本部移転のために土地を探しているんだと言って、何人もの地主を回っていました」(地元の不動産関係者)
地元住民によれば当時、中田は「ここではウラン採掘ができる」と語っていたという。結果的にはサリン事件で買収計画は頓挫したが、警察によれば、オウムはこの地を山城に見立て「オウム城」を築き上げようとしていたという。
94年11月19日。
中田は静岡県風金町の路上で電気工事業者(当時47)に「大手住宅メーカーから直接下請けができるようにしてやる」と持ちかけ断られたことに難癖をつけ、「このままじゃ済まさんぞ、足代を出せ」と20万円を脅し取った。
95年1月から3月にかけては、愛知県の知人に拳銃やダイナマイト入手の依頼をしていたとされる。
●露天商・中田清秀
95年2月、新宿・歌舞伎町のアルタ横。
新宿通りに面した歩道上で、中田は若い女性信者を勧誘しようと露天を開いた。
質素な屋台には、看板に「コンピューター占い」とだけ書かれている。周囲は青いビニールひもで張り巡らされていた。
中田「お客さん、やってかない?」
サングラス姿の中田は、若い女性に次々と声をかけた。
1回300円。手を乗せると占いがプリントアウトされる簡単なものだった。
コンピューター手相占いは90年代初頭に、新宿、渋谷や銀座の歩行者天国などで10代の女性を中心に流行していた。中田はそこに着目したのだが、この頃までにブームはすっかり下火となっていた。
結局は失敗し、中田は1ヵ月で店を閉めた。
近所の商店主「あの風貌ではどう見てもミスマッチ。客の入りはサッパリだった」
近くのOL(24) 「占いに興味ないし、怖かったので素通りした。テレビを観ていてソックリだと思ったが、やはりあの人だったんですね」
1995年4月13日。

この日、中田は午前4時過ぎからフジテレビ系「おはよう!ナイスデイ」のVTR取材に応じた後、六本木に向かい、午後2時からテレビ朝日のワイドショー「パワーワイド」に村井、上祐らと共に出演した。その直後に局の地下駐車場で任意同行を求められ、脱会信者を連れ戻す際に恐喝したとして、恐喝容疑で麻布警察署に逮捕された。

逮捕後、中田はヒゲをそり落としヤクザ特有の精悍さを失った。さっぱりしていたスキンヘッドも側頭部には毛がはえ、落ち武者のような外見になってしまった。
「私は尊師が好きだ。尊師を主として尊敬してきた。悲しくてたまらない」
中田は大粒の涙をぽろぽろ流して男泣きに泣いたという。
獄中生活では自分の二男に以下の手紙を渡している。
中田「頭の毛がなくなりました。今度来るまでにショートかつらを買ってください」
これを見た取調官は「獄中でショートカットのかつらをかぶってどうするんだ」と首を傾げた。

山口組の「オウム通達」
4月14日。
「緊急通達」と題する一枚の文書が広域指定暴力団「山口組」総本部(神戸市)から、全国の傘下団体にファックスで送信された。
<現在騒がれている、オウム真理教の件について>
と記されたその文書の指示内容は、以下のようなものだった。
一、山口組傘下団体全員のオウム真理教入信者の調査をせよ。
二、もし組員の入信者が居る場合 オウム真理教を脱退するか、山口組より除籍するか、明確にせよ。
三、万一、山口組傘下組員のなかに、現在、もしくは過去に、入信者が居た場合は速やかにブロック長に報告せよ。
「その文書が届いたのは、当日の夕方頃ですわ。現在では私らヤクザも何かあると、総本部からファックスで緊急通達が送られてくるのは珍しいことじゃない。最近では、神戸大震災の時にも”ボランティア活動は個人的にやらないで窓口は総本部一本に絞るように”という通達がありました。しかし、今回のような内容は前代未聞やね。正直言って、ここまでやるか、と思いました」(山口組関係者)
オウム信者の中に、山口組系の元暴力団員がいることはかねて知られていた。
4月12日に大阪府内で元組員の秦野信一(当時45)が逮捕。
続いて、13日には元組長でオウム「実行部隊」幹部の中田清秀が都内で逮捕された。
(山口組総本部関係者)「ウチとしても、これだけオウムが世間で騒がれている以上、それに絡んで組の名前が出るとイメージが悪い。この際、調査をして、関わりがないことをハッキリさせたいということで、通達を出したんです」
もともと、山口組では中田は8年前に破門、秦野は5年前に絶縁という形で組とは縁を切った人間という認識だった。
「しかし、オウムと山口組との関係が取沙汰され、渡辺芳則・五代目組長以下、上層部もかなり神経質になっていたことは事実です。実際、今回も緊急通達に先立つ4月5日、全国123の直系組織組長を集めて開かれた『定例会』の席上でも、オウム真理教と名指しはしませんでしたが”新興宗教とは関わりを持つな”という指令が出されていましたからね」(暴力団担当記者)

●ポケベルで招集
相次ぐ元組員の逮捕劇。1月に阪神淡路大震災の炊き出しで稼いだ得点を失っては一大事とばかりに「緊急通達」 発令となった。
当時、山口組の構成員は当時全国で約2万3000人。ファックスを受信した組長たちは、どう対応したのか。
「今回の通達は、異例であると同時に、その文面から見ても、総本部のかなり強い意思が読み取れた。これは、もしオウムの信者が居て、それを処分できんようだったら、お前が組を辞めろ、ということです。ですから、ウチでも百人を超える組員を、さっそくポケベルで呼び出して、調査を開始したんです」(山口組関係者)
「その結果、本人ばかりでなく、家族、親戚も含めて、幸いオウムに入信している者はいなかった。そこで翌日の15日昼までには、さっそくブロック長にその報告を上げました。そこら辺は、私らヤクザは対応が早いですからね」
調査はすぐに完了したという。そして
「秦野、中田以外には元組員を含めて山口組にオウム信者はいない」(山口組総本部)
と、山口組は公式見解を示した。
しかし、メディアの間である噂が流れた。
静岡県を拠点にする山口組直系の有力団体が、オウム真理教と関わっているー。
「週刊新潮」(4月27日号)では以下の情報が載っている。
「オウムと暴力団をめぐっては、山口組傘下のある組が土地取引を通じて、密接に関わっていると見られている。坂本弁護士拉致事件でも、実行犯の一人は暴力団組員といわれており、山口組もまだまだ安心できないのではあにでしょうか。ましてや、中田らのように元組員の信者となるといくら通達を出しても、通り一遍のことでは、調べようがありません。今回の調査結果も、どこまで信用していいものか甚だ疑問ですね」 (暴力団に詳しいあるジャーナリスト)
このジャーナリスト名前は伏せられており、情報の出所を確認することができない。
坂本弁事件では、主犯の他に暴力団の存在や別働隊の存在がささやかれていた。だが根拠が乏しく、犯行はオウムの犯行ということで決着した。しかし、オウムと土地取引をしていた暴力団は実在した。そして、この暴力団が、村井秀夫刺殺事件のカギを握る存在であり、徐裕行の受取皿となっていたのである。